No.57 藁しべ(わらくずの意)長者とまではいかないまでも

あけましておめでとうございます。

さて今年始めの第一話は、読者の皆様に幸運を肖っていただけますよう、縁起の良いお話にさせていただきました。

その1

かなり以前の話です。私がまだ高校生だった頃、うちに出入りしていた骨董屋さんの一人にSさんという人がいらっしゃいました。
当時、まだ40才前位にしかみえないのですが、とても中国陶器に詳しい方でした。彼、良いおうちのお坊ちゃんだとかという話で、若い時よりいろいろな先生について中国陶器の勉強をされており、とても目利きでした。

実際小山先生とか、藤岡先生とも親しくしてもらっていらっしゃいましたし、有名な陶芸家の家にも出入りを許されていらっしゃいました。
話はチョット本筋から逸れますが(それますが)、Sさんはとても目利きでしたが、この世界で生きていくにはあまりにお坊ちゃんで、人が良すぎました。

この世界、少しでも甘い所を見せますと、怪しげな人が寄ってきて骨までしゃぶられてしまうこともある世界です。
Sさん、最初はお父さんの後ろ盾で、大きく店を構えてやっておられました。その見る目の確かさと、その人柄でお得意さんも沢山に持っていらっしゃいましたから、それだけでそれ以上に手を拡げられなかったなら、そのままお店の方もうまくいっていたと思います。
ところが第一次絵画ブームの時、スケベ心を出され、慣れない絵画のほうにも手を出されました。これが仇になって、高額な絵を数億円分も騙し取られてしまいました。
もしそれが自分の持ち物でしたら、「ああー、損しちゃった」で済んだのでしょうが、それらの絵は、他の業者さんから借りてきた絵ばかりでしたから、どうにもなりません。結局お店が立ち行かなくなってお店を閉じざるを得ないという羽目に陥ってしまいました。気の毒な事に、それから間もなくお父さんも亡くなられ、今では行方不明という話です。

 

その2

このSさんがまだ隆盛だった頃のお話です。あるとき父のところにとんできました。
「先生大変な物を見つけました。あんな珍しいものは、私でも始めて見たくらいです。それが先生。聞いてくださいよ。某大学の近くの中華料理屋さんのショーウインドーの中に飾ってあるのです。」「へー Sさんがこんなにも興奮するという事はとんでもない珍品という事」と父。「そうですよ もうあれは大変な掘り出し物だと思いますよ 」「売ってくれればね しかし向うの人だって価値を知っているんじゃない もし知っていれば、そう簡単には手放さないと思うよ」と父。「それなら大丈夫だと思いますよ それほどの価値があると思っていらっしゃるのなら、あんなショーウインドーでの飾りかたはしないと思いますから。
何しろラーメンだとか餃子、マーボー豆腐などの見本の鉢と一緒に並べてあるのですよ もし本当に価値があると知っていれば、あんな無用心の所に飾っておきませんって」とS。
「先生に買う気さえおありなら、すぐにでも交渉に行ってきます。一度ご覧になってこられてはいかがです。」という事でした。
父は例のスケベ心が抑えきれず、早速その中華料理屋さんのショーウインドーを見に行きました。
そこに飾ってある品物を見て父は一瞬目を疑ったといいます。
実物は台北の美術館で碗の形のものを一度お目にかかった以外には、図録でしか見たことがなかった玳皮天目釉(だいひてんもくゆう)の陶器(壷)が(宋、吉州窯)が飾られていたからです。
Sさんの言ったとおり、ショーウインドーの中で、いろいろな中華料理の見本の鉢と並んで、埃をかぶったまま粗雑に置かれています。高さ15センチほど口径4~5センチくらいのその壷は、埃とその口元に挿しこまれている安物の造花の陰に隠れて、殆ど目立ちません。
しかしよく見ればとてもきれいな鼈甲色をしておりました。
今まで玳皮天目といえば茶碗でしか見たことの無かった父でしたから、最初は最近作の工芸品ではないかと疑いました。しかしガラス越しに見えるそれは、確かに時代を生きてきた品格があります。しかもその鼈甲のような釉薬には、微かにガラス化している部分が認められ、間違いなく時代が感じられます。
父は興奮して全身に震えがきて止まらなかったたといいます。うちに帰ると直ぐSに電話しました。
「素晴らしいね。手に入るなら絶対に欲しいな。それにしてもあんな物がまだ普通の家においてあるなんて信じられないよ。もし手ごろな値段で手に入ったとしたら、大変な掘り出し物だよねー。駄目かもしれないけど、ともかく一度当たってきてみて。」と頼みました。

 

その3

Sさんは早速翌日、その中華料理屋を訪ねていきました。建付けが悪く、固い引き戸をゆするようにして開け、入ったお店の中には、お昼時間がまだ終わったばかりだというのに、入り口近くのテーブルに60歳近く、ゴマ塩頭、白い料理着をつけたおじさんが、老眼鏡を鼻にずらし掛けにして新聞を読んでいるだけで、他に客らしい人の姿は認められません。Sが入っていっても、そのおじさんは、じろっとSの方を見ただけで、声を掛けるでもなく新聞を読み続けています。その雰囲気から、なんとなく声を掛けそびれたSは、おじさんから少しはなれた場所に席を取り、注文をとりに誰かが来てくれるのを待ちました。
見回してみますと土間はコンクリートがむき出しで、そこに置かれたテーブルはメラニン製でビニール製、金属脚の丸椅子とともに一昔前に大衆食堂でお見掛けしたものです。
しかもそれらのところどころが、汚れ、痛んだままにしてある所からみると、それほど経営状態が良くないか、店主がやる気を失っているかどちらかと思われます。料理の出し入れをする口の上に、メニューを書いた煤けた紙が張られている以外には、飾りらしい物の何も置いてないその店の中は殺伐としていて、学生寮の食堂のようです。待っていても誰も注文を取りにきてくれないようでしたから、痺れを切らし、立ち上がろうとしたとき、やっと店の奥の方から、それまで家の仕事をしていたらしい小柄な老婦人が、手を拭きながら出てこられました。あわてたように水とお絞りを持ってやってこられ、「あら、済みません。お待たせしてしまって。もうお昼が過ぎたものですから、チョットうちの仕事をしていて気付かなくて、ごめんなさいね。お父さん、こんな時くらい、ちゃんとやってくれなきゃ駄目じゃない。」「ところで何になさいます。」と聞かれます。
頼んだチャーハンとマーボー豆腐が出来るのを待つ間、そのおばさんに話を聞くことにしました。

 

その4

「ここってお二人だけでやっていらっしゃるのですか。」とSが話し掛けますと、「ええ、今ではそうです。子供達が家に居た時はもっとお客も沢山いましたし、子供達もまだ小さく、家の用事もあり、5人ほど人を雇っていた時代もあったのですが、何しろこの有様でしょ。もう人を雇う余裕も無くて。」「それに子供達二人ともが、別の仕事について出て行ってしまってからは、夫が全くやる気をなくしてしまって。」「お店だってもう少しきれいにしなくては、もう駄目な時代なのに、やれるだけやっていって、それで立ち行かなくなったら、こんなお店止めればいいといって、聞かないものですから。」「へー。そうですか。それでお子さん達は、どんなお仕事に。あっ。こんなこと聞いて失礼ですかね。」「いいえ。いいえ。別にかまいません。上の息子は今、隣の町で皮膚科を開業し、下の息子は某病院の外科で勤務医をしています。」「スゴイですね。それじゃもう左団扇ですから、ご主人がやる気をなくされるのも無理ないですね。うらやましいご身分。」「それがそうでもないのよ。夫はあの気性でしょ。結構頑固ですから、とてもお嫁さんと一緒には住めそうにありません。ですから元気な間は自分達だけでやっていきたいと思って、いろいろと言うのですが、全く聞いてくれなくて。」「ところで奥さん少しイントネーションが違うように思えますが、あちらの方ですか。」「そうです。解ります?私たち中国から渡ってきたのです。蒋介石と一緒に台湾に落ち延び、さらにそこから日本にやってきましたの。
ここにお店を構えるようになるにはそりゃ苦労しました。しかし幸いここは大学の近くでしょ。しかもあの当時は、皆さんお腹をすかしていらっしゃいましたから,安くて、美味くて、お腹が一杯になるというので、こんなお店でも学生さん達がそりゃー沢山に来てくださって、大変でしたの。」「しかし今ではねー、お客さんの気風も変わってしまって、格好のいいお店、お洒落な店でなければ人が集まらないようになってしまって,うちの主人みたいに味で勝負などといっているのは時代遅れなのよね。」「それでもまだお昼時は学生さんたちがランチとかラーメンを食べにきてくださるからいいのですが、このままではそのうち誰も来なくなってしまいそう。
その証拠に最近では、女の学生さんは殆どいらっしゃらないのですよ。」と愚痴られます。「いい加減にしないか。ホラー、出来たよ、とご主人の声にあわてて料理を取りに戻られましたが、それを運んでこられた後も尚、何かを話したそうな様子でSの傍に立っておられたそうです。

 

その5

Sもちょうどあの天目の交渉を始める前に、ここの人たちがどの程度にあの天目の壷の事を知っているのか知りたいと思っていたところでしたから、これ幸いと続けて話しかけました。「ところであそこ、あのショーウインドーの下のほうに飾ってあるあの黒いような小さな壷、あれって中国から持ってこられた物ですか。あまり見たことのない陶器ですけど。」
「あれですか。あれにはいろいろ曰くがありましてね。しかしあまり見知らぬ人にお話するのもどうかしら。泥棒に目をつけられても困りますしね。それにしても、長く飾っていましたけれど、あそこに飾っていて、あの壷の事を聞かれた方は、貴方が初めてです。何かそちらの方のお商売をしていらっしゃる方でしょうか。しかし世の中には、やはり解る人もいらっしゃるのですね。このままあの場所に出しておくのは危険かしらね。」とやや心配そうな顔をして、Sを見ながら口篭られます。
そこでやむを得ずSは、名刺を出しながら「実を申しますと私こういうもので、ああいったものを扱っております。」「しかし長らくこの商売に携わっていますが、あんなに珍しい物をお見かけしたのは始めてで、できれば是非譲っていただきたいと思って立ち寄らせていただきました。出来る限りお値打ちに買わせていただきますが、譲っていただけないでしょうか。」と切り出してみました。
すると奥さんは困った顔をして、「やはりそういうお商売のお方だったのですね。あれに目をつけられるほど、お目が肥えていらっしゃるとは、どういったお仕事の方かなと、少々不思議に思っていたのです。」「しかし先ほど、チラッと申しましたように、あの壷には一方ならぬ夫の思い入れがありまして、なかなかよう手放さないと思いますよ。」「そうですかそりゃ残念です。どうしても駄目とおっしゃるのでしたら、今回は諦めますが、一応そのお話だけでもお聞かせ願えませんか。」とSは切り出してみました。

 

その6

実は私たち先ほども申しましたように、蒋介石と一緒に中国から台湾に逃げ渡り、そこから既に日本に来ていた知人を頼ってこちらに渡ってまいりました。
夫の家は、清の皇帝に仕えていた家の、代々料理人だったそうです。話は夫の大祖父さんの代に(4代前)遡ります。その時大じいさんの仕えていたご主人が、(清の)皇帝のご命令で、インド山岳地帯の王様(族長のような者か?)の所に使節として遣わされたことがあったそうです。
この時、この使節団一行の料理係として随行したのが大じいさんでした。使節団は訪問先の王様の饗宴に対し、答礼の宴を催したのですが、そのとき大じいさんの作った料理が、王様にとても気に入られてしまったそうです。そしてその王様から、それの造りかたを自分のところのコックに教えやって欲しいと頼まれました。ところがその料理に使った香辛料、これが今お話している王様の住んでいらっしゃるような辺鄙な地方では、手に入れ難い品物でした。それで大じいさんはその料理の作り方を教えると同時に、手持ちのその香辛料も王様に差し上げました。
これを大変にお喜びになった王様は、お礼として拳大(こぶし)の年代物の香木を下さったのだそうです。ところが帰国してから間もなく、彼のご主人のほうから、あの香木は皇帝陛下に献上することになったから差し出すようにと言ってきました。主人の命令と有れば、断るわけにはいかないだろうと思いましたが、それでもいろいろな人から、「大変貴重な物で、もし売りに出せば、家が一軒建つくらいの価格がつく」と聞いていましたから、只で取り上げられるのはあまりにも口惜しいと思いました。
そこで「折角王様からいただいてきた物ですから、我が家の宝物として、子子孫孫まで伝えておきたいと思っておりますが。」と一応断りました。おじいさんのそんな気持ちが解ったのか、ご主人は「只で差し出せといっているのではない。記念になる品物として何か遺して(のこして)おきたいというのであれば、この香木献上の際、ご褒美として、皇帝から下賜されてくるお金に、我が家の家宝、明代の五彩の鉢も付け加えてやろう。それでどうか。」と言われたそうです。
こうして香木の代わりに、明、万暦年製の五彩の鉢がわが家にやって来ました。見込みに青や赤、緑の大小さまざまなお魚の描かれている口径25~26センチのそれは、とても綺麗な鉢でした。私たちはこの鉢を家宝として受け継ぎとても大切にしておりました。清の皇帝が倒れたときも、その後日本軍が侵攻してきたときも、そして台湾から日本に逃げてきたときも、それだけはいつも肌身離さず持っておりました。
日本にやって来ても、それほどお金を持っていなかった私たちには、お勤めしながらその日その日を食べていくのがやっとの生活でした。それでもあの鉢は手放しませんでした。夫はあの気性ですから、それほど才覚もありません。従って当時はお店を持つことなど夢のまた夢で、考えた事も有りませんでした。私たちの誇りは、昔の栄光の名残としてのこの鉢だけでした。私たちはその誇りに縋り付き(すがりつき)、異国人なるが故の周辺からの理不尽な仕打ちにも耐えていました。夫などは自分よりもずっと腕の未熟な大将の下、安月給で、文句を言われながら働いておりました。
そんな時、早くから日本にきていて、既に大成功されていた人から、あの明五彩の鉢を売ってもらえないかというお話がありました。その人は人伝に私たちの持っている鉢の話を聞いて、自分が今度新しく開店するお店のショウウインドウに、目玉として飾りたいと思われたのだそうです。
この人とても苦労人で、私たちがその鉢に誇りを託している気持ちを良く汲んでくださって、考えられないような良い条件を出してくださいました。即ち、今ここでやっているこのお店の権利だけでなく、貴方達が後世に伝えていく物として、代わりにあの黒い陶器を付け加えるからそれで譲ってもらえないかといってこられたのです。(このお店、それまでその人の身内の人に経営させていたのですが、その人がその当時、近々台湾の方にお帰りになるとかで、ちょうど空く予定になっているとのことでした。)その時のお話では、あの壷は南宋時代に吉州窯で作られたものだそうで、玳波天目の壷というのだそうです。あの手の陶器は日本には、お抹茶茶碗として入って来たものが伝世しているだけではないかともいっておられました。
明五彩のような派手さは有りませんが、よく見ていますと、あの鼈甲のような釉の輝きはとても魅力的だと思いません。もう子供達も夫々成功し、私たちも、そこそこに食べていく位の蓄えは出来ました。それに、ご先祖様が王様から貰ってきた物の印(しるし)とは申しましても、貰ってきた品物はもうとっくに別の物に変わってしまっているわけですから、いまさらこの壷にこだわらなくてもと、私は思っていますが、さー、夫はどう言いますことやら。一度聞いておきますから又後日お出で下さい。という事でSはその日は帰ってきました。

 

その7

Sは翌日、直ぐに父の所にやってきました。「先生あの壷出してくるのは、こういった(先に6章で述べた)事情で、あの店の大将があの品物に拘って(こだわって)いるようですから、なかなか難しそうです。しかし条件次第では、絶対に駄目でないのではないかという感触も得てきました。
うまくもっていけば、あの奥さんが大将を口説き落としてくれそうな雰囲気でした。」「どうします。思い切って少し高めに条件を出して見ますか。」「いいけど、一体幾ら位で買ってくる心算。」と父。「ああいったものは外国のオークションでも今まで出てきたことがありませんから、どのような値段をつけたらいいか私も迷う所です。しかし珍品ですし、私のコミッション込みで、思い切って525万円の値段をだしてみたらどうでしょう。」「それで駄目なら、諦めましょうよ。」といいます。

 

その8

Sはやはり、お昼過ぎの時間を狙ってその店を訪れました。
彼の姿を見た奥さんは、「悪いけど、まだ夫が決めかねていて。」と申し訳なさそうに言われます。「いえいえ、構いません。ただこちらも、もし売ってくださるのなら、幾ら位お出しできるか知りたいものですから、一度手にとらせていただけませんか」とS。「どうぞ」という事で、ショーウインドーから出してきてもらって、手にとって眺めてみました。
やはり南宋、吉州窯の玳波天目に間違いなさそうです。埃を吹き取ったその壷は鼈甲のような輝きを見せ、まるで宝石のようです。「それで奥さん、もしお売りくださるのでしたら、私どもも清水の舞台から飛び降りたような心境で、思い切って○百万円(この値段はSさんも言われなかったので不明です)出させていただく心算ですが、いかがでしょう。」と切り出してみました。奥さんはびっくりした顔をして、しばらくこちらの顔を窺っていらっしゃいましたが、やがて黙ってご主人のいる厨房に入っていかれます。厨房での、こそこそとしたやり取りの後、今度はお二人でやってこられましたが、ご主人は尚、迷っておられるようでした。「こういうものはご縁のものですから、もうそれほどこだわっていらっしゃらないのでしたら、今、欲しいとおっしゃる人がお出でになる時、思い切って手放されるのも一つの手だと思うのですが。」「お子様達が興味をもたれてないのでしたら、たった一つだけのこういったコレクションなどといいうのは、代が替わると、どうにかなってしまうのが普通です。現に貴方たちですら、ショーウインドーに入れて、あんなに粗雑に飾っていらっしゃったくらいですから、次の代になったらどういう扱いを受けるかは、想像がお付になるでしょう。」「耳に痛いこと言って、申し訳ありませんが、もし、あのままにしておいて、倒れたりしたどうなるか、お考えにならなかったのですか。
こういった品物は人類全体の宝物です。従ってあのような扱い方は、決してしてはいけない事だと思いますよ。もうそろそろ、本当に大切にしてくださるコレクターの下に、入れてやって下さいませんか。」とS。
と奥さんが、「お父さん、もういいんじゃない。今では立派に育った子供達という証(あかし)もあることですし。」「この人の言うとおり、このまま持っていても、私達がいなくなったら、どうなってしまうか解りませんよ。いい機会だから、本当に価値の解ってくださる人のところにもう戻してあげましょうよ。」といってくれます。
しばらく迷っていらっしゃったご主人も、「そうだなー。お店の方も、もうそろそろ引退の潮時と考えていた所だし、思い切ってお譲りしましょうか。所でお値段はもう少し何とかならないでしょうか。何しろ私のいろいろな思い入れも入っている品物ですから。」といわれます.Sとしては精一杯の値段提示した心算でしたから、「申し訳ないのですが、そういった事情も考慮して、こちらも精一杯のお値段を出してありますから、これ以上は勘弁してくださいよ。」とS。「しかしこういった品物は、素人の所からは二束三文で買っていって、売るときはとても高値で売るという話だけど。」と尚も粘られます。
しかしSとしてはこれ以上高く買ってきては、自分のコミッションも無くなってしまうと思いましたから、「そういったお値段は、そのものの価値がはっきり解らない時に付けているお値段です。今度の場合はきちんと価値を認め、それ相応の値段をつけておりますから、これ以上はとても無理です。」といって断ったそうです。Sとしては「これ以上に高く買わされては、自分のコミッションが無くなってしまい、何をしていたか解からないような商売になってしまう。」「それならやらないほうがいい」とその瞬間思ったそうです。Sの態度から、ご主人もこれ以上は、到底無理であろうと思われたようで、結局その値段で売ってくださることになりました。
その9
喜びの表情を一杯に浮かべて入ってこられたSを見て、「うまくいった」と悟った父は、とても喜びました。しかし値段を聞いたときの母の渋い顔。表立って反対はしませんが、銀行から借金をしてまで、中国陶器にお金をつぎ込むのには反対のようでした。これで又、母の無言の抗議の宝石買いがあるなと、私はその時思ったものです。ところでこのお話、最初は香辛料、そしてそれが香木にと替わり、更にお金と明五彩の鉢へ、次いでお店の権利と玳波天目へと替わっていき、最後は子供達の出世と引退後に備えての充分なお金と替ったなんて、まるで藁しべ長者の物語のようだと思いませんか。世の中、幸運な人もいらっしゃるものです。

No.56 複合汚染と育てられた妖怪パクリンチョ

最近の社会情勢を見ておりますと、日本が今後何処の方向に流れて行こうとしているのか不安に感じませんか。親は子を殺し、子又親を殺します。親は不倫に走り、子は自分の勝手でしょと嘯き(うそぶき)非行に走ります。夫婦も家庭もバラバラ、政治家は己の利益に汲々とし、官僚又自己の保身に走り、省益ありて、国益無しといったありさまです。
会社の経営者の中には、哲学も道義心も無く、利益の為には平気で消費者を欺き、会社を倒産させて、多くの従業員を路頭に迷わせても平然としている人もいらっしゃいます。市井の人々も又己の立場をわきまえず、裁判官が児童買春で捕まり、校長先生が万引きで引っ張られると言った、その立場にある人が絶対にしてはならない事がニュースとなって賑わせております。街に氾濫するコマーシャリズムは、欲望を無限に刺激し続け、テレビの報道はその影響力の強さに対する自覚も無いままに、昔の見世物小屋のように、珍しい物、面白い事だけを追いかけ、世論をミスリードし続けます。

このような社会に生まれ育つ子供達が、まともに育っていく事の、どれくらい大変な事かは言うまでもありません。単に 一家庭だけでは、どうしようも無いような、複合精神環境汚染のなかにあります。こちらを直せばあちら、あちらを正せばこちらと言う風に、まさしく何処から手をつけたらがいいのか、解ら無いような状態です。とは申しましましても、だからと言って親が拱手傍観(きょうしゅぼうかん:手をこまねいて何もしないで見ていること)していればますます悪くなっていくしかありません。せめて親くらいは 今まで生きてきた知識と経験を生かして、身を挺して精神的環境汚染から子供を守り、人間としての生き方への指針を与えてやろうとする必要があります。
所が親達もまたこの消費社会に流され、克己心を失い、欲望の渦の中に巻き込まれて、アップアップしているのが現状です。この為 ごくごく普通の家庭で、ある日突然、新聞の三面記事を賑す様な悲劇が起ってまいっております。この童話も 日本の何処にでもあるような平凡な家庭に、いつのまにか育っていった、妖怪パクリンチョのおはなしです。
小さな街のごく普通の家に、かわいい女の子が生まれましたと。おうちはお金持ちとは言えませんが、それほど貧しくも無く、母方の実家の援助もあり 両親、お爺さん、お婆さん、そして叔母さんの愛を一身に受けとても幸せでした。所が、国鉄に長く勤めていたお爺さんが退職後まもなく 病気で亡くなった頃から、それはその女の子が5歳になった時のことですが、そのころから、幸せな一家に不幸の影が射してまいりました。あれほど優しくおとなしく、理想的なマイホームパパと思われていた父親が、次第に遅く帰ったり、時々外泊したりするようになってきました。
中でも夫婦の仲を決定づけたのは、その女の子が風邪で熱があって寝ていた時のことです。「お医者さんに連れていって」と母親が頼んでいるにもかかわらず、その願いを振り切って スキーに出かけしまいました(後の調べで愛人と同行したこと判明)。前から夫の事を疑っていた母親は、此れで完全に夫婦仲の見切りをつけ、私立探偵を雇い、夫の身辺調査に乗り出しました。結果愛人がいる事を突きとめた母親は、弁護士を雇い、夫が次の再婚が不可能になるほどの養育費と慰謝料をせしめて離婚してしまいました。
さてこうなりますと、母親も、母親の妹である叔母さんも、おばあちゃんも其の女の子が不憫でたまりません。そのためにどうしても甘くなります。その子が欲しがった時、自分達が欲しくても与えてもらえなかった 自分の幼かった時代(まだ戦後間もない頃で、物の乏しい時代)の悲しい思い出を引き合いにして、可哀想だからと何でも与えてしまいます。食べ物なども、美味しいもの等は、まずその子に食べさせます。皆で分けた時でも、其の子が先に食べてしまい、未だ欲しいというと、大人達は自分の食べる分から子供に分け与えてしまっていましたと。
そんな事をしているうちに、その子はおいしいものの時は、大人達の分を貰って食べるのが当たり前になっていってしまいました。でも小さい女の子が、嬉しそうにパックリ、パックリと食べる姿はとても愛らしく、大人達は其の姿を見るだけで満足で、自分の分を進んで与えていました。中でも叔母さんは この人は恋人はいたのですが、事情があってその人と結婚出来ず、母親(女の子の祖母)と同居していたのですが、とてもその女の子を可愛がり、洋服だとか、玩具、文房具等などねだられると何でも買ってやっていました。おばあちゃんはおばあちゃんで、ピアノが欲しいといえばピアノを、自転車が欲しいといえば自転車をといった具合に、そのうちの経済状態からは不釣合いと思われるような物まで、年金を節約して買い与えていましたと。
こうして我侭いっぱいに育てられてきたその子が、中学に上がった時の事でした。中学に行くようになったのだから、自分一人の勉強部屋が欲しいと言い出したのです。おばあちゃんの夫が僅かの退職金で建てた家の事、それほど部屋数とて或る筈も無く、おばちゃんと離婚してきた母親とが一部屋ずつ取っている現状では、後は3畳ほどの納戸と、おばあちゃんが寝る部屋兼皆の居間にしている所とダイニングキッチンくらいしかありません。おばあちゃんは、「3畳の部屋ではどう」と聞くのですが、それでは嫌だと言ってききません。おばちゃんの部屋が欲しいというのです。おばちゃんは 子供時代から住んでいたその部屋を 最近洋室に改造したのですが その部屋を欲しいというのです。母親もおばあちゃんもさすがにそれに対しては、「駄目」「そんな事を言うのはおばちゃんに出て行けと言うような物よ」といって諌める(いさめる)のですが、今まで何でも思う通りにしてもらっていた女の子は、なかなか聞き入れません。
勤めから帰って その話を聞いたおばちゃんは、少し悲しそうでしたが それでも「そんなに欲しがるならあげてもいいよ。私は納戸の横に部屋を建て増して、そこに住むから」と言って自分の部屋を譲ってくれたのです。こうして可愛い妖怪パックリンチョは、とうとう叔母ちゃんの部屋まで呑み込んでしまうほどに、大きくなってしまいました。
さてその後も、パクリンはおさまりません。益々大きく、且つ多くなっていきました。その娘さんが高校、大学へと進む様になった時は、彼女の欲望はもう家庭の経済力ではとても対応出来ないほどに大きくなってしまいました。併しこういった我侭一杯、天真爛漫の性格は、見方によってはとてもチャーミングでコケティシュです。その上、当節風の美人で、小顔、色白、スタイルも良いと三拍子そろっていましたから、男性達がほっておきません。いつも贈り物の山です。ショウウインドウの前で足を止めて眺めるだけ、或いは、ただにっこり笑っているだけ、「すごーい。」「そんなー、わるいわ。」「嬉しい。生きていて良かった。」「一生の宝物にさせてもらうわね」などといっているだけで、欲しいものが手にはいるのです。こうしたパクリンが、物に留まっているうちは未だ良いほうでした。
パクリン癖は、成長するにつれやがて人間にまで及んでいったのです。大学生になった頃より、友達の彼氏でも、むしろ友達の彼氏であれば余計にかもしれませんが、いつのまにか彼女のほうを向かせ、掻っ攫って(かっさらって)しまうようになっていました。そうこうしているうちに、ついにはあの可愛がってくれていた、おばちゃんの恋人も奪ってしまったのです。その叔母さんと彼氏は、長い間交際していたのですが、男の方の家が旧家で、親がどうしても許さず、だからといって二人は別れる勇気も無いので、親には内緒の別居結婚の様なかたちをとっていました。教養も地位も、そして30歳台後半の渋さと分別も兼ね備えた、その男の人を どういう手管で誘惑したのか、それとも長すぎた春で、倦怠期が来ていて、男の方から誘ったのか解りませんが、とにかく叔母さん達が気のついた時は 二人はもう深い、深い仲になってしまっていたのです。こうなると叔母さんとしてはもう身を引くより仕方がありませんでした。
彼女はそんな事で姪と争うような事を好まなかったし、また若くて魅力的な彼女にかなうはずも無いと思ったからです。傷心の叔母さんは、それまでのお勤めをやめ、家を出て、黙って遠くへ去って行ってしまいました。母親と祖母もさすがにこれには怒りました。叔母さんの手前もあり、「彼との関係が続いている限り、家の敷居はまたがせないから」と家をおいだしてしまいました。人のものをなんでも呑み込み癖が此れで終わって、治まる所に治まってくれていれば、それでも未だ救いがあります。しかし正式に結婚することもなく数年後には二人は別れてしまいます。まもなく彼女は、こんどはお勤め先の妻子持ちの男性と割り無い仲になってしまったのです。大きな本屋さんの二代目だった相手の男性は、40台前半、もう充分 分別の或る年令になっていたにもかかわらず,自分の子供とあまり年齢の違わないようなその女性に夢中になってしまい、その女性の言うままに、妻とは離婚し、二人の子供とも別れて、彼女と再婚したのです。
家庭まで呑み込んでしまったパクリン癖はその後も変わりません。交際範囲はますます広くなり、高価な品物を欲しがる頻度も増えてまいります。いくらお金持ちの家でも無限にお金がある訳もありません。その上、本の売れ行きが次第に少なくなり始めていた時代とぶつかり、経営はおもわしくなくなってきます。ましてご主人はその女性に振り回され、商売に身が入らないのですから、余計にダメージが大きくなります。やがて経営が次第に苦しくなり、気の弱いご主人は、その心労のためか、その女の人に振り回されて、精魂尽き果ててしまったためか、結婚後10年少しで亡くなってしまったのです。
こうしてお店も、旦那も呑み込んでしまったパクリンチョは借金の返済やら、お店の整理やらで、暫くは おとなしくしていました。この時まで、商売などとは全く無縁であった彼女が、その整理の過程でいろいろの人と知り合いになります。幸いにも亭主の掛けていた生命保険と彼女の周りに集まった人々の助けで、思ったより沢山のお金を手元に残してお店の整理も済まし、彼女は益々美しく、益々魅惑的になって甦ってきました。当時40歳台に入っていた彼女でしたが、その年令とはとても思えないほどに若々しく、滴り落ちるような色気を振りまくようになっていました。
彼女の周りにはますます人が集うようになり、彼女は以前にもまして華やかな生活をするようになっていました。どちらから言い始めたのか、やがて彼女は、お店の整理の過程で親しくなった、少し怪しげな男と組んで、お金持ちを相手にした、絵画の投資組合のような物を始めました。仕組みは簡単で、知り合いのお金持ちからお金を集め、それで共同の絵を買い、それを他にリースして、賃料を取り、又絵が売れたらそこでも利益を出して、配当金を出すというものです。「名画が貴方のものになり、その値上がり益と配当金が楽しめる」というのがキャッチフレーズでした。時はちょうどバブル絶頂期の頃の事、余っている金を何とか有利に運用したいと思っている金持ちは、山ほどいました。当時は物の値段 、中でも絵の値段は狂気のように上がっていった時代の事、紹介、紹介で彼女のところに訪れる人が後を絶ちませんでした。
彼女の魅力的な容貌とそのトークにかかると、男姓だけでなく、女の人も皆 信用してしまい 投資資金を提供してくれます。こうして集めた金額は十数億円、素人の彼女達だけではとても手におえる金額では無くなってきてしまったのです。それでも最初のうちは集めた金から絵を買い、配当を出し、解約を求めるお客さんにはお金を返していたのですが、絵画投資で、短期間に、お客様を確実に満足でさせうるような、そんな高利回りが期待できる品物があるはずも無く、結局蛸足配当という事になり、当然待っているのは、行き詰りでした。その上パクリンチョの彼女のこと、お金が入れば、自分のお金と錯覚してしまい、自分の贅沢にかなりの金額を使いこんでしまったのです。相棒の男はこれに輪を掛けて浪費癖があり、あっという間に資金繰りが苦しくなってしまいました。
このような危なげな商いには、必ずそれを横から掠め取って行こうとする 怪しげな一団がくっついてきだすものです。まして最初から怪しげな人と組んでいた彼女のこと、そのような大金を動かすようになるに連れ、彼を通し、又他の彼女のルートをとおして いろいろな怪しげな人が接触してきました。彼等は、これまでパクリンチョが接してきた人達のように、女の色気に弱い人ばかりではありません。むしろ女を利用し、女からむしりとってお金を儲けてきた人たちでした。彼等は彼女の弱みに付け込み、お金を掠め取ろうとして群がってきたのです。彼女より一枚上手の彼等に掛かれば、素人同然の彼女たちなどは赤子のようなものです。煽てられたり、騙されたり、脅されたりといった彼等の手管にかかり、他から呑み込んできたものを、彼女自身も含めて呑み込まれる側となってしまいました。以降の彼女は、鵜飼の鵜のように、こういった男達の分まで、お金を取り込んでこなければならなくなってしまいました。
このため彼女は前以上に、いろいろな人に声を掛け、見境無くお金を集めました。しかしその結果は、世間的に恐ろしがられているような、怖いお兄さん達男達も引き寄せてきてしまったのです。彼等は騙されたままで、黙って引っ込んでいるような人々ではありません。彼等はそれに倍した金集めを要求してきます。こうした悪循環によって、他人からのお金を呑み込んで、一杯、一杯に膨れ上がった妖怪パクリンチョは、ある日とうとう騙した男の一人によって、海の底深くに沈められてしまいましたと。膨れに膨れたパクリンチョのお腹は、呑み込んだと思った男の、中からの一刺しによって、パチンと弾けてしまったというわけです。悲しい結末でした。やはり我慢する事と、分を弁え(わきまえ)、足るを知るということを、身につけさせておくべきだったのでしょうね。
註:この話はフィクションで、童話です。一部ヒントをいただいている所があるかもしれませんが、実在の人物とは関係ありません。この種の怪しげな投資話は、絵画に限らず、株とか、金とか、石油、健康食品、化粧品といったいろいろな商品を使った、いろいろな手口で、手を変え、品を変え 巧妙に貴方を狙っています。うまい話にはくれぐれも御用心 御用心。