No.140 お坊さまと白尾の狐 その11(お婆ちゃんの昔話より)

このお話はフィクションです

 

その37

それから30年くらいも経った後の事でしょうか。
巷のあちらこちらに、白尾の狐を連れて托鉢をしていらっしゃる、不思議な力を持った、一人の老僧の噂が流れるようになりました。
この老僧は時間と空間を超え、地獄だとか極楽、精霊だとか妖精、幽霊だとか妖怪等々の異世界を覗いてこられた、とても偉いお方で、この老僧に御祈祷していただくと、病人の身体に取り付いて、災厄や、病を齎して(もたらす)いる妖怪変だとか、怨霊などの類を退散させてくださるだけでなく、そいつらがもたらす災厄も未然に防いで下さると言われておりました。
また、臨終に臨んで、因果の理に則っての(のっとる)老僧のお話を聴いたものは、この世への未練、死への恐怖などの全ての悩みから解放され、心安らかにあの世へ旅立っていけるとも噂されておりました。
しかしこの老僧は、自分の過去については、一切お語りになりませんでした。
この為、この方が、何処で、どのような修行をされてきたかについては、そのありがたい言動から推察した噂が流れているだけで、誰も本当の事は知りませんでした。
それでも、時間と空間を超えた異世界について御語りになる老僧のお話が、あまりにも真に迫っていて、まるで実際に見ているような臨場感があったので、皆はその噂は、絶対に本当の事に違いないと思っておりました。

 

その38

また老僧がいつも連れて歩いておられる狐についても、色々な噂が立っておりました。
その中で一番もっともらしい噂は(あくまで噂ですから、事実とは違っていましたが)、この狐は、もともとは、妖怪、九尾の狐の仲間で、この老僧に会う前は、何百年もの間、その強い妖力で、次々に人間にとりついて、人間界に仇(あだ)をなしてきた存在だったのです。
この狐が、ある時、ある国のお殿様の奥様にとり付いた時の事でした。
奥方にとりついた狐は、その殿様を誑かし(たぶらかし)その国を、国ごと乗っ取ろうとしました。
この噂を聞きつけられたこの老僧は、早速この国へ出向かれました。
そして、この妖怪狐を折伏(しゃくふく:悪をくじき、悪人を屈服させること)され、妖怪狐に苦しめられている人々をお救いになりました。
その際、前非(ぜんぴ:過去に犯した過ち)を悔いて、正道に立ち返る事を誓ったその狐を、自分の弟子とされ、仏の道へと帰依させられました。
その後、この狐は、この僧侶のお伴として、この僧侶が仏道を広められる手助けをすると共に、この僧侶が異空間への旅をされる時には、その先導役をしているというものでした。
本当のところは、こんなお話は全く出鱈目でした。紅葉尼様(このお話に出ている狐)と九尾の狐とは全く関係のないお方です。
しかし、困ったことに、巷には、「九尾の狐の血を引くものの血を飲んだり、その毛皮をみにつけた人間は、その妖力を身につけ、この世の栄光と、永遠の命を手にする事が出来る」という言い伝えがあり、当時は、多くの人達が、それを真実であると信じておりました
この為、この狐の命を狙う、けしからん輩が後を絶たず、命を狙われる危険に、いつも付き纏われる事になってしまいました。

 

その39 エピローグ Ⅰ

おばあちゃんと私の会話
「それで、その狐、どうなったの。何事もなくずっと天寿を全うするまで生きている事が出来たの?それとも人間に捕まって殺されてしまったの?」
「あの狐ね。あの狐は、お坊様は無論のこと、お坊様の信者さん達も加わり、皆で、命を狙う奴等から守ってやったそうだよ。だから殺されずに済んだということです」
「フーン、でもおかしいな。その狐、神通力を持っていたんでしょ。だったら、皆に守ってもらわなくても、自分で自分の命くらい守れるんじゃないの」
「お坊さんだってそう。時間と空間を超えての旅ができるような偉いお坊さまなら、運命だって予測できたはずでしょ。
だったら、狐の命を守ってやるくらい訳なかったんじゃないの。
また、お坊様自身だって、永遠に近い命を手に入れる事だって出来るはずでしょ。
だったら、今もなお生きていらっしゃってもおかしくないのに。
でも今時、そんな偉いお坊さまがここら辺りに、いらっしゃるなんて聞いた事がないよ。おばあちゃんだって聞いてないでしょ」
「そうだね。確かに、そのお坊さま、大分前にお亡くなりになって、今はいらっしゃらないよ」
「でもね、私達がもっているこの身体というのは、魂の修行の為、現世で与えられている仮の入れ物にすぎないのだよ。
だからお坊様が、いくら時間と空間とを超越し、異空間を自由に飛びまわる事のできる身となっておられていた方であっても、肉体を持って、この世に存在されていらっしゃった以上、身体はいつかは滅び去らねばならないことになっているんだよ」
「確かにこのお坊さまは、普通の人に比べれば長生きをしてらっしゃったようです。
でもね、それは、お坊様が、この現人の世(うつせみのよ)で、仏になる為の、仕上げの修行をされていたからにすぎないのだよ。
お坊様のこの世での修行、即ち衆生済度の願力(がんりき:願かけをして目的を貫こうとする念力)の達成に、ある程度の目安がついた時点で、お坊様の魂としては、もっと自由に飛びまわって、もっと多くの人に、仏の慈悲を分け与える事が出来るようにと、肉体という、現世の仮の入れ物をお捨てにならねばならなかったんだよ」
「確かに、そのお坊様が、肉体の衣をお脱ぎ捨てなった時は、予定より多少早くなったようです。
しかしそれは、時期的に、文明開化の世の中がやってきて、日本中から、真の暗闇が亡くなっていくと同時に、日本人の心の中から、神秘的なものだとか、不思議なもの存在を信じる心が無くなってしまったからです。それはやがて、神仏を畏れ、敬い、崇める気持さえも無くしていくことになってしまいました。
心の暗闇の消失と、人の心の変化は、時間や空間を超えた存在である異世界への出入り口を閉ざす事になってしまいます。
お坊様にとっても、白尾のお狐様にとっても、それは一大事でした。その出入口が閉ざされてしまいますと、お坊さまにしても、狐の紅葉尼にしても、肉体と言う重い仮着を付けたまま、時間と空間を超えた世界へはいっていくのは、この現世からでは、不可能となります。
そうしますと、そのようになる前に、異世界へ移動して、そこから仏の世界へと旅立つことにするのか、それともこの現世に留まり、そこで、肉体と言う魂の仮の衣を脱ぎ捨てた後、仏の国へ旅立っていくのか決めなければならなくなったのです。
お坊様の方は、もはやこれまでの衆生済度の働きにより、この世での修行終了の目途(めど)がついておりました。
従って、魂の自由な移動の妨げとなる、肉体の方をこの娑婆に棄て去ることを決めておりました。
ただ気がかりは、紅葉尼さま(狐の名前)がこの行く末だけでした。
できれば今は、紅葉尼様にも一緒にこの世に留まってもらい、彼女の魂の旅立ちを見送ってから、自分の魂も旅立って行きたいものだと願っておりました。
一方、狐の紅葉尼にとっては、この僧侶の魂を、無事に修行を終えさせ、より高度な魂の世界、すなわち仏の世界へと旅立って行かれるのを見送る事が出来れば、この世での仕事が、一段階終わった事になります。
従って彼女の魂もまた、肉体と言う仮着を、この世界で脱ぎ捨て、仏の御許へと旅立って行ってもよいわけです。
しかしそう決心するには、少し躊躇いがありました。
異世界への出入口が閉じられてしまいますと、神通力の方も使えなくなってしまいます。
そうなりますと、彼女即ち白尾の狐の毛皮を手に入れようと狙っている輩の、鉄砲の餌食になってしまう可能性がとても高くなる事です。
もう一つは、彼女と同じような霊力を持った彼女の眷族(せきぞく:親族)が、全て、こちらの世界を捨てて、精霊の国へと旅立って行く事に決めている事です。そうなりますと、彼女が残った場合、眷族が誰もいないこの世に、たった一匹だけで、取り残されることです。
それはあまりにも寂し過ぎます。
だからといて彼女にとっては、お坊様をこの世に残して、自分だけが眷族と一緒に、精霊の国へと、移って行く決心もつきかねるものがありました。
さらに、娑婆において、自分がしなければならなかった一つの使命をやりとげてしまった今では、気が抜けてしまって、もうこれ以上、何もする気も起こらない事も迷っている原因の一つでした。
こんな状態で、精霊の国へ移動したとしても、そこで、ただ漫然と自分の魂の旅立つ時を、待つだけです。
無為に過ごさねばならないその時間、それはそれで、考えてみるととても辛そうでした。
何しろ、精霊の国の時間は、この現人の世(うつせみのよ)の時間よりずっと、ずっと、ゆっくり流れているのですから。
あまりにも長く、お坊さまと一緒に旅をしていて、お互い、情が絡んで離れにくくなってしまった事も、紅葉尼をして、精霊の国へ旅立つ決心をし難くさせるものの一つであり、最大の原因でした。
この紅葉尼(狐)にとっては、このお坊様が、自分が若かった時、亡くしてしまった子供の姿と重なっている事でした。
最初に、涙を出しながら眠っていた幼子の、その寝顔を見た瞬間から、彼女の母性本能が強く働き、その子に惹かれてしまいました。
彼女(きつね)にとって、その幼子が、彼女が仏の道に入るよりずっと前の事ですが、彼女(きつね)の不注意から、自分の子供を、オオカミに食い殺されてしまった事がありましたが、その時の、子供の姿と重なってしまっているのでした。
その為、彼女(紅葉尼)は、掬佐の陰となって、彼に尽し続けてきたのでした。
「それで結局そのお狐紅葉尼様はどうなされたの」
「こちらの世界に残られて、お坊さまが旅立たれるより少し前に、あの世へと旅立っていかれたそうだよ」
「大婆ちゃん(大婆ちゃん=お婆ちゃんの、お婆ちゃんの事)が12,3歳の頃、紅葉尼様が急に年老けて、よぼよぼとなられたのは、その頃、異世界への出入り口が、殆ど塞がってしまったからなのかしら」
「そう、そうだとおもうよ。しかしそうなると、紅葉尼さまの神通力も殆ど使えなくなってしまったでしょ。何しろ時空を超えての旅ができないのですから。だから、お坊様とその信徒たちが、懸命にその命(狐の命)を守っていたという訳」

 

その40 エピローグ Ⅱ

彩乃のその後
病床にあって危篤状態だった継母の彩乃は、この僧侶からお話を聞かれた後、その病状は奇跡的に、一時持ち直したそうです。
長年にわたって胸に痞え(つかえ)苦しんでいた、肩の荷を下ろし、気が楽になったせいか、食事も進むようになり、一時は、床を離れて普通の生活が出来るほどまでに、回復されたそうだよ。
彼女はその後さらに4年ほど生きていましたが、その間、生きている間中、今の自分の命は、阿弥陀如来様が、未だ仕残してあった使命を果たす為に、与えてくださった時間であるといって、死ぬまで仏の道の広宣流布に勤められました。
彼女は、自分が若い時に犯した罪を、包み隠さず皆に話すことによって、宇宙の真理である因果の理を説き、赦す心と、善行の大切さを教え、それの実践に励まれたそうです。
また自分の犯した罪の贖罪の為にと、掬佐が、床下を一夜の宿としたお堂、それは掬佐のご先祖様が先祖の供養と、子孫の庇護と繁栄を願ってお建てになったものでしたが、そのお堂を改築して、寺院とし、宿坊を設け、全てのものに対して、常に、その寺の門戸を開いておくようにと言う言葉を遺しました。
なお蛇足ですが、彩乃さんが、あの世に旅立たれる寸前まで、とても会いたがっておられた、あの狐を連れた僧侶が、あれ以来、この村を訪れられた事は、ありませんでした。

終わり

No.139 お坊さまと白尾の狐 その10(お婆ちゃんの昔話より)

このお話はフィクションです

 

その34

その為、中には、今のお前のように、こういった輪廻転生の輪の中での厳しい修行に耐え切れず、それまでの折角の修行を投げ出して、妖怪達の誘惑に惑わされて異世界、すなわち仏敵の方角へと、逸れて(それる)行こうとする者も出てまいります。
しかし、それは仏の本意ではありません。
だから、そう言った事態になるのを、できる限り防ぎたいという仏の御心によって、お前の場合は私がつかわされてきたのです。
今、お前が誘われて行こうとしているその世界は、一旦足を踏み入れたら最後、そこから抜け出す事は殆ど不可能と言っていいほど抜け出し難い所です。
一旦そちらの世界へ行った魂は、怒り、恨み、憎しみといった怨念の満ちみちた暗黒の世界で、善良な魂を堕落させて悪に染めたり、安らぎを奪いとって、不穏と喧騒の世界にぶち込んだり、幸せに過ごしているものの不幸のどん底に落としこんだりと、
少しでも善良な部分が残っている魂にとっては、とても耐えられないような仕事をさせられ続ける所です。
しかも、もしそれを怠り(なまける)、少しでも逡巡(しゅんじゅん:しりごみすること)したりした者には、地獄での責め苦なんか問題にならないくらいに辛い責め苦が待っています。
たまりかねて逃げ出そうとしても、その世界は、そこに入った魂たちの流した悔恨(かいこん:後悔して残念に思う事)の涙で出来た大海原で囲まれていて、逃げ出す事はできません。
逃げだそうとして、その海に飛び込んだものは、その暗黒の大海原を、当て所(あてど:行く先)もなく、永遠に漂い続けなければならないのです。
何とも因果な話しです。
「お前は、もっと古くさかのぼれば、もとは仏の座の最も近くにいた魂です。
さらなる修行を積んで、仏となる為に、人間界に降りてきたのです。
ここでの修行によって、衆生を済度する力(生きとし生けるものを迷いの苦界から救いだす力)を高める為に、やってきたのです。
ところが、与えられた人間界での試練は、あまりにも厳しく、お前の人としての弱い部分が曝(さら)け出されてしまうのです。
その為、それをなかなか克服できないで、何度も、何度も転生をくり返す事になってしまっているのです。
そしてそれを繰り返すうちに、悪い因果の輪の中に囚われ、固く閉じ込められて、もがき苦しんでいるというのが、現在のお前の姿です。
お前は不思議に思いませんでしたか。普通の人には見えていないらしい妖精だとか、精霊といったもの達を、お前だけが幼い時から見られた事を。
また、幼い頃から、そう言ったものたちがお前の遊び相手になってくれていた事を。それはお前が特別な魂を持った存在だったからです。
あの子達はお前を、陰で支え、修行が無事に終わるのを見守っていてくれている存在でした。
それは、お前がそれほど特殊な存在であり、仏の世界から期待されている存在であるという事を意味しているものです」

 

その35

「僕、これ以上恐ろしい事や、苦しい目に遭うの、もう嫌だよ。仏になんかならなくてよいから次郎吉(腹違いの弟)みたいに、何の苦労もないそんな生活の方が良いよ」
「確かにこんな幼いうちから、こんな試練に出遭うことになって、お前は大変だったろうね。でもね、これは過去から続いてきた因縁によるものだから、避ける事は出来ないのだよ。お前は次郎吉の事を羨むけど、次郎吉だって,今生(こんじょう:今の人生の意)では、ぬくぬくした、とても良い生活をしているみたいに見えるけれど、前世では色々苦労をしてきているんだよ。
その上、あの子は、お前より、まだまだ下の段階での修行の最中の魂です。だから、これから先、あの子の生き方次第では、今後どんな過酷な試練が待ち受けているかわからないのだよ。もし今世において、仏の教えに背くような事をすれば、死んだ後待っているのは地獄の釜の口。その魂が本格的な修行の場に戻れるまでには、そこでの過酷で長い、責め苦による贖罪の期間を経なくてはならない所まで逆戻りする事だってありうる魂なのだよ」
「でもね、昨夜僕に付きまとったあの黒い奴ら、あれって悪魔というの?
あいつらがいうには、あいつらの所では、『修行なんか必要ない』ということだったよ。
『恨みだとか、憎しみ、怒り、妬み等といった感情を持ってさえすれば、自分の思うまま、面白おかしくやっていける』という話しだったけど」
「そういう、うまい話をしては、修行中の魂を誘惑して、妖怪の世界へと引っ張り込んで行くというのが、あいつらの常套手段だよ」
「でもね、あいつらの言葉を真に受けてはいけないよ。
あいつらの世界に真実だとか、誠実等といった言葉はないのだから。
嘘をつくのだって、騙すのだって、平気だよ。
なにしろそういう言葉の観念すらない世界に生きている奴らなんだからね。
妖怪だとか悪魔なんて、そういう奴らなんだよ」
「もしお前が、あいつらの言う事を真に受けて、あちらの世界へ行くというのなら、その意思を止める力は私にはないよ。
でも、その世界に入ろうものなら、お前に待ちうけているのは、先ほども言ったように、これまでしてきたお前の娑婆での修行以上に過酷な状況が待っている事を覚悟しなければなりませんよ。
それでも行きたいというのでしたら、それはお前の意思にまかせるよりしかたがありません。
でもね、憐れみだとか、同情、善意等という感情を一切捨て去る事が、お前の性格で本当にできると思いますか?
憤怒、怨恨、憎悪、妬みなどといった感情しかない、安らぎの全くない苦の世界で、お前は、生きていけると思いますか。
そんな事は無理と思ったら、絶対にあいつらに近寄っては駄目だよ。
よく考えて決めなさいね」
「お前のような、仏になる寸前の魂を、その修行中に、自分達の世界へ引っ張り込もうと悪魔たちが暗躍するのは、お前の場合だけではないんだよ。
なにしろあいつらにとって、衆生済度を志す仏が、新たに誕生してくるくらい、嫌な事はないのだからね。
あいつら、畏れ多い事に、お釈迦さまの修行中にでさえ、ちょっかいを出した奴らなんだからね。
だから、仏の座まで、もう一歩というお前たちみたいな娑婆での修行者に、それを阻止しようと色々誘惑してくるのはあたりまえの事なんだよ。
それも、修行中の試練の一つなんだから、うまい言葉に騙されて、誘惑に乗らないようにしなくちゃ。
それを乗り切った先にこそ、仏への道がひらけてくるのですから。
お前は修行の辛さを嘆き、何もしないでも、楽しい生涯を送れそうな弟の事を羨みます。しかしお前が修行の為、これまでに使ってきた時間なんか、悠久の時の流れ、即ち仏の時間の中では、そんなのは、ほんの一瞬でしかないのだよ。
だから、今迄の苦労だって、お前の魂が、衆生済度の大願を果たし、阿弥陀如来と一体化した後に訪れる、満足と、安らぎの永遠なる時間に比べれば、星の瞬く間の出来事にも当たらないのだからね」
「目先の修行の辛さを厭って(いとって)、ここに残り、悪魔や妖怪の苦の世界に飛びこむのか、永遠なる安らぎを求め、更なる修行の道へと歩み出そうとするのか、さあ、もういい加減決めておくれ。
それはお前の問題なのだから。
しかしそれを決めるのは,今しかないのだよ。
何故なら、お前を新たな修行の場に移動させる為の道の、閉ざされる時間が迫っているのだからね」
と狐が言います。
やがて、狐の銀白色の尻尾が、燐光(りんこう:青白い光)を放ちながら点滅を始めました。
それが出発の時間が近づいている合図である事はなんとなくわかりました。
掬佐が「ここに残る」と言えば、狐は、彼をここに於いて、自分だけで旅立っていくつもりの様子です

 

その36

「終わったよ。さあ目をお開け」と頭の中に直接話しかけてくる(テレパシー)、狐の声なき声。
目を開けた掬佐が目にしたのは、全く見知らぬ光景でした。
大きな木々のそびえる深い森、その森を背景に立っているお寺の建物の数々、掬佐はその大きな建物群に圧倒され、しばらくの間、声もなくみつめておりました。
どうしてこんなところに連れてこられたのか、意味が分かりませんでした。
「今日からここで修行するのだよ」と狐の声。
そんな事を言われても、子供の自分を受け入れてくれるところがあるとはとても思えません。
こんな大きなお寺で、何の伝手(つて)もない自分が
「お坊さんになりたいから弟子にしてほしい」と頼んだとしても、
相手にされるとは到底思えません。
うろうろしていたら、乞食と間違えられて、追い出されるのが落ちだろうと思いました。
「いや、お前が弟子入りするのは、この大きなお寺のじゃない。
こういう大きなお寺というのはね、それを維持して行く為に、朝廷だとか、大名、土地の有力者の庇護をうけるでしょ。
だからどうしても、形式主義、権威主義的になりがちです。
よって、こういう所に入ったとしても、お前が必要としている修行はできないだろうね。お前のような何の伝手もないものは、お前の思っているとおり、無論、入れてもくれないけどね。
このお寺の裏側に、小さな庵(いおり)を結んで、国中を行脚しながら衆生済度をしていらっしゃるお聖人(しょうにん)様がいらっしゃいます。
その方こそ、輪廻転生する、宇宙の真理を説き明かし、お前を仏の座へと導いて下さるお方です」
「でも、僕のようなこんな小さなもんが、一人で訪ねて行っても、その方、お弟子にして下さるだろうか。その方、今言われたように、全国を歩いて回られているというのでしたら、僕なんかがいれば、足手纏い(あしでまとい)になるでしょ。
貴女は一緒に来てくれないの。一緒に行って、頼んで下さらないの」
「一人で行ったとしても大丈夫よ。あの方はそんなお方ではないから。あの方のように本当の修行を積んでこられた方は、何事も、一目見ただけで、本質をお見抜きになる力を持っていらっしゃるからね。
だから一人でお行きなさい、それも一つの修行です。
元来修行というのは孤独なものです。
例えお前が、あのお方のお弟子になったとしても、あの方は道をお示しくださるかもしれないけど、後はお前一人で歩んでいかなければなりません。
私の役目は、今の所ここまでです。
この後は、お前が悟りを開き聖人になられた時、またやってまいります。
私の本来の役目は、悟りを開かれた貴方にお仕えする事です。貴方が衆生済度の旅に出られる際は、貴方のお伴をさせていただき、お手伝いさせていただくつもりです。
では、お行きなさい。
何時になるか分かりませんが、貴方が悟りを開いて帰ってこられる日をお待ちしています」
というと狐の紅葉尼は、暗闇の中に溶け込むように消えていきました。
彩乃の夢の映像も、そこではたと終りました。後は、何も見えない真っ暗な闇の世界が広がっているだけとなりました。
彼女はそのまま、何もみられない、深い、深い眠りの世界へと落ちていきました。

次回へ続く