No.156 お墓の中まで その3

このお話はフィクションです似たような,名前、事柄が出てきましても、偶然の一致で、実在の人物、実際の事件とは全く関係ありません。又、実在の地名が出てきましも、フィクションの中の一場面として利用しているだけで、実在の土地、人物、家名とは無関係です。

 

その7

祭壇へ型どおりの御参りを済ませた私は、棺(ひつぎ)に開けられている、覗き窓越しに、おばちゃんの遺体と対面しました。
その時私は、「アレッ」と、思わず小さな驚きの声をあげてしまいました。
横たわったおばちゃんの顔と、顔を並べるようにして、遺体の上には、3号ほどの大きさの、愛らしいフジタ嗣治の油絵の少女像が、置かれていたからです。
始めは、てっきり、イミテーションか印刷の類だろうと思い、気にも留めませんでした。
しかし何となく気になって見直して見ましたところ、それはどう見ても本物のようでした。
絵の中の少女は、まるで甘えているかのような、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、ちょっと上目遣いに、おばちゃんの方をみつめています。
その少女の方に、ちょっと首を傾げたおばちゃんは、良い夢を見ながら眠っているかのように、安らかな笑みを浮かべて横たわっておられました。
生きておられた時に見られた、話しておられる時でも、笑っておられる時でも、時々ふっと表情を過ぎって(よぎって)いた、あの、なにか満たされないような、寂しげな、それでいて何かと戦っているかのような厳しさは、すっかり消えていました。
その穏やかな笑顔は、子供を連れて、これから何処かへ、遊山にでも出かける時のような楽しそうなお顔です。
「良いお顔をしていらっしゃいますね。
何だか、極楽浄土からの、お迎えの車を見ていらっしゃるようにお見受けします」
「そうでしょう、そうでしょう。私も、このお顔をみていますと、やっと、この世の“苦”から解き放たれ、安らかに、浄土へと旅立って行かれたのだなと思えてなりません。
良かったわ。久美ちゃん。この人、こんなにも良い人だったというのに、現世では、あまりにも、恵まれなさすぎでしたもの。
せめて死んだ後くらい、極楽浄土へと行かせてもらえなかったら、あまりにも可哀そうすぎます」
「きっと、あの世では、密かに想い続けていらっしゃった、初恋の人や、子供と、3人で、仲良く、幸せに暮らしていかれる事でしょう」
「エッ、おばちゃん、天命浄霊会とかと言う新興宗教に走った娘さんの外に、まだお子さんがいらっしゃったの。
全く、知らなかったなー」
「と言う事は、彼女、結婚する前の、隠し子がいたという事ですよね。
へー、おばちゃんって、若い時は、見かけによらず、進んでいたのですねー。
私、おばちゃんって、どちらと言うと、保守的で、常識的な人だとばかり思っていたのに」
「だっておばちゃんが娘さんだった頃って、戦中か戦後、間もない頃で、まだ今みたいには、婚前のセックスが、公然と、社会的に認められている時代じゃなかったでしょ」
「で、そのお子さんは、どうなったの。3人で、天国で暮らすという事は、早死にされたと言う事。それとも、流産か、中絶されるかして、この世には生まれてこられなかった子供という事なの」
「違う、違う、大違い。全く見当外れ。
久美ちゃんに限って、そんなふしだらな事する筈ないでしょ」
「それなら、一体全体、どういう事。貴方のおっしゃっている事、さっぱり、分からないわ」
「そう、これは、私以外は、誰も知らない、久美ちゃんの生涯の秘密。
でも彼女も、もうあの世へ旅立ってしまわれた事ですし、実子とはあの調子で、絶縁状態ですから、話しても、何の差し支えも、ないかもしれませんわねー。
考えてみれば、お話する事によって、この世の出来事を、きちんと断ち切って上げた方が、あの人の供養に、なるかもしれませんわねー。
でもこのお話、しだすと、少し長くなりそうですが、大丈夫ですか?
貴女、明日もお仕事がおありとかで、お忙しい御身体と聞いておりますけど。」

 

 

 

その8

(久美と高等女学校時代の友人)日比野明子さんのお話
先ほども申しましたように、久美ちゃんというのは(以降「ちゃん」は省略)、外交官の娘で、父親というのは、代々、加納藩に仕えてきた儒家で、明治維新後、岐阜県日置江村に移住し、居を構えている、その地の大地主、青木家の次男です。
一方母親は、関田村(今の愛知県・春日井市)の出で、江戸時代には、大地主であると同時に、その地で造り酒屋を、更に、近くの内津の宿には(うつつのしゅく)(註:江戸時代の下街道の宿場町、現在は春日井市)、酒店を構え、手広く商いをしていた豪農であり、豪商でもあった酒井田の家の末娘です
酒井田家は明治に入って、久美の祖母の代になりますと、夫を早く亡くしたことに加え、時代の流れで,内津の宿が廃れていった事ともあいまって、もう造り酒屋も、酒店の方も廃業していました。しかし、それでもなおその地方きっての大地主として、権勢をふるっていました。
その家の三人兄弟の末娘であった久美の母親は、当時としては珍しいことに、東京の高等女学校(旧制女学校)に進学させてもらっておりました。
その時、久美の母親が下宿させてもらっていた伯母の家の近くに住み、東大に通っていたのが、後に久美の母親と結婚する事になる、前にもお話しました、青木家の次男、哲でした。
高等女学校への通学途中に、彼に見初められた久美の母親は、是非にと請われて、彼女の卒業を待って、彼の所に嫁いでいきました。
結婚した時、彼は既に、外務省に入省していて、外交官として、将来を嘱望されていた身でした。

 

その9

結婚した若い二人の結婚生活は、傍も羨むほどに、甘いものでした。
しかし日本を取り巻く国際的、国内的な激動の波は、そんな二人の生活にも襲いかかり、次第に激動の渦の中に巻き込こまれていきました。
久美の両親が結婚した当時の日本は、第一次世界大戦による一時的な好景気から、一転して、再び不景気に襲われ、庶民は、倒産や、失業の危機に脅えながらの暮らしを、やむなくされていた時代でした 。
それに追い打ちをかけたのが、関東大震災で、それは、首都を中心とした関東地方に壊滅的な大被害を与えてしまいました。
久美は、そんな時代、関東大震災の翌年、即ち、昭和という激動の時代が間もなく始まろうとしている、大正14年に、生まれました。
それは、あたかも彼女のその後の、暗くて険しい生涯を暗示しているかのような時代でした。
悲しい事に、昭和に入っても、世の中は、一向に良くなりませんでした。
国の財政は、益々悪化し、それを立て直すために取られる、いろいろな財政政策は、景気の悪化や、金融恐慌をもたらしただけで、庶民の生活に、改善の兆しを見せる事はありませんでした。
それどころか、このような諸政策によって、倒産や失業者の増加をもたらし、その為、追いつめられた、失業者、小作、労働者といった貧しい階級の人たちによる、小作騒動、労働争議、米騒動などといった、過激な社会運動が頻発しておりました。
世情は、益々暗く、益々混迷の度を深めていくように見えました。
しかし、そのような暗い世情にあっても、その頃はまだ、官吏だった久美達家族に及ぼす影響はそれほど大きくなく、一家3人は、比較的穏やかな、小市民的日々を、過ごす事が出来ておりました。
久美の母親和子は、大変優しく、子煩悩な女性でした。
彼女にとっては、初めての我が子が珍しく、する事なす事、可愛くて仕方がありませんでした。
それに夫の職業と、その時の世界情勢から考え、早晩、我が子と別れ別れで暮さなければならなくなるだろうという予感がありました。
それだけに我が子が、より愛しく(いとおしく)、不憫でたまりませんでした。だから、溺愛と言っていいほど、甘やかして育てました。
それは、久美の父親も、同じ思いでした。
幼かった久美には、この頃の事は、薄ぼんやりとした記憶しかありません。
しかし、成人してから、その頃の事を思い出しますと、はっきりと記憶をしているような事柄は、何もないにもかかわらず、温かで、何とも言えない、懐かしいものが、胸一杯に、込み上げて来て、涙が溢れ出て止まらなくなると、久美はよく語っていました。
「私、あの時で、自分の運勢の大半を使い切ってしまったみたい。あの頃の思い出だけが、私の人生の宝物」というのが、晩年の久美の口癖でした
実際、このような親子三人での、穏やで、幸せな、小市民的生活は、それから間もなく、久美が5歳の時をもって、終わりを告げることになりました。
外務省勤務であった彼女の父親が、いよいよ海外へ、赴任する事に決まったからです。
当時の国際情勢は、ニューヨーク株式の大暴落によって引き起こされた大恐慌により、世界中何処にいても、いつ動乱に巻き込まれても、おかしくないと思われるような、不穏な空気に包まれておりました。
それは、世界中が、まるで火薬庫の上に乗っかっているような、危うさにあった時代でした。
久美の両親は、そのような危険な場所に、久美のような幼子を連れて行く訳には参らないと思いました。
そこで彼等は、久美を酒井田の祖母(母方の)のもとに預け、夫婦だけで、赴任していく事にしたのです。
しかしそれは、久美の母親にとっては、よほど辛い決断だったようで、乗船の直前まで、久美を固く抱きしめ、頬擦りしながら泣きじゃくり、離そうとしなかったといいます。
(註:飛行機旅行が当たり前の今と違って、当時は船旅しかありませんでした)

 

その10

海外赴任に当たって、久美の両親は、娘を自分の在所(実家=母の家)に預ける事に決めましたが、久美の母親和子は自分の母(久美の祖母)の所とはいえ、今まで、顔も見たことない見知らぬ人達の中に、たった一人で取り残される娘の事を思うと、不憫と不安で胸が詰まり、涙が止まりません。
「こんな小さな子を、たった一人残していかなければならないけど、一人で残して本当に大丈夫かしら。
私達が発った後、この子どうしているだろう。
甘えっ子のこの子が、私達がいなくなった後、一人で大人しくしておるだろうか。
泣きじゃくったり、やんちゃをしたりして、母や、義姉を梃子摺らせる(てこずる)のではないだろか。
それとも、あのきつい母や、意地悪な義姉に、叱られたり、虐められたりして、いじけてしまうのではないだろうか。
甥の寛太ちゃんや、姪の珠代ちゃんは仲良くしてくれるかしら。彼らから苛められるような事はないだろうか」
などなど次から次へと気掛かりが浮かんでまいります。
「いっそ親子3人一緒に赴任して、何が起ころうと、同じ運命をたどった方が良いのではなかろうか」
「それとも、私がこの子と残っては駄目だろうか」などなどと、心が千々に乱れて定まりませんでした。
そんな事は、夫に言うまでもなく、無理だと言う事は頭では分かっていました。
ですが、どうしても思い切れません。
「お母ちゃん、どうしたの。なぜ泣くの。お父ちゃんに叱られたの?ポンポ痛いの?それともおツム(あたま)が痛いの」といいながら、手を差し出したり、額をつけてきたりするそのあどけない言葉の一言、一言が、その仕草の一つ、一つが、彼女の涙線を刺激して新たな涙を誘います。
起きている時は起きている時で、その仕草や、言葉に、寝ている時は寝ている時で、その寝顔に涙が出てきて、赴任が決まってからの、和子の目は、涙が途絶える事はありませんでした。
子供を一人国に残して赴任していかなければならない身としての、不安や不憫な思いは、父親・哲だって変わりませんでした。
父親の方は、我が子を思い、取り乱している妻も又不憫でした。海外に行くのを止められるものなら止めてやりたいとも思っていました。
しかし現実はそうはまいりません。
父親・哲は、強いて冷静さを装いながら、妻を慰め、子供に言い聞かせました。
「久美ちゃん、お父ちゃんたちはね。お国の用事で、どうしても遠い、遠いお国へ、行かなければならなくなったの。だからお利口にして、おばあちゃんの所で、留守番していてね」
「いやだ、だったら久美ちゃんも一緒に行く」
「それがね、とっても遠い所で、何日も何日も御船に乗っていかなけりゃならない所なの。だから久美ちゃんには無理なの」
「久美ちゃん、お船、大好き。だから一緒に行く」
「それがね、とっても怖い所へ行くの。だから、子供は乗せてもらえないの」
「だったら、お父ちゃんも止めたら」
「それがね、そうはいかないの。お国の命令だからね。だから久美ちゃんは、お利口にして、おばあちゃんの所で待っていてね。すぐに帰るからね」
「すぐ帰ってくるの。だったらいいよ」
「おばあちゃんや、伯父さん、伯母さんの言う事を良く聞いてお利口にしているんだよ。お利口にしてないと、お父ちゃん達は帰らないからね」
「ウン、分かった。お利口にしている」
「泣いたり、やんちゃを言ったりしないね」
「ウンしない。だから早く帰って」
「お婆ちゃんの所にはね、お前と同じくらいの年の子供たちがいるけど、その子たちとも、仲良くするんだよ」
「うん、わかった。そうする」
何も分からず、神妙に返事を返す久美。しかし、いつもと違う父親の様子に、いかにも不安げです。
「お利口さん、お利口さん。なんてお利口さんなんだろうね」といいながら、父親、哲は、久美を抱き上げると頬擦りしました。
しかしその可憐な、健気さに、彼の腕には思わず力がこもり、目からは、堪らず涙が零れ(こぼれ)おちます。
「お父ちゃん、痛い、痛いって」久美の口を尖らしての抗議の言葉も、耳に入らぬかのように、彼の腕には、なお一層力が加わりました。

次回へ続く。