良い人とは?良い絵とは?

あの人は良い人だとか、悪い人なんていう言葉時々聞きませんか? 又貴方自身も使ったりしたことはありませんか。

良い人ってどんな人の事を言ってますか?

一般の人が使っている良い人と言うのは、他の人に対して嫌なことを言ったりしたりせず、人の嫌がる事は進んで行ない、人が助けを求めている時は自分の損得を考えず助けにいくといった人、即ち宮沢賢治の詩にある「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」のような「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負」うような人の事をさしているのですよね。

でも此れってよくよく考えてみますと、そういう人と言うのは自分にとって都合の良い人と言う意味なのかもしれません。

また「あの人は変わっている」とか「変わっている人だから」と言った言葉もよく使われる言葉です。

でも、これも考えてみますと、良い人と言った言葉遣いと同じように、自分というものを基準にして、それよりどちらかに傾いていれば「あの人は変わっているから」と言った風に使われていることが多いですよね?

しかし、厳密に言えば変わっている人と言うのは、人間の考え方、行動パターン、性格などと言ったものをひっくるめた指標を作り、それを標準偏差曲線の上に現した時、中央に位置する大多数に対して、左右のいずれかに極端に偏っている少数の人を指すべきです。

そして、そのような変わっている人が必ずしも駄目と言う訳ではありません。

むしろ、人類の歴史を振り返ってみますと、偉人だとか、天才などと言った、いわゆる時代を変革しリードしてきた人は、このような変わっている人の群の中から出てきている事が多いわけです。

ところで、私どもが絵画を見る時も、良い絵かどうかと言った評価をします。

しかし、この良い絵と言った意味も複雑です。人によってさまざまです。

まず一番多いのは素人的な見方で、対象にそっくりに描(えが)かれている絵です。それから少し絵を見る事に親しんでいる人になりますと、批評家達が良いと言っている絵、業界をリードする画商によって推奨され、それによって皆から認められ出した絵、歴史の評価に耐えて長い時代に渡って良いと言われてきている絵、そしてある種のオピニオンリーダーに引っ張られる形であるいは、そのような人の見方を借りての鑑識眼でもって(私たちがお抹茶の茶碗を見る時、利休や織部の茶碗を見る目を借りてみているように)良いと認識している絵が(学校における美術教育の影響もあって、一般の人はこういった見方の人が多いわけですが)良い絵と言われます。

しかし、もう一度疑ってみて下さい。多くの人が良いと言っていた絵が本当に良い絵なんでしょうか。

今までの絵画評価の歴史を振り返ってみると、一時代もてはやされた絵画の中には、ある時を境にして評価の対象にもなら無くなってしまったようなものも少なくないのです。逆に、それまで全く評価されてもいなかったような人の絵画が、ある時、見直され脚光を浴びてくるといったような例もあります。

そして、そうなってしまえば、今まで振り向きもしなかったような多くの人達がぞろぞろとこれを鑑賞するために訪れ、そして賛美するのです。

ここに私たち画商の苦しみもあり、収集家の悩みもある訳です。

本来、画商と言うものは先進的な目、即ち鑑識眼を備えていて、時代を先取りして良い絵を見つけ出し、それを世に送り出し、お客様にお勧めすべきなのでしょうし、そのような画商の方もいらっしゃいますが、お客様の中には資産的な価値を求める方もいらっしゃるので、そのようなお客様にはそれほどのリスクを負わせるわけにもいきません。

実際には多くの人が見向きもしないような作品の中に本当は素晴らしい物が入っているかもしれないにもかかわらずです。

収集家また然りです。よく絵画の事を勉強し、よほどの財力と、勇気、鑑賞眼を備えている人でない限り、いまだ評価も定まってないような作家の絵画を、人に先んじて此れを集めると言った冒険を出来る人は少ないのではないでしょうか。

例えば、認められる以前のゴッホの絵、キュビズム時代のピカソの絵、構成主義のカンディンスキーの絵、ポロック、デ・クーニング等の抽象絵画にしても、今でこそ認知されておりますが、人に先駆けてこれらを集める勇気のあった人がどれだけいたでしょう。

ミロの展覧会に来ていた中年の女性がいまだに「まるで子供の落書きみたい」といってらっしゃった事がありますが、此れが一般的な庶民感覚だと思います。

即ち、どんな素晴らしい作品でもそれが先進的な物である限り、一般に認められるようになるには時間がかかると言う事です。そして、それまではその作品は、変わった絵、とんでもない絵で、収集している人以外には「子供の落書き」でしかないのです。そういった作品の中にこそ絵画の歴史の中で時代を画する(かくする)奈良美智やバンクシーのような素晴らしい作品が含まれているかもしれないにも拘わらず(かかわらず)です。

ドゥードゥルという画家をご存知ですか。ドゥードゥルという英語は、もともと「落書き」という意味なのですが、最近では、彼の作品は、とても洗練されたアートとして、注目を集めています。

しかし、こうした時代を先取りした作品は 万一、その人の鑑賞眼に同調し、賛同してくれる人が数多く現われない場合、永久に「落書き」で終ってしまう危険性もあるのです。

それだからと言って、みんが良いと言う作品だけを集めるというのも、ある程度以上の見識を持っておられる収集家にとっては これまた味気の無い話です。

さてさて悩みは尽きない物です。

ごまめの歯ぎしり。

長崎の平和公園と原爆資料館に行ってきました。

一瞬のうちに市の人口の約3分の1、7万3千人の人が死亡し、7万4千人の人が傷ついたと記してありました。

日本がポツダム宣言を受諾したのが8月15日ですから、その僅か6日前の惨事です。

被爆者たちは今もその後遺症におびえ苦しんでいるといいます。被爆し眼球の抜け落ちた浦上天主堂のマリヤ様のうつろな目はその瞬間の何を見たのでしょう。さらに悲しいことに、そのような状態にあっても差別が行われ、朝鮮から強制徴用されてきた人たちの遺体は葬る人もなくほおって置かれ、烏がその目玉をつつき身体をついばんでいたということです(これは資料館のナレーションで言っていた言葉で、本当にあった光景だったか多少誇張されている話なのかわかりません。私としてはこれが誇張であってほしいものだと思っています)

本当にむごい話です。

まさしく地獄絵図です。それはピカソのゲルニカから受ける印象以上のショックです。

こういった戦火の悲惨さを目の当たりにした人は

「ああ戦争は嫌だ。戦争絶対反対」

と口にします。

しかし敗戦から70余年、日本は自衛隊という名の軍隊を整備し続け、今では世界でも有数の軍事大国となっているのです。

最初は専守防衛といわれ続けたその任務も、いまやアメリカの戦争の下請けとしてイラクに派遣され、更には自衛の名の下に外国の人たちと殺し合いをしようとしています。

憲法は70余年の間にその精神は踏みにじられ、どんどん拡大解釈されてきました。このままいけばもはや、日本憲法は他国との戦争抑制の歯止めとはならなくなるのではないでしょうか。

たとえば、拉致問題や原爆製造、ロケット打ち上げといった問題を抱えている日米韓と北朝鮮との間だって、お互いの突っ張り合いがエスカレートしていけば、いつかは軍事的な衝突といったことにならないとは限りません。

そのとき前面に立たされるのは利害関係の当事者である日本であり、韓国だと思います。

もしロケットが東京に飛来してきて被害を受けたり、原子力発電所が上陸してきた北朝鮮の工作員によって破壊されたりしたとするとき、それでも専守防衛といって漫然と日本の国の中だけを守っていられるでしょうか。世論が許さないしょう。おそらくはただ受身に攻撃されるのを待っているのではなく、自衛の名目のもと
積極的に北朝鮮の本土を攻撃し、禍根(かこん)の元を断つべきだというようになってくるのではないでしょうか。

こんなとき

「そんなことをしたら なんの罪もない北朝鮮の一般の人々がかわいそう」

とか

「戦争以外の選択肢を」

といっても誰も耳を貸さないのではないでしょうか。

現に以前北朝鮮の工作船が日本の海上保安庁によって追尾され 撃沈された時、誰がその工作船に乗っていた工作員たちの親の痛みを思いやったでしょう。

国民の大半はそれに対し快哉(かいさい)を叫び(「よくやった」と叫び)、今後とも断固たる態度をとり続けるべきだとだけ思ったと思うのです。

これが現実です。

北朝鮮のような世界の常識が通らない指導者をいただく国が出てきたとき、あるいは私たちがそのような指導者をいただいた時、その無法を咎め(とがめ)、平和的にそれを止める方法があると思いますか。情緒的な戦争反対だけではどうにもならないのが現実です。

領土問題にしてもそうです。

日本だけで考えてみても中国との間には尖閣列島の、韓国との間には竹島の、そしてロシアとの間には北方領土の問題が控えております。

どちらもが自国の領土と主張して止まない以上、それを解決する方法は現在の国際法上では武力衝突による以外に方法はないのではないでしょうか。

幸か不幸か、今までは日本は憲法の歯止めもあり、且つ(かつ)、相手の国も国際関係上のいろいろな思惑があり、お互いに相手を一定以上刺激するのを避けてきました。

しかし、この問題を利用して自分の野心を成就させようと
国民感情を煽る(あおる)そんな政治家が現れてきた場合、あっという間に戦火の火種となることは明らかです。

領土問題は国民を感情的にするものですから、人も住めないような一坪の荒野や孤島であっても、それを他国に盗られるという事になると国民感情が許さないのです。

従って、それを利用し扇動するする政治家が現れたときは(自分の国の方が相手より強いと思っているときに限りますが)世論は圧倒的に戦争へと導かれていってしまうのです(北朝鮮の拉致問題でもそうですが、こういった場合は後先を考えず、強硬論を唱える政治家の方がすっきりしていて国民受けがいいのです)。

この場合は情緒的に戦争反対と言っている程度では抑止は不可能で、多くの国民がよほど冷静な判断力と強い意思を持っていないかぎり戦争の方へと流されていくのです。

また、かつてのイラク戦争を見てもお解かりのように、これからは感傷的に戦争反対といっているだけでは国際情勢も許さないのです。

現在のように、経済的にも軍事的にもアメリカに依存している以上、アメリカから、戦争への加勢と冥加金(みょうがきん)の寄付を強要された場合は、国際法上間違っている戦争だと思っていても、それを断る事はむつかしいのです。

戦争は嫌だから行かせたくないといっているだけでは通らないのです。

断る時は仕返しを覚悟しなければならないからです。

北朝鮮との問題をかかえ、経済的に依存し、エネルギー政策でも依存せざるをえない現状で、今の派兵を断る選択肢があったでしょうか。

特に今のアメリカのネオコン集団のような居丈高(いたけだか)な国家主義者達が政策の中枢を握っているような現状ではそうです。

要するに現在の国際情勢の下では ただ単純に戦争反対と唱えているだけでは戦争に巻き込まれていくのを防ぐことは出来ないということなのです。

これからの日本がむやみに戦争に巻き込まれていかないようにするためには、外には国際的協調による戦争抑止の枠組み作りを働きかけるとともに、内には国連主導による制裁発動への協力体制(軍事力も含めて)を整え、それ以外には軍事力は使えないと言うような歯止めをキチンと作っておくことこそ肝要なのではないかと思うのです。

殺されるのは無論のこと他国の人が戦争で死ぬのを見るのもいやです。

でも、ごまめとしましては、一日も早く殺し合いが無いような世界がやってくるように祈るだけです。

註:ごまめとは
いわしの小魚の丸干しの事、別名正月料理に使われる田作りのことで、ごまめの歯ぎしりとは、ごく小さい魚のような、とるに足りない者が怒って歯ぎしりをしても、何も変わるものではないということのたとえです。

イラク戦争とは、2003年に、アメリカが中心となって、当時のイラク政府が大量破壊兵器を開発しているとして起こした戦争ですが、実際には大量破壊兵器は見つかりませんでした。日本は、この戦争を支持しました。

またネオコンとは、アメリカの新保守主義者のことで、自由主義や民主主義を実現するためには武力介入も辞さないという考え方です。