このお話はフィクションです
その4の1
積善寺の境内では侍女のお菊が、懸命に美貴の姿を探しておりました。
積善寺は、金蘭渓谷を取り囲む山々を、川辺の郷の方に向かって、やや下った所の山の中腹にあり、臨済宗・建仁寺派の僧、宋雲の創建になります。
応仁の乱によって、寺院を焼かれ、弟子宋伯をつれて、全国行脚の旅に出ておられた僧、宋雲殿が、途中、たまたまお立ち寄りになったこの地で、領主頼兼(現領主頼貞の祖父)と気が合い、彼の強いご要望に応えられる形で、お留まりになったのが(この寺院の)始まりです。
創建当時は、庵(いおり)程度の小さな寺でしかありませんでしたが、頼貞の代になって、彼の寄進によって大増築され、今では近隣でも、名だたる大寺院と変わっております。
「お嬢様、お嬢様、美貴お嬢様、何処においでですか。
何処にお隠れですか。
この声をお聞きになりましたら、どうかお返事を。
あまり困らせないでください、お願いですから」とお菊は呼び続けました。
しかし、返事もなければ、姿も見えませんでした。
積善寺での手習いが終わった後、送り出してきた寺僧と、立ち話をしていた、ほんの僅かな時間に、美貴お嬢様の姿が、見えなくなってしまったのでした。
最初は、いつもの悪戯で、どこか近くに隠れていらっしゃるだけだろうと思い、境内の隠れられそうな場所を、あちらこちら探し回りました。
しかし、何処にも見つかりませんでした。
「お嬢様、お嬢様、お返事を」と叫ぶお菊の呼び声は、次第に悲痛な響きを持つようになり、最後は半泣きに変わっていきました。
「茂助、茂助、大変、大変、お嬢様が見当たらないの。
境内くまなく探し回ったんだけど、何処にも見当たらないのよ。
お前、知らないわね」
「エッ、いらっしゃらないのでございますか、そりゃ大変。
でも、私、ずっと庭におりましたが、怪しい奴の姿なんか、どこにも見かけませんでしたよ。
だから、誰かに連れ去られたとは、思えんのやけど。
もしかしたら、自分で、外にお出になられたんと違いますか。
つい先ほど、習い事を終わったばかりの子供たちが、数人ずつ固まっては、外に出ていきましたから、その中に紛れて(まぎれる)外へお出になったんやないやろか」
「私、すぐに、外を探してみますが、ただ、私一人で探すには、山は広すぎます。
お寺の人達にも、一緒に探してもらうよう、お頼みしてもらえんやろか」と茂助。
茂助は、美貴が砦の主として、金蘭の谷に派遣された時、美貴のお守り役の男衆として、斎木家から付けられてきた40代も半ばを過ぎた仲間(ちゅうげん)です。
註:仲間(ちゅうげん)・・・武家、寺院、公家等に使える従者の一種。中世では侍と小者との中間に位する者。近世になりますと、足軽と小者との中間に位する者を指すようになります。
実直で、勇敢、武道にも通じ、力持ちです。しかし、少しのんびりして、気の利かない所があります。
「ずっとお前が庭に居たと言うのに、どうして、お嬢様が、門の外に出て行かれたかどうかさえも分からないのよ。
一体、お前、庭で何をしていたの」と咎めるような強い口調で詰る(なじる)侍女のお菊。
お菊は、30代半ば、美貴お嬢様が金蘭の谷の砦に派遣されてきた時、付けられてきた、付け人達の中の一人です。
他に警護の下士侍が3人程と、乳母、仲間、下女、下男などが斎木の家から、付けられてきています。
しかし、その立場上、美貴のお守役は、お菊が責任者という事になっております。
従って、思いもかけない、とんでもない出来(しゅったい)に、お菊は気が動転して、言葉も自然にきつくなっております。
「別に何も。『ただ紅葉が一段とすすみ、綺麗だなー。
お城の大銀杏も、もう色づいているだろうか。
家族たちは、どうしているだろう』と思って、眺めていただけでございます」
「お菊様こそ、何をしてらっしゃったのですか、お傍に付いていらっしゃりながら」
「わかっていますよ、私にも落ち度があったことくらいは。
でも、今はどちらが悪いかなどと、お互い、論いあって(あげつらう)いる場合じゃないでしょ。
お前、外を探すなら探すで、早く(探しに、)お行き。
わたしも、お寺の人達に、至急助けてくれるよう、お頼みするから。
ともかく今は、一刻も早く、お嬢様を探し出すことが先決でしょ。
早くお行き。
もし、お嬢様に万一の事でもあろうものなら、私等一同、無事じゃ済みませんからね。
早く。早く。私も、寺の皆様方に、お頼みしたら、直ぐに後を追いますから」とお菊。
その4の2
私、美貴は、この寺に手習いに来ていても、孤独でした。
積善寺の寺小屋に通う事が決まった時に持った、もしかしたら友達が出来るかもしれないという、密かな期待も空しく、寺小屋に通うようになっても、話しかけてくれる子も、隣に座ってくれる子も出てきませんでした。
山岐一族の子供たちにとっての私、美貴は、「気位が高いお嬢様で、自分達の事を見下しているような子だとか、子供同士で遊びたがらない、風変わりな子、大人達ばかりの中で育てられてきた、内気で、引っ込み思案の子」等などのように思われていて、誰も近寄ってきてくれませんでした。
大人達からも常々、「あちらさんは(斎木の者)、私どものようなもの(山岐のもの)がお近づきになる事を、迷惑がっていらっしゃるようだから、話しかけたりしないように」と、言い聞かされておりましたから余計でした。
そうかといって、斎木の一族の子供たちとも親しくなれませんでした。
ついこの間まで、同じ城下に住んでいたわけですから、お互い、全く知らない間柄ではない筈です。
まして兄の頼正に至っては、同じ屋敷内に住んでいたのですから、寺小屋に通うようになれば、懐かしがって、もっと近しくして貰えるものとばかり思っていました。
しかし、彼らの誰もが、私の事を、知らないふりをしていて、近寄ってもくれなければ、話しかけてもくれませんでした。
私の方
から話しかけていっても、皆、まるで見知らぬ国の人に話しかけられでもしたかのように、無言のまま、そそくさと離れていってしまって、誰ひとりとして、応じてくれませんでした。
その日もそうでした。
たった一人でいる事に、寂しくて仕方がなくなった私は、寺の外に出ていこうとする、斎木の子供達の後ろにくっついて、門の外に出ました。
しかし、彼等は、後ろに付いて出てきた私の事など、全く気にかけてくれませんでした。
自分達の仲間(なかま)内だけで、固まってしまっていて、だれも声をかけてくれませんでした。
彼らの仲間内の一人が、さすがに気にして、「美貴お嬢様がついてこられていますが、あのまま放っておかれて大丈夫でしょうか」と兄頼正に尋ねてくれました。
しかし、腹違いの兄である頼正は「あんな妾の子なんか、どうなっても知るもんか。
いっそ、山犬にでも食われて、死んでくれたら助かるんだけど」と言うと、さっさと先に立って行ってしまいました。
そこには、兄弟としての親しみを感じさせるものは、全くありませんでした。それどころか、私に対して、むしろ、憎しみを抱いているようにさえ思えました。
註:このお話の時代は、家の継嗣(あとつぎ)になる者についての決まりのない時代でした。
その上、この時代は、後世、戦国時代といわれている時代で、覇権を巡って(めぐって)、親子であれ、兄弟であれ、主従であれ、争いが起こっていた下剋上の時代でもありました。
従って、頼正の場合も、長男だからといって、領主の座が自然に転がり込んでくるとは限らない時代でした。
領主の寵愛が、第二夫人に移れば、その子である美貴が跡継ぎとなる可能性が小さくありません。
なにしろその時代は、領主に相応しい男性を婿にし、それに跡目を継がせた例も、少なくなかったからです。
従って、頼正とその母親が、美貴親子を警戒し、邪魔にしていたのも無理からぬ所があります。
頼正達の後について、寺の外に出てきた私は、こうして寺の外に、たった一人で、残されてしまいました。
当時の私には、一人でいる事は、別に珍しいことではありませんでした。
だから、そうなったからといって、別に怖くもなければ、寂しくもありませんでした。
私は、一人で、寺の裏手に生えている、栗の木の下で、栗を拾い始めました。
まだ、誰も拾ってなかったと見えて、栗は、面白いほど、落ちておりました。
私は、夢中で栗を拾い集めました。
その5へ続く