No.159 お墓の中まで その6

このお話はフィクションです似たような,名前、事柄が出てきましても、偶然の一致で、実在の人物、実際の事件とは全く関係ありません。又、実在の地名が出てきましも、フィクションの中の一場面として利用しているだけで、実在の土地、人物、家名とは無関係です。

 

その16

翌朝、眠れないままに、早く目覚めてしまった久美は、自分の隣に、母が寝ているのに気付きました。
母は、横向きになって、両手を久美の方に差し伸べて、久美を抱きかかえるようにして眠っておりました。
顔に幾筋もの涙の痕を残して眠っている母親の顔は、とても頼りなげで、悲しそうでした。
その顔を見た時、久美は、これ以上悲しませるような言動は避けようと固く心に決めました。
考えてみれば、子煩悩な母親です。僅かな時間の逢瀬(おうせ)の後、再び、子供と別れて暮らさなければならないと言う事一つをとっても、彼女にとっては、耐えがたい辛さであるに違いありません。
それが、その上、親からも、身内や友人からも別れて、夫以外は、知らない人達ばかりで、言葉も満足に通じない異国へ、それも平和な時ならまだしも、動乱の真っ只中にあって、命の危険性さえ伴っている異国へと、出かけて行かなければならないわけですから、母親の寂しさ、辛さ、心細さは、久美なんか比べものにならないほどであろう事は、容易に想像できました。
久美は、母親を目覚めさせないように、そっと起き上ると、浴衣に着替え、窓から、裸足(はだし)のまま庭に降り立ち、そのまま、海の方へと足を向けました。
まだ朝早いせいか、あるいはもともと、この辺りは別荘地で人が少ない為なのか、海岸沿いの道を通る人も、海辺を歩く人の姿もありません。
白い砂浜が拡がる、潮の引いた海岸には、沢山の小蟹が、忙しそうに走り回り、それを追っかけて、一匹の柴犬が遊んでいるだけでした。
風の殆ど無い朝の海は穏やかで、透き通った海水が、小さな波音を立てながら、波打ち際に、寄せたり返したりを繰り返しておりました。
水際までやってきた久美は、辺りを見回し、誰もいないのを確認すると、思い切って浴衣の裾(すそ)をたくし上げ、その端を帯にはさむと、水に足を浸しました。
前日の日射の影響の残る海の水は、ひんやりする程度で、気持ちがよく、潮の匂いの混じった朝の空気を胸一杯に吸い込みながら、浜辺に打ち寄せる波と戯れていますと、昨夜来、頭の中に澱んで(よどんで)いた、もやもやしたものが、綺麗に吹きとんでしまって、とても爽やかな気分です。
先ほどまで蟹を追っかけるのに夢中だった、あの柴犬が、いつの間にか潮と戯れる久美の足下に寄ってきて、久美の浴衣の裾にじゃれつきはじめました。
「痛い、痛いがね。やめて、跳びつかないでよ。ほら、お前が跳び付いたもんだから、こんなに濡れてしまったじゃない」と言いながら久美は、浴衣をさらに高くたくしあげて、さらなる深みへと逃げました。
しかし犬は構わず後を、追っかけてきて、水飛沫(みずしぶき)を上げながら、跳びはね、跳び付き、なおもじゃれつきます。
「こらー、いたずら坊主め、懲らしめてやるぞ。こりゃ待て、こりゃ待て」と言いながら追い掛けますと、犬はよろこんで、逃げ回ります。
追い掛けるのを止めて後ろを向くと、すかさず、また戻ってきて、悪戯をくりかえします。
しばらくこんな追いかけっこをしていた久美は、そろそろ帰らなければと思い、海から上がって、歩き始めました。
犬も尻尾を振りながら後をついてまいります。
「何、お前、もしかして捨て犬?一人ぼっちなの。それじゃー、私の所へ来る?」と言いながら、頭を撫でようと、しゃがみ込みますと、「そうです」と返事をしているかのように、その犬は尻尾を振りながら久美にすり寄り、久美の差し出した手を、舐めはじめました。
「まあ、可愛い」と言いながら砂浜に座り込んで首を、抱き寄せますと、「クィーン、クィーン」と小さな甘え声を出しながら顔中を、ぺろぺろと舐めます。
「よしよし、お前も一人ぼっちで寂しかったのだね。それじゃうちの子になる?」と言いながら、自分の髪を結んでいた赤いリボンを、犬の首にまきつけようとした時の事です。
「ゴロー、おいで」と言う若い男の声が後から降ってまいりました。
誰もいないとばかり思っていた所へ、突然の人の声、驚いた久美が振り返り、仰ぎ見ますと、そこに、ちょうど、従兄の寛太くらいの年頃の青年の顔がありました。

 

その17

「イ(ギィ)ヤーッ」誰もいないと思っていた所へ、思いもかけない人の姿、それも若い好感のもてそうな青年の出現に、しどけない(服装が乱れて、しまりがないの意)格好をしている自分に、とり乱した久美は、言葉にならないような悲鳴をあげると、慌てて跳び上がり,逃げ去ろうとしました。
所が、あまりに狼狽(ろうばい:慌てふためくこと)していたので、足下にいた犬に躓いて(つまづいて)、顔を砂浜に突っ込むような形で、転んでしまいました。
「イテテ」慌てて砂を払い落としながら起き上った彼女は、その時気づきました。
ザンバラ髪で、砂まみれの自分の姿に。その上濡れた浴衣が身体に貼りついて、まるで裸になったかのように、身体のラインが透けて見えている、あられもない(とんでもない)姿に。
一度立ち上がりかけた彼女は、自分のその姿に、思いが至った瞬間、まるで呪文にでも掛かったかのように、身体の力がぬけてしまい、ペタンと砂の上に座り込むと、膨らんだ胸元を両腕で覆いながら、首筋まで真っ赤にして突っ伏してしまいました。
見渡す限り、海と砂浜です。身を隠す所など、何処にもありません。
久美は身体を竦ませ(すくむ)ながら、「いやっ、もういやっ、早くどこかへ行って、早く早く」と口の中で呟いていました。
所が、彼女の願いとは逆に、その青年はむしろ近づいてきました。
「ごめん、ごめん。朝のうす明りで、良く見えなかったものだから、ザンバラ髪の黒い人影をみて、てっきり、ここら辺りの漁師のおかみさんだとばかり思ってしまって。
まさか、こんな時節に、若いレディが、こんな所にいらっしゃったとは。
御免ね。良かったら、これ使って。洗いたてで、綺麗ですから」と言いながら、タオルを差し出しました。
俯いた(うつむく)まま、引っ手繰るように(ひったくる)タオルを受け取るには受け取った久美でしたが、タオルを手にしたまま動く事が出来ません。
青年の目が気になって、どうにも身動きが出来ませんでした。
もじもじしている久美を見て青年は、「アッ、そうか、僕が近くに居てはいけないのだね。
気付かなくて御免。僕、こういう性質(たち)だから、いつも妹の英子に怒られるのです。じゃー、向こうの方へ行って番をしているから、安心して身体拭いて。
もし誰か人が通るようだったら、大声で知らせるわね。
さー、ゴロー、行くよ。おいで」と言うと、海岸の縁(へり)に建つ石垣近く迄離れて行ってくれました。

 

その18

「ただ今」明るい久美の声が、家の中一杯に拡がります。
「お帰り。朝早くから、何処へ行っていたのよ。
あらあら、びしょ濡れ、砂まみれになって。何をしてきたの、一体全体。まさかその恰好で、泳いできたわけじゃないでしょ。
ともかく、早くお風呂場に行って、洗い流していらっしゃい」
「ウン、ちょっとそこらまで、散歩に。
ついでにちょっと、海に足を入れてみたの。
とっても気持ち良かったよ。お母ちゃん達も、何時までも寝てないで、早起きして、散歩してみたら。空気はおいしいし、海の水は綺麗だし、とても爽快な気分になれるわよ」
「それにしても、馬鹿にご機嫌だこと。何か良い事があった?」
「ウン、ちょっとね。お母ちゃん、知っている?」
「なにを」
「家から200メートルくらい北にある、別荘に住んでいる人の事」
「知らないわよ。そんなの。だって私達、ここに、まだ来たばかりだもの。
でも、この別荘地に、まだ人がいらっしゃるの。こんなご時世ですから、もう使われていない家(別荘)ばかりだと思っていたのに」
「それがそうでもなかったの。ここから約200メートル北東に、二階建ての洋館があったでしょ。ほら、電車でここに来る途中、目に入った、ちょっと目立った、こ洒落た家。
あそこにね、若い男の人が一人で住んでいらっしゃるの。それがね、とても良い人なの。背が高く、ハンサムで、しかもジェントルマンで、優しいの」
「私、その人にタオル借りちゃった。後で洗って返しにいってもよい?」
「駄目よ、そんな事。
そんな身元もはっきりしないような若い男の所に、年頃の娘が、一人で訪ねていくなんてとんでもない。お婆ちゃんが聞かれたら、なんとおっしゃると思う。そう言う、無防備で、危なっかしい所があるから、お母ちゃんは、心配でしょうがないのよ」
「大丈夫よ。私だって人を見る目があるから。それに、(家の)中に上がるわけじゃなく、立ち話でお礼を言ってくるだけだもの。
お母ちゃんはそういうけど、身元だってきちんとした方よ。名古屋の山之内胃腸科の息子さんで、第八高等学校の生徒さんだそうよ」
「それじゃ、その人、大学への受験勉強をする為、この夏、こちらで過ごされていると言うわけ」
「そうじゃないみたい。一年半くらい前からずっと、こちらに来ていると言っていたから」
「それで学生さん?じゃー学校へは?」
「そんな詳しい事まで聞かなかったから知らないわ。でもね、お母ちゃんが心配するような人では、絶対ないから」
「まさか“アカ”で、警察に追われているとか、停退学になっているとかという危険分子じゃないわね。
もしそれだったら、絶対に近づいちゃ駄目だからね。憲兵にでも睨まれようものなら、お父ちゃんも困るし、貴女自身だって、とんでもない目にあう事になるからね」
(註 アカ:その当時、共産主義者だとか、無国籍主義者(※)、反戦運動家のような時の国家体制に反対していて、憲兵や、警察による取り締まりの対象になっている人に対する、庶民側の呼称)
「いずれにしても、貴女が自分で、タオルを返しにいくのはちょっと待って。お母ちゃんが、その人の事、調べてみるから」
「調べるって?」
「この別荘の管理人のおばさんに、聞いてみるわ」
「フーン、そんな必要ないのに。お婿さんを探そうというわけじゃーあるまいし。どうせ長くても2週間ちょっとで、お別れする事になる、ほんの、行き擦りの人にすぎないというのに。まあ、お母ちゃんが心配なら、良いけど」

 

その19

「久美ちゃん。あの別荘の人ね、ほら昨日タオル借りたと言う青年」一緒に、朝食の支度をしていた時、母親が切り出しました。
「ウン、どうだった」と久美
「本当に八高の学生さんだって。あんたが聞いてきた通り、名古屋の千種区にある山之内胃腸科という、とても有名な医院の息子さんに間違いないそうよ
名前は山之内淳志(あつし)さんと言うそうよ。真面目で、お金持ちの坊ちゃんらしい所のない、とても気さくな人で、人柄的には申し分のない人だって」
「そうでしょ。そんな変な人とは思えなかったもの」
「でもねー、一つ問題なのは、その人、胸が悪いらしいの。だから今は休学して、ここで療養中なんだって」
(註 胸が悪い:当時は肺結核の事を指す)
「フーン、そうなんだ。若いのに可哀そうに。でも、見た所、病人とは思えないほど元気そうだったけど」
「でもねー、あの病気はうつる(感染する)から、気をつけないと」
「心配ないよ。私、丈夫だから。病魔なんか、私の姿を見たとたん、向うから、尻尾を巻いて逃げだすくらいなんだから」
「それに昨日も言ったように、私、別に、大した(たいした)ことをしに行くといっているわけじゃないのよ。ただ借りたタオルを返しにいくと言っているだけなの。
そんな大騒ぎするほどの事じゃないと思うけどなー」と口をとがらせて久美。
「そうかしらねー。でも、若い男の人の所に訪ねて行くのだから、お母ちゃんだけでは決められないわ。お父ちゃんにも聞いてみるから、それからにして」
(註:当時は、「男女7歳にして席を同じゅうすべからず」などといわれたほど、男女交際には、厳しい世間の目が注がれていた時代でした。従って良家の子女が、独身の男性と二人だけで話しているのをみられると、それだけで、世間の好奇の目と非難の声に曝される恐れがありました。
まして、久美達のような女学生には、男女交際は固く禁じられていて、文通をしていただけでも、そんな事が学校に知れると、停学または退学処分になりました。許嫁(いいなづけ)は別でしたが)
(※)戦時下にあって国家に忠誠を誓い従順に言うことを聞いてくれない人々を指す、危険思想の持ち主の別称みたいなものとして捉えています。

次回に続く