このお話はフィクションです似たような所があっても、偶然の一致で、実際の事件、事物、人物とは関係ありません。
その13
ご主人のお店に置いてきた絵が心配で、なるべく早く、戻ってくる心算でしたが、御主人の熱心さと、その家のあまりの立派さに、思わぬ時間が取られてしまい、一時間半近い時が過ぎてしまいました。
あの店に、大金が置いてあるとは思えなかった私は、車に乗るとすぐ、「もしお買い上げいただけるのでしたら、現金決済にして頂きたいのですが、よろしいでしょうか」ともう一度、念を押しました。
ご主人は「分かってる」と不愉快そうにおっしゃっただけで、それ以上何も言われないままに、急に黙ってしまわれました。
無論、価格をいくらにして欲しいなどと言う話もありませんでした。
急に寡黙に(かもく:言葉少なの意)なられ不愉快そうな主人の態度に私は、
支払いの事を再度、念を押したので、御機嫌を損じたかな、と思いました。
しかし私としては、この取引には気になる点があまりに多いものですから、この時点で、多少相手の御機嫌を損ねたとしても、こちらの言い分は通そう、そうでなければ、この取引は止めて、作品は持って帰ろうと決心していました。
従って、お客様が多少御機嫌が悪くされていてもかまわず、強いて話しかけて御機嫌をとるような事もしませんでした。
気になったのは、先ほど申した事のほかにもいろいろありました。
例えば、家が、略(ほぼ)、完成してきているのに、外構工事には、手をつけられた形跡さえない事です。
家の建築資材や造りについては、あれほど詳しく、饒舌だったご主人が、外構については、何の話もされません。
外回りは未だ手付かずで、敷地はむき出しの土のまま放置されており、隣の家との境界は、相手側のフェンスで仕切られているだけでした。
道路から家の敷地への、取りつけ通路については、コンクリートの下地にアスファルト舗装をされるつもりのようで、25センチほどの深さに掘り下げられてはおりましたが、それも、それ以降は工事途中で中断されている様子であることも気になりました。
また、庭もありません。あの立派なリビングから見下ろせる、家の南側の敷地も放置されたままです。もう間もなく入居と言う状態になっているのでしたら、普通なら、造園の方もある程度は進んでいるはずです。少なくともそれについても何らかの話があっても良いはずです
にもかかわらず、あちらこちらが放置されたまま、庭や、外構工事は手つかずと言うのは、この不景気で、急に金繰り(かねぐり:資金の調達)が悪くなって工事が中断しているという可能性だって否定できません。
こういった点から考えると、これ以上無理して買ってもらおうとしない方が良いのではないかと思えました。
その14
彼のお店についた時、そこには、胃袋が裏返って、口から飛び出してくるのではないかと思うほどの驚きが待っておりました。
お店の扉は、開け放たれ、応接セットのテーブルの上に置いておいた絵は全て消え失せてしまっていました。
「泥棒」と思った瞬間、一瞬目の前が真っ暗になりました。全身の力が抜けてしまいました。震えが止まらず、立っているのが辛いほどです。
車から降りてこられたご主人も、「エーッ、ほんとに、こんな事って、あるんかいな―」
「ここら辺りで、こんな話、あんまり聞いた事ないぜ」
と大変、驚いておられる様子です。
家の中に飛びこんだ私は、慌てて、辺りを見回しました。
しかし、やはり絵は何処にも見当たりません。
家の中はさほど荒らされた様子はないのに、ただ絵だけが無くなっておりました。
「誰かお知り合いの人が訪ねて見えたのと違いますか。
例えば奥さんのような。
それでご主人がお買いになったものと勘違いして、こんな所に置いておいては物騒だと思われて、何処かにお片付けになったのと違いますか」と私。
「いや、そんなはずはないと思う。女房や子供は、滅多にこんな所に来ないから。
でも、そう言われるなら、念のために聞いてみますわ」とご主人。
2,3ヶ所、電話をされたご主人は、「やはり、家の者は誰も知らんみたい。他に、私の知っている奴で、ここにおいてある物を、黙って持って行くような奴の心当たりはないから、これはやはり泥棒にやられたんと違うか。
直ぐに警察に届けたら」と言われます。
その15
電話をした後、思ったより早く、警察の方は来て下さいました。
やってこられたのは4人ほどで、一人は事情聴取を、他の方々は、あちらこちらを調べ、犯人逮捕の手がかりになるものはないかと、店の中のあちらこちらを調べ、写真を撮ったり、指紋をとったりしていかれました、念のためにというので、私達の指紋も採っていかれました。
彼らの話しぶりでは、鍵は合いカギかピンのようなもので開けられていて、その手口の鮮やかさから、相当手なれたプロの仕業であろうとの事でした。
何でも震災後、関西方面から、プロの窃盗団が入り込んできているようで、こういった空き巣狙いとか、車上荒らしが横行して困っているとも言ってらっしゃいました。
こういった窃盗事件の場合、結局、被害届を出しただけで終わりです。
警察だってこんな窃盗のような小さな事件だけに関わっているわけにはまいりませんから、積極的に捜査し、泥棒を捕まえようとしてはくれないのが普通です。
良くやってくれて、せいぜい近所に目撃者がいないか聞き込みをしてくれるくらいです。
でも、ほとんどの店が閉じられ、人通りも少ない、この寂れた商店街で、目撃者が現れるとは思えません。
後は、運が良く、偶々(たまたま)捕まった泥棒が、余罪として、ここでの窃盗を白状してくれる場合を待っているだけです。
しかし、その頃には、絵はもう第三者に渡ってしまっているのが普通です。
だから盗られたら最後、戻ってくる可能性は殆どないと覚悟する必要があります。
もし見つかったとしても、善意の第三者に渡っている場合、その人の買った値段で買い戻さなければなりませんから、それはそれでかなりの物入り(費用)です。
その16
背に腹は替えられません。
ここまでくれば、お客様だからと言って、遠慮ばかりしてはおられません。
私は「ご主人、貴方、先ほど、『もしなんかあったら、そんなもん位、私がなんとかしたる』とおっしゃってくださいましたよね。
私それを信じて、作品をここに預けておいたのですから、当然責任をとってくださるのでしょうね」 と申しました。
所が「エッ、そんな事言いましたっけ。そんな記憶ないなー。
でももし、私が何かを言ったにしろ、あなたの所の作品でしょ。
誰かの意見に惑わされることなく、自分で万全の処置をしておくべきだったのではないですか」と“しれっと”した(動ぜず平然としたさま)顔で言われます。
「そんな事はないでしょう。貴方が大丈夫と言われたから、信用してここに置いたのです。ですから、その時点で、貴方のところで預かった事になるのではないですか。
私としては、貴方には、弁償する義務があると思いますが」私が言いますと
「そんな事出来ませんよ。未だ買ってもいない物を。そう言えば、あなたのお店では、動産保険に入ってらっしゃらないのですか。もし入ってらっしゃるのでしたら、そこから払ってもらえば良いのでは」とご主人。
私も、もしかしたらと思って、私の入っている、保険会社に届け出がてら様子を話して、聞いてみました。
すると、「今お聞きした状態では、お支払いは無理かと思います。
一般に、こういったケースでは、
置いてあったお店の責任か、それとも絵画の持ち主である、画商さんのほうの責任かと言う事になりますが、
聞いている限りでは、置いても大丈夫と言われた以上、お店が預かった訳ですから、そのお店の方に主たる責任があるように思われます。従って、私どもの保険でのお支払いは無理かと思います。
それに犯行そのものからして、ガラス窓が壊されていたとか、犯行の目撃証人がいたとかといった、泥棒に盗られたと言うはっきりした証拠もありません。
ただお宅と、絵画を置いておいたその店のご主人との二人だけのお話でしょ。
そちらの方から考えても、保険金は出難いと思いますよ。
確かに盗られたと証明するものが、ほとんどありませんもの。
警察の聞き込み捜査によって、新たに犯行の目撃証人でも見つかれば、話は別ですが」と言う返事でした。
その旨、御主人に言いましたが、「そうですか、そりゃーお気の毒ですなー」とまるで他人事です。
弁償してくれそうな雰囲気は、全く感じられません。
次回へ続く