このお話はフィクションです万一、似たようなところがありましても、偶然の一致で実在の人物、実在の建物、実際にあった事件とは全く関係ありません。
その1 始めに
5月に入ったある朝、親しくしていただいているT画廊をお訪ねした時の事です。
ご主人、なんだか難しい顔をして、新聞に見入っていらっしゃいます。
「どうしたの、難しそうな顔をして。またなんか大事件のニュースでも載っていた?」
「いや、そんな事は無いけど。ここ、ここを見ていたんだよ、青ちゃん」と見せて下さったのが、三面記事のページ。
でもそこに載っているのは、別段目新しい所もない、日頃見慣れた、ありふれた記事ばかりです・
「どれ、何。どれの事。何処にも、そんな大して目を惹くニュースなんか、載ってないけど」
「青ちゃん。ここ、ここ、ここのところ」と指さされた所にあるのは、1段、11列ほどの、虫眼鏡でも持って来なければ気付かないほどの、小さなベタ記事。
「震災地で、車上荒らし 宝石商盗難」の見出しも、普通の記事の活字と同じ大きさで、それがやや太くなり、そしてその活字間隔がやや空いている程度です。
記事の内容も、「28日(金)午後2時30分ごろ、福島市春日町の路上に駐車してあった、宝石商A氏の車の中から、宝石、貴金属装飾品入りのカバンが盗まれた。被害総額1,800万円。なお当地方においては、類似の窃盗事件が頻発しており、捜査当局は、厳重注意を呼び掛けている」といった程度で、特に目新しい所も無く、どう考えても、紙面の空欄埋め合わせ用といった取り扱いの記事です。
「この記事に何か問題でもあるの?ただ宝石商が福島で盗難にあったと言うだけの話じゃないの?」
「それとも、このA氏と何か関係でもあるの?例えば身内だとか、お得意さんだったとか」
「いや、全く関係ないけど」
「只ね。私の知っているヴィラ―ジュ画廊のCが、震災後に、あの地方まで出かけていったあげく、絵を盗られたらしいという噂話を思い出してね。やはりあちらの方は物騒なんだなと思って」
「えっそうなの。でもそんな記事載っていたかしら。全然気付かなかったけど」
「新聞記事なんて、その日あった事件全部が載っている訳じゃないんだぜ。編集の時、その日、もっと載せたいと思う記事が沢山あると、画商が絵を盗られた程度の話は、よほど大きな被害でもない限り、ボツになって、載らないのが普通だよ」
「へー、で、Cさん、いくらくらいやられたの」
「それがね、何でも3,000万円ちょっとくらい、やられたらしいんだよ」
「そりゃー大変だ。でもまさかそれだけの絵画を、何の当ても無い所へ、一人でもって行った訳じゃないでしょ」
「そう、確かに、絵を買いたいから見せてくれと言う注文があったから行ったんだよ。ただ、その日、たまたま日曜日だったものだから、従業員も連れないで、一人で行ったのがいけなかったみたい」
「Aさんにしても、Cさんにしても、馬鹿だねー。ああいう大災害の後というのは、捜査当局も手薄になっているため、盗難も多発するものなのにね。そんな時に、そんな所へ、高額の品物をもっていったなんて、それもたった一人で。
それって、泥棒に、『どうぞ、持って行って下さい』といっているようなものじゃないの」
「大体にして、今時、福島県で、絵だとか、宝石などといった不要不急の高額商品が、本当に売れると思ったのかしら?
もともと過疎化の傾向を強く受けている所へあの大災害、そしてさらにそれに追い打ちをかけるかのような原発事故でしょ。
これから以降、あの地方は、当分駄目よ。人は出て行ってしまうわ、若い人は戻ってこないわで、町だって寂れていく一方だと思うよ。
そんな所に住んでいる人が、今、絵や宝石を買おうと思うかしら。普通の感覚の人なら、先行きが心配だから、いくら金持ちだって、美術品だとか、貴金属なんかに、今は目もくれないと思わない?」
「うーん。冷静に考えれば、それはそうだけどねー。でも復興需要を当て込んでかもしれないじゃん」「そんな起こるか起こらないか分からないような景気を当てにして、今さしあたって必要もない、美術品のようなものを先買いする人って、本当にいると思う?私にはそんな人がいるとは、とても思えないけど」と言った所で、ちょうどお客様がいらっしゃったので、その日は、そこで話は打ち切りとなってしまいました。
その2
それから10日位後、先日の話が気にかかった私は、再び、あのT画廊を訪ねました。
Tさんは50歳代半ば、東京都心、銀座に画廊を構え、30年余もの間、絵画の販売に携わってこられている、大ベテランの画商です。
従って、知己も多く、いろいろな経験も積んでいらっしゃいますから、この道の事は、とても詳しい方です。
話題も多く、この業界で起こっている情報にも通じていらっしゃって、いつも面白おかしくそれを伝えて下さいます。
だから私など、大フアンで、話を聞きたくて、折にふれては彼の下を訪れております。
その日も、Tさんは、私の顔を見るなり、切り出されました。
「この間、青ちゃんはさー、『こんな時に福島なんかに絵を売りに行くなんて、馬鹿と違う』と言うような事言ったでしょ」
「あれ、そんな事言いましたっけ。ごめん。でもそれ、言葉の綾で言っただけで、別にCさんの事を貶した(けなす)わけじゃないのよ。こんな事が、Cさんに知られたら大変だから、頼むね」
「分かっているよ。そんな事、人に言うはずないから、別に気にしなくても大丈夫」
「あれから私も、よく考えてみたんだけど、貴女の言う通りだと思うよ。こんな時期に、そんな所へ、高額な絵を一杯、持って行ったなんて、しかも一人でね。それって、どう考えてもおかしな話だもの。
Cって、昔から、わりと慎重な奴なんだぜ。
そのCの奴が、どういう経緯(いきさつ)で、こんな時期に、福島県まで、行く気になったのかとか、どのようにして、そんなに沢山の絵画を盗られることになったのか、不思議でしょうがないんだよね」
「この不景気でしょ。その上震災でしょ。絵も、最近ではあまり売れないから、高額な絵を買ってやろうと言う話が舞い込んできたら、それがどんな場所からの話であろうと、それに乗ってみようかなと思った所までは理解できない事は無いよ。
でもそんな場所へ、たった一人で、出かけて行った事とか、どのようにして、そんな沢山の絵を一度に盗られてしまったのかといった点がどうも分からないのだよねー」
「それでこの間、たまたま交換会(画商だけのオークションのような所)に行った時、Cが来ていたから、どうしてそのような事が起こったのか、その経緯を聞いてみたんだよ」
その3
「ああ、あの話、それ誰から聞いたの。実はその話、あんまり人に知られたくないんだけどなー」とC。
しかしCは、いかにも困ったと言う顔をしております。
「でも、そんなこといっても、もう手遅れだよ。人の不幸は蜜の味とばかり、皆、尾ひれをつけて噂をしているもの。こうなればもう、変に曲がりくねって人に伝わっていくより、きちんとした話が拡がった方がいいんじゃないの」と私が言いますと
「そうかねー。それにしてもDの奴め、口が軽いんだから。あいつに、ちらっと相談したのが間違いだったなー」
「あんたにまで伝わっていると言う事は、もうかなりの人に知られてしまっているんだろうなー。
仕方がないからあんたには話すけど、ここだけの話にして。人には、あまりいわないでくれる?」と言いながら,Cはしぶしぶ話し始めてくれました。
その4
画商C氏の話。
あれは震災から2か月くらい経った時のことでした。5月の連休も過ぎた、次の週の金曜日、福島市内の中古車販売業者と称する人から電話がありました。
「2年くらい前から造っていた家がやっと完成する事になりましてね。だから、各部屋に飾る絵を探しているところです。
いろいろな業者さんから、お話は来ているのですが、私としては、どうせ買うのでしたら、東京の一流画廊から、一流の作品を買いたいと思いまして。
そこであちらこちらのホームページを覗いていましたら、たまたまお宅のホームページ見付けました。
さすが銀座の画廊さんは違いますねー。
私が、かねがね手に入れたいと思っていた様な、とても素晴らしい作品ばかりをもってらっしゃいますもの。
そこで、価格次第ですが、出来たら、今度造った家に飾る絵全部を、お宅に任せようと思っている所です。
お宅に来てもらって、私の買おうと思っている絵が各部屋に合うかどうか見てもらってから、決めようとは思っています。所で、ホームページに載っている、千住博の150号のウォーターホール、絹谷幸二の150号の富士山と太陽を画いた絵、20号の菊、富士山と、太陽が描かれている3号と4号、ベルナール・ビュッフエの15号花、東山魁夷の白馬の森、これは版画だったとおもいますが、それらの絵、夫々(それぞれ)いくらくらいのものですか」
というお話でした。
不景気な今時、こんな良い話、滅多にありません。私、嬉しさのあまり、有頂天になってしまいました。その為、その時点で冷静な判断力を失ってしまったようです。
私は早速、「この絵はこれくらい、この絵はこれくらいの価格でお願いしたいのですが」と夫々の価格を提示しました。
すると、電話の主は、「フーン、ちょっと高過ぎだよ。もう少し何とかしてもらえないかね。こんなに沢山の絵を、一度に買うと言っているのだから」
「大体、こんな時期でしょ。絵なんかあまり売れてないんじゃないの。
あんたの所のホームページ見ていても、もう3カ月も同じ絵が並んでいますよ。この際在庫整理だと思って、思い切って勉強してよ」
「で、お宅のお心算では、いくらくらいをお望みですか」
「そうだねー。大体お宅の提示価格の半分くらいかな」
「えっ、そんな無茶な。いくらなんでもそれは無理ですよ。どんなものにも原価と言うものがあります。それを切って売っていたのでは、お店は潰れてしまいますからね。
うち、今のところ、そんなに慌てて売らなければならないほど、困っていませんし」
「所で、貴方の所の絹谷、150号の絵、あれって、本物?
ちょっとサインが違うとおもうんだけど」
「大丈夫です。間違いありません。買った後、先生に確かめてありますから」
「だったら、保証書か、鑑定書がつくの?」
「いいえ、絹谷先生の場合は、作家による保証書も、鑑定書もつきません。しかしあの絵は、先生がまだ若かった時、ある展覧会へ出品された、記念すべき作品だったと言う事です。
購入した時、あの絵を先生にお見せした所、先生、とても懐かしがってくださいまして、その時のお話をしてくださいました」ご心配でしたら、先生を御紹介いたしますから、直接先生に聞いていただいてもかまいませんが」
「と言う事は、先生が若い時の作と言う事?だったら、円熟した時代の作品より多少市場価値が低いのと違う?」
「必ずしもそうとばかりは言えません。しかし、あの作品の場合は、その点も考慮して、多少お勉強した価格設定にはしてありますが」
「しかしこの作品は、絹谷先生が展覧会に出された時の、記念すべき作品です。そういった意味では、コレクターによっては、若作であっても、高い価値を認める場合もあります。その場合は、思わぬ高値で取引される事もある作品です」
「フーン、そうかなー。私には、もっとお勉強してもらっても良いように思う作品だけど。まあいずれにしても、その絵か、千住のウォーターホール150号か、どちらかの絵を、家のリビングに飾るつもりなんだけど、それも一緒に、持ってきて。
今度の家に、どちらが合うか,貴方にも、見てもらってから決めたいと思うから」
「お客様、申し訳ありませんが、150号の絵ともなりますと、大き過ぎまして、簡単に車で、持ち歩くという訳にはまいりません。
今回は、他のご購入予定の作品の方をまずお持ちいたしますから、その時、お宅も拝見させていただき、やはりどちらかをご購入下さると言うことでしたら、持参させていただきたいと思うのですが、それでは駄目でしょうか。
なお、お値段の方は、お宅のおっしゃるような金額まで、下げる事はできません。出来る限り、お勉強はさせていただく心算ですが」
次回へ続く