彼女を最初に見かけたのは、確か私がダゲール長屋に住み着いて一週間くらい経った後の事でした。当時の私は、長い、長い船旅の後に着いたパリの街は何もかにもが新鮮で物珍しく、下宿に着くや否や、荷物を解くのももどかしいくらいにして、街に出かけ、その風景や街角の人々を写すのに余念がありませんでした。
その日も、昼間は前日までのスケッチ帖を下に、部屋で制作に励んでいました。そして夕闇がパリの街を包み始めた頃、そうちょうど、下の市場に立ち並ぶ、飲食店からの食べ物の匂いが、上にまで立ちのぼってき始めた頃でしたが、その匂いにつられるようにして、パリの町並みのスケッチのために出かけようとしていた私と、お勤めから帰ってきたらしい彼女と、階段ですれ違ったのが最初でした。彼女は油絵の具で汚れ、よれよれの服を着込んだ東洋人の私のことなど、何の印象もなかったようで、チョット怪訝な顔をしたものの、それも一瞬のこと、後は何事もなかったように階段を上がっていってしまいました。一方、私のほうは確かにドッキリいたしました。何ヶ月もみてない妻のLに似た顔立ちに、深い哀愁を帯びた瞳、しかし意志の強そうな唇、大理石のような透明感のある滑らかな白い肌、眼の覚めるような鮮やかなそして豊かな金髪、女性らしい膨らみを伴ったすらっとしたスタイル、そして質素だが清潔感の伴う服装、それらの全てがうまく調和していて気品があって美しく、とても印象的でした。それは私が子供のときからあこがれて続けている理想の女性像の化身のように思えた記憶がございます。しかしそれだけの事で、私はそのままパリの街へとさまよい出ました。
パリの街は到着したときと同じように活気に満ち、新鮮でした。その街並みをお洒落な服装で行き交う女性達の姿、街角にたたずみ人待ち顔に辺りを見回している人、うらびれたパリの裏通りで夕餉(ゆうげ)の支度に励む、その生活にくたびれたような女性達の姿、そして街角のカフェに座って、ぼんやりと街行く人を眺めている女性、それらの全てが皆強烈なエキゾチシズムを呼び覚まし、前日までは、私には制作意欲をかき立ててくれるものでした。パリの街の夕刻は私達エトランゼ(異邦人)にとっては澄ましていて冷たく、他人行儀です。夕刻の街路を、帰宅を急ぐ人々は無論のこと、街角に人待ち顔に佇んでいる人にしても、うらびれた裏町で夕餉の支度に励む人にしても、或いは、カフェに座ってぼんやり通りを眺めている女性にしても、所詮彼女達にとっての私はエトランゼにしかすぎません。哀愁に満ちた女性の表情が気になったとしても、生活に草臥れたように見える夜の女たちに同情したとしても、私にはどうしてあげることも出来ませんし、彼女たちからも何の期待もされていません。無論その心の襞を覗くことなど出来っこありません。彼女たちにとっての私は風景の中の一部でしかなく、私にとっての彼女たちは、あくまで通りすがりの旅人として、傍観者として、眺め、描く対象でしかありません。フランス語が不自由だった私の場合は特にそれ以外どうしようもなかったのです。しかしそれは絵を描くという面では良いことだったかも知れませんが(もし上手に話すことが出来ていたら、その人たちの生活へ入り込みすぎて、想像力が働く余地がなくなり、描くほうはさっぱりだったかもしれません)生活していく上では、とても寂しい事です。大海原の中に、ぽつんと取り残され、さまよっているような心細さです。その日の夕刻は彼女と会ったせいもあってか、余計に孤独感が強く、強いホームシックに襲われました。遠い日本で留守を守る妻や、故郷で帰りを待っていてくれる母を想い、点り始めた街灯の灯りが、涙でぼやけてしまったのを覚えています。
その夜、下宿に帰った私は、その女性の面影を下に、猛烈に制作に打ち込みました。夢に描いていた理想の女性像の姿を画布に留めておきたいと、一晩中キャンバスに向っていました。ちょうど先刻のあのマネキンに出会った時のようにね。描いても、描いても次々と新しい発想が浮かんできて、時間の経つのに気付かなかったほどでした。
いろいろな人から聞いた噂話では、彼女はロシア貴族の末裔だとかだそうで、当時二十歳そこそこだったようです。その育ってきた環境の為か、若い割にしっかりした考えの持ち主で、プライドも高かったといいます。それゆえに同じ下宿に住んでいる口さがない女達の間では、お高く留まっているとか、澄ましている、冷たいなどといわれ、必ずしも評判が良くはなかったようです。彼女ほどの美貌なら、いろいろな誘惑もあったのでしょうし、それを利用しての職業に就こうとすれば、もっと有利な勤めがいくらでもあったでしょうに、彼女は大変に身元が固く、浮ついた職業には見向きもしなかったようです。きちんとした資格を身につけたいと願っていましたから、昼は洋品店の売り子をしながら、夜は学校に通って会計士か何かになる勉強をしているとのことでした。子供の頃の話は殆どしない人だったそうですが、幼い時から、かなり苦労をされたようで、警戒心や、自立心が強く、人に頼らないで生きていこうとしているような感じでした。私達は私の友人と三人で、一、二度一緒にカフェでお茶をした事がありましたが、その時でも自分の飲んだ分はきちんと自分で支払っていきました。どちらかというと無口で、友人が盛んに話しかけるのですが、言葉少なに返事をするだけで、積極的に自分から話することはありませんでした。そして、そのまるで5月の空のように青い瞳は、深く遠く神秘的で、じっと見つめられると、吸い込まれていくほどに魅惑的でしたが、その瞳はいつも遠い何かを眺めているようで寂しく悲しげでした。
私の方は、彼女と会っている時も、会話のほうはもっぱら友人に任せ、彼女をスケッチ帖に描き写すのに余念がありませんでした。流れるようでかつボリューム感のある金髪も、透き通って大理石のような白いうなじも、何かを見つめてじっと耐えているような、その哀愁に満ちた瞳も、そしてその美しいスタイルがかもし出すノーブルな雰囲気も、これらの全てが、何もかにもが素晴らしく、理想的なモチーフでした。
彼女と会った後の私は、しばらくの間はどの女性を描いても彼女の雰囲気に似てしまって困ったものです。
こんな私の気持ちを察した友人が、彼女にモデルになってくれるように一度頼んでくれた事がありましたが、名も知れない東洋人の、しかもデフォルメされた変てこな人物像を描いている、風体も貧しげな、売れない画家のモデルになどなってくれるはずもなく、丁重に断られてしまいました。
二人はその後も階段ですれ違えば、挨拶するくらいの仲ではありましたが、それ以上の何があった訳でもなく、やがて私が、故郷の父の病気で、急遽その下宿をたたみ帰国の途についてしまいましたから、それっきりとなってしまいました。
したがって私にとっての彼女は、ただの通りすがりにすれ違った女性の一人にしか過ぎないはずでした。パリで描いた、沢山のモデルさんたちの一人でしかないとついこの間までは思っていました。事実帰国してからも、その後再び妻達とヨーロッパに再々旅行したときでも、彼女の事を特に意識した事もなく、いつの間にかすっかり忘れ去ってしまっていました。それが今頃になってこんなにも懐かしく思い出されてくるというのは、自分ながらに不思議です。
彼女、今頃何をしているのでしょうね。まだお元気で、お孫さん達に囲まれながら、幸せに暮らしていらっしゃるのかなー。或いは念願かなって会計士になられ、今でもバリバリ仕事をしていらっしゃるのかなー。私の知っている人々が、もうパリの何処にもいなくなってしまっている今では、その消息を尋ねる術もありませんが、なんだかとても気になります。これって年寄りの懐古趣味のせいでしょうかね。それとも老人ボケによる妄執なのでしょうかね。いろいろ考えさせられてしまいましたよ。それにつけてもあのマネキンさんにもう一度会いたいですね。
とじっと見つめながらおっしゃる先生の瞳は、少年のそれのように純に澄み、時空を越えた遥か彼方をみつめていらっしゃるようでした。ちょうど先生の絵画の中に出てくる少女達の瞳のように・・・。
蛇足・・・所で皆さんこの先生とマネキンとの出会いの結末、気になりますか?H百貨店の催事担当者に聞けばそのマネキンは簡単に見つかると思って、直ぐに当たってみました。
ところが、今の所見つかっておりません。その時期に使われていたと思われるマネキンの会社から、カタログを取り寄せ、その時の催事の担当者に聞いて、多分これだろうと思われるマネキンに印をつけ、先生のところに持っていったのですが、違うとおっしゃるのです。カタログに載っていたマネキンを全部見て探されたのですが、似ているのはあるが、違うとおっしゃるのです。われわれとは違う画家の目の鋭さで、大量生産品の中から一体、一体の違いがわかるようなのです(マネキンの会社の人の話では、一体一体にそれぞれ化粧をするから、その為印象が違うのでないかとのことでした)。もう一度振り出しに戻って探していますが、そのときに展示していたマネキンそのものを探すということになるとチョット事ですね。
※この話はフィクションで、参考にしてある部分はありますが、実在の画家とは関係ありません。