No.135 お坊さまと白尾の狐 その6(お婆ちゃんの昔話より)

このお話はフィクションです実際の事件人物とは関係ありません

 

その17

夫に先立たれ、自分も老いを感じるようになるにつけ、その思いは益々、強くなっていきました。
彼女は贖罪(しょくざい:犠牲や代償を捧げる事によって、罪を償う事)の意味も兼ねて、弱い立場の物には、できる限り親切にし、これを助けるよう心掛けました。
身寄りのない子供は、自分の家に引き取り、自立できるようになるまで世話をし、物乞いには出来る限り施しをおこない、不作の年には、貧しい小作の所にお米を配り、医者にかかる事も出来ない小作の家には、自分のお金で、医者を頼んでやりしました。
僧侶には特に親切にしました。檀那寺の和尚には言うまでもなく、門辺(かどべ)に立つ托鉢僧にも、惜しまず喜捨(きしゃ:進んで自社に寄進したり、貧しい人に施しをする事)をいたしました。また彼らに一夜の宿を供する事も厭いませんでした。
しかしどれほど仏の教えを聞いても、どれほど善行を行っても、彼女の淀んだ心がすっきりと晴れる事はありませんでした。

 

その18

その年、例年より早くやってきた冬は厳しく、11月も半ば過ぎると、肌を刺すような寒い気候が続く日が多くなっておりました。
70歳過ぎた彩乃には、その寒さは堪えたようで、ちょっとした風邪がもとで、床に就いたまま、起き上がる事が出来なくなってしまいました。(この頃は平均寿命が50歳くらいの時代です)
何処かが、痛いとか、辛いという訳でもないのですが、ともかく食事が進みません。力が出なくて、起き上がる事ができません。
当時はまだ、医学もそれほど進歩してなかった時代です。お医者様も、はっきりした原因を掴む事が出来ないようで、ただ首を傾げるばかりです。
「もう、お歳ですから」とか、「せめてお食事を、きちんとお摂りになるようになりさえすれば、」などと、半分諦めているような口調で言います。
日に日に弱って食も細くなっていく自分を見て、彩乃はいよいよ「お迎え」の時が近づいたと、自分なりにひそかに覚悟を決めておりました。
跡を継いだ次郎佐衛門夫婦が、家は立派に取り仕切ってくれるようになった今では、この世の事についてはもう殆ど思い残す事もありません。
彼女にとって、心配な事と言えばただ一つ、あの世(=来世:死んだ後の世界)の事だけです。罪を償いきっていないのに、あの世に旅立って行かなければならない事です。
「こんな罪深いままの私の事、今死んだとすると、待っているのは地獄の口しかないだろうなー。
どんな責め苦の待つ地獄へ落ちるのかしら。
そこで罪を償ったとして、その後、何に生まれ替わらせてもらえるのかしら。
ウサギや小鳥達みたいに、いつも何かに狙われ、追いかけられ、びくびくして生きていかなければならない存在かしら。
それとも馬や牛のように、生涯人間に鞭打たれ、こき使われ続けなければならない生き物かしら。
或いはまた人間に戻してもらう事が出来るのかしら。
でも仮にもう一度人間にしてもらう事が出来たとしても、幸せな人生であるはずがない。
あんな事をしでかしてしまった上、まだきちんと告白しての懺悔も済んでない以上、閻魔(えんま)様の裁きで、その報いを受けるに違いない」
「どんな裁きであれ、自分が犯した罪であるから、受けなければならないと分かってはいるが、それでも、考えれば考えるほどに恐ろしい。
南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。阿弥陀如来様どうか、この罪深い私をお救いください」と一心に念仏を唱え、心の中で、懺悔(ざんげ)しながら、お迎えのやってくるのを待つ日々を送っておりました。

 

その19

そんなある日の夕方の事でした。
もう今夜あたり、いよいよ危ないのではというので、身寄りの者は言うまでもなく、彼女のお世話になった近所の小作人達までもが見舞いにやってきて、部屋の中は、見舞の人でごったがえしておりました。
沢山の人々によって発せられるざわめきと、北風を伴う霙(みぞれ)混じりの雨の、雨戸を叩く音、木々の梢の擦れ合う音、吹き過ぎていく北風の、窓辺を揺らす音などにかき消されて、家の中からは、外の様子は殆ど分りません。
所が、ここ数日来、起きているのか、眠っているのか、分からないような状態で、一日中うつらうつらしているだけだった彩乃が、突然、目を開き、
「誰か、誰かいないか」と人を呼びます。
何事かと、慌てて顔を覗き込んだ人々に向かって、「門の所にたっていらっしゃるお坊様を、ここへお連れしてきておくれ」と彩乃。
「こんな日に」と誰もが思いました。
てっきり夢か何かを見て騒いでいらっしゃるのだと思いました。
だから誰も彼女の声に応じて、立って行こうとしませんでした。
「お母様。外は大荒れの天気です。とても人が訪ねてこられるような状況じゃございません。
夢でもご覧になったんじゃありません?」と次郎佐衛門の妻、お清が申します。
「いんにゃ、夢じゃない。本当にお坊様が来ていらっしゃるはず。現に今だって、私の耳には、托鉢のお坊様が鳴らしていらっしゃる鈴の音がちゃんと聞こえているもの」
「グズグズ言ってないで、見るだけでいいから、見てきておくれ。
そこにお坊様がいらっしゃっていたら、ここへお招きしてくるんだよ」
と彼女は真剣な顔で確信ありげに言います。
死期の近づいている義母のたっての願いです。放っておくわけにもまいりません。
お清は立ちあがると、身支度を整え、外へと出ていきました。
家の外は、風雨が強く、まるで嵐のようです。冷たいみぞれ混じりの雨が、顔に叩きつけるように吹きつけ、目も開けておられません。
「おーさむ、寒。
こんな日に、托鉢に歩いておられるお坊さまなんか、いるものですか。
外へ出るのさえ、億劫(おっくう)なのに」と口の中で呟きながら、お清は門の所までやってまいりました。

 

その20

所が、お清が門に近づくと、門の外から、ちりん、ちりんと托鉢僧の鳴らす鈴の音が、微か(かすか)ながら確実に聞こえてまいりました。
強い風と激しい雨音によってかき消され、切れ切れに聞こえてくるだけですが、確かに聞こえてまいります。
それに混じって読経のような声も聞こえてまいります。
急いで門扉を開けたお清の目に、最初に飛び込んできたのは、犬のような動物の黒い影でした。
そしてその後ろには、塀にへばりつくようにして風雨を避けながら、鈴を鳴らし、読経していらっしゃる、托鉢僧らしい編み傘姿の人の影がありました。
「まあ、まあ、こんなお寒い日に、ありがとうございます。
義母が是非お会いしたいと申しておりますので、ご迷惑かもしれませんが、お上がりいただけないでしょうか。
義母は長患いで、今では、今日か明日かという命となっております。
これも何かのご縁でございましょうから、今晩は、私どもの宅にお泊まり下さって、お坊様のありがたいお経と、お言葉でもって、義母を極楽浄土へと、送り出してやっていただけないでしょうか」とお清。
すると旅の僧侶は、「いやー、ありがとうございます。お言葉に甘えて、お世話になることにしますので、よろしゅう頼みます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
とおっしゃりながら、家の中にと入ってこられました。

 

その21

足洗いの水桶を持ってやってきたお清は、玄関の上り框(かまち)に腰を掛けて、草鞋の(わらじ)の紐を解いでいらっしゃる旅僧の姿を見てびっくりしました。彼の後ろには、何時の間に入ってきたのか、大きな狐が座っておるではありませんか。先ほど犬かと思ったあの影の動物に違いありません。
「キャー」お清は思わず悲鳴をあげました。
あまりの驚きに、お清は手に持っていた水桶を落とし、その場にしゃがみ込んでしまいました。
その悲鳴をきいて、その日、彩乃のお見舞いにきていた人々は、一斉に玄関の所へやってきました。
彼らもまたそこに、立派な銀白色の尻尾を持った大狐の姿を見て驚きました。
彼らは僧侶の影のように後ろに従っている狐の姿を見て、僧侶そのものが、狐で、後ろにいた狐は,化け狐のその影だと誤解しました。
彼らはてんでに、傍らにあった、得物になりそうなものを掴むと、
「このど狐め、こんな人家の中にまで、平気で上がりこんでくるなんて。しかもこんな日にやってくるとは」
「いくらお前が、うまく化けたつもりでいても、もうお前が狐だということは、影を見りゃー、バレバレだよ。
はよ―、正体を現して、ここから出ていけ」
「ぐずぐずしとったら、とっ捕まえて、毛皮にしてしまうぞ。
そんなに毛皮にされたいのか」などなどと口々に叫びながら、
一斉に僧侶に向かってとびかかってまいりました。
「待ちなされ、皆の衆。誤解じゃ。誤解。拙僧は間違いなく人間で、ここにいるのは拙僧の連れのお狐様じゃ」
「断りもなくお狐様を連れ込んで、皆の衆を驚かして済まなんだ。しかしこのお狐様はなー、わしのお師匠さんとも言える、大切な、大切なお方故、一緒にいる事を許したってもらえんじゃろか」
と僧侶の野太い澄んだ声。
今にも捉えんばかりの勢いで人々が迫ってきたというのに、僧侶は、悠揚迫らぬ態度(ゆうようせまらぬたいど:ゆったりとしてこせつかないさま))で申されます。
その騒ぎを聞きつけた彩乃が
「何を騒いでいるの。早く、お坊様を私の部屋へ。
なに、お連れ様が狐。構わぬ。
お坊様がお連れとおっしゃっているのなら、その狐も私の大切なお客様じゃ。構わぬから、一緒に案内しておくれ」と言います。

 

その22

枕元に座った僧侶の姿を見て、彩乃の顔色が変わりました。
「もしや貴方様は」といったまま絶句して言葉が続きません。
彼女は気力を振り絞って、なんとか自力で床の上に起き上がろうとしました。
しかし長患いで体力の弱っている身体は、一人で起き上がる事を許しませんでした。見かねた付添の女中と、お清の助けで、やっと身体を起こし、布団に凭れ(もたれ)かからせてもらった彼女は、
頭を深々と下げたまま、僧侶の手を掴んでぽろぽろと涙をこぼし始めました。
「お許しください。お許しください。貴方様はもしや」
と苦しい息の下から、何か重大な事を話しだそうとする様子です。
すると僧侶は
「いやいや、拙僧はもうこの俗世とは縁を切った僧籍の身、この世で起こった事については、全て忘れ申した。
今では何の未練も、恨みも持っておりません。
だから安心して成仏なさい。貴女様が悔い改め、一念発起して善行を始められてからもう既に30と余年。
その間に、貴女様が善根をおつみになった数は、積り積って九百と九十九、拙僧達でちょうど、千にあたります。
これで貴女様と私との間にありました古くからの因縁によって起こされた、貴女様の過去の過ちは全て綺麗に清算されたことになります。
貴方様は、間違いなく仏様の身元に召されて行く事が出来ますから、安心して、あの世に旅立っていきなされ」
と申されました。
「それでは私の気持ちが」となおも続けようとする彩乃に
「シーッ」言うように自分の唇にと人差し指を持って行った僧侶は、
「それでは貴女様が心安らかにあの世に旅立っていけるよう、秘義を行いましょう」
「ただこのままの姿勢では、秘義の途中で身体がまいってしまう恐れがありますので、
どうか、かまいませんから横になってお受け下さい。
なおこれはあくまで秘儀でございますから、人に見せたり、聞かせたりするわけにはまいりません。
恐れ入りますが、お人払いをお願いします」と申されます。

次回へ続く