この話はフィクションで、実在の人物、事件とは全く関係ありません。
私の父の友人に皆さんから仙人と呼ばれている人がいらっしゃいました。
この人、年は40歳後半くらいでしたが、とても若々しくそんな年齢にはとても見えません。いつも飄々(ひょうひょう)としていらっしゃって、あまり物事にこだわられるようなこともありませんから、私などは彼の大ファンでした。
身なりにもほとんど関心がないようでして、身に着けていらっしゃるものは清潔でこざっぱりされておられますが、洋服はいつも同じようで、着古したような服を平気で着ていらっしゃいます。お勤めは私たちが知り合った当時は会社の技術顧問をしていらっしゃいましたが、社会的な地位とか収入には全く無頓着、ただ自由に気楽に生きていきたいと思っていらっしゃるようにお見掛けしました。従って出勤時間も退社時間も縛られていない仕事を選んでおられ、休みも比較的自由にとっておられたようでした。急に旅に出てしまわれて、どこにいらっしゃるのか不明といったことも珍しくありません。
日常生活は大変に質素で、簡単、今時には珍しく、冷房器も暖房器も持っておられません。洗濯機も無ければ、テレビもないといった生活です。唯一現代をしのばせる電化製品といえば、冷蔵庫だけで、それが何も置いてないキッチンの片隅にでんと居座っております(一度だけ父の用事でお訪ねしたことがあります)。
食事は昼は外食、夜は一杯飲み屋さんで済まされることがほとんどです。
それ以外の時は、閉店間際のスーパーに行って、半額になっているお惣菜とか、おにぎりを買ってきて、それで済ましていられるとのことでした。
洗濯は手洗い、お風呂もシャワーで終わりといった日常で、本当に浮世離れの生活をしていらっしゃいます。
家の中は気持ちがいいほどがらんとしていて、すっきりしたものでした。
「しかし冷房はまあ我慢するとしても、暖房の器具一つもないというのは珍しいですね。いったい冬の寒いときはどうしていらっしゃるのですか」
と聞くと、
「イヤー。冬は早く布団に入って寝てしまい朝は起きるとすぐにランニングに出かけますから、別になんともありませんよ」
との答えが返ってきます。
性格はとてもおおらか、プラス思考、世の中のことはなるようにしかならないから、くよくよしない、という主義で、いつも陽気で朗らか(ほがらか)にしていらっしゃいます。
従って話していますと心が休まり、元気付けられます。
また、善意の人ですから、彼と話していると、いつの間にか心を開かせられてしまいます。
以前も、女のルンペン(浮浪者のこと)と親しくなり、彼女の小屋に招待されて、お茶をご馳走になってきたことがあるといった話もしておられました。彼の心には服装だとか、職業、社会的な地位といったもので差別するといったものは全くないというわけです。
趣味は読書とランニング、読書は速読術に長けていらっしゃって、かなり分厚い本でも一冊を2~3時間くらいで読んでしまわれます。
従って、とぼけたような外見からは想像できないほどに物知りです。
ランニングは毎日欠かされたことがなく、雨でも雪でも台風のときでも走っておられます。ランニング後はしばしば公園の水道を使って体を拭(ふ)かれます。
安っぽいトレーニングウエアをつけ、水道で体を洗っていらっしゃる彼の姿を見た浮浪者たちが、お仲間と勘違いして話しかけてきたり、飲み物や、食べ物を回してくれたりすることがあるそうです。
4年前、お仕事の関係で、岡山に転居することになったときなど、顔見知りの浮浪者達が、送別会までしてくれたということです(無論彼がどんな職業の人か等ということは知らず、自分たちの仲間だとばかり思ってしてくれたのです)。
面白くて、気楽、気障な(キザな)ところや気難しいところのない人ですから、話していても楽しく、肩がこりません。
従って、女性にも大変に人気があります。彼の勤め先の女性たちは、彼の出勤日には、待ちかねていたように彼の部屋にやってきて、身の上話だとか、噂話などなどをして、油を売って(無駄話をすること)いかれるそうです。
女の事務員たちの中には、彼の事をひそかに思ってくれていた人もいたようですが、彼のほうが、それ以上の深入りを避けてしまわれるため、独り身で過ごしてこられたようです。
青年時代、女の人から手ひどい裏切りを受けた経験があり、それがトラウマになっていて、女性との間を今ひとつ踏みこえることができないのだとかと、周りの人は噂をしておりました。
先ほども申しましたように、4年前、仕事の関係で住所を岡山のほうに移されたものですから、しばらくお会いできませんでした。風の便りに元気にしていらっしゃるということを聞いていたくらいです。
ところが、岡山に行かれてから4年目の時のことです。
ある日突然、私たちのところに彼が訪ねてみえました。インターホンの音に出ました私に向かって
「Hと申しますが、お父さんはご在宅でしょうか」
という改まった声。
私の頭の中に描かれているHさんとは全く違った印象です。
「エー、何処のHさんでしょう」
一瞬人違いかと思って、もう一度尋ねてみますと
「岡山に居りますHです」
との返事。
やはりあの楽しいHさんです。
それにしては感じが違っているがと思いながらも、
「済みません。早速開けにいきますのでしばらくお待ちください」
と返事して、すぐに玄関に走りました。
玄関に立っておられるHさんは、人違いかと思われるほど印象が違ってしまっていました。大体堅苦しいことの嫌いだった彼は、今までスーツなどというのを着ていらっしゃったことは殆どありませんでした。
ところが、訪ねてみえたHさんは、一寸(ちょっと)の隙もないような新しいスーツ姿で、ばっちりきめて立っていらっしゃいます。以前にしていたような、タメ口をきけるような雰囲気ではありません。
私もつられて、
「いらっしゃいませ。父が奥でお待ちしております。どうぞお入りください」
と畏まって(かしこまって)挨拶をして彼をお座敷へ案内します。
座敷に通された後も、今までのあの気さくで、型破り、自由奔放だった彼の面影はどこへいったのか、きちんと座って、
「ご無沙汰しておりました。その後お変わりもなく、なによりに存じます」
とまるで新人のように、堅苦しく挨拶をされます。そして
「これお口に合わないかもしれませんが」
と言いながら、お土産の包みを差し出されます。
彼のあまりの変わりように、父は、挨拶を返すのもしばらく忘れて顔を見ていたほどです。
「堅苦しいことはやめて、以前のようにもっとざっくばらんにやりましょうや」
と父。
「そうはいきませんので。何にしましても、いまは宮仕え(みやづかえ)の身ですから。『きちんとしないといけませんよ』と女房もうるさいものですから」
と彼。
「えっ。結婚されたのですか。それは、それはおめでとうございます。それにしても突然なことで。それでお相手はどんなお方なのですか」
「それがやけぼっくいに火(男女交際の寄りは戻しやすいという意味)というのでしょうか、相手は昔々の恋人でして、偶然に会ったところお互いの誤解が解けたということですかね。幸い二人ともフリーだったものですから、それでは生活を共にしようか、ということになったのです」
彼の話によりますと、結婚相手はあの若き日に失恋した女性です。
彼としては突然に自分の前から姿を消してしまい、それからまもなく他の男性と結婚した彼女の事は、てっきり自分を裏切ったものだとばかり思って恨んでいました。
彼女が自分一筋に愛してくれているとばかり信じきっていた彼にとって、それは信じがたい裏切りでした。
従ってそれ以降、彼は女性というものを心底から信じることが出来なくなってしまったのです。
ところが、再会して彼女とよく話をしてみますと、別れたのは、彼の母親が原因で、学歴も身分も違う彼女との結婚に彼の母親が絶対に反対であったことにあったのです。
彼女が姿を消す少し前、その母親が彼には内緒で彼女のところに訪ねてき、耐え難いような侮辱を与え、彼との別離を迫っていったというのです。
彼が親思いであることを知っていた彼女は、結婚後の彼の母親との生活を考えたとき、とても一緒にやっていく自信がないと思ったそうです。そこで身を引くことに決めました。
そしてそのように決めた以上、未練が残らないように、もう彼には会わないでおこうと決めたのです。なぜなら会えば、未練がぶり返し、取り乱してしまうだろうということ、彼が大切にしている母親のことをも、あしざまにののしってしまうだろうということを恐れたのです。
そして、それによって彼に嫌われることも。
そのため何も言わず、黙って彼の前から姿を消したというのです。
彼女は、彼がそれによって生涯立ち直れないほどに傷つくなどということは思いもよらないことでした。彼女はただただ、彼の心の中に美しい思い出として生きていたかっただけです。従って自分ひとりが抱え込んだ悲しい決断だと思っていたのです。
こうして傷心を抱えて故郷に帰ってきた彼女は、満たされぬ心の間隙を埋めるために,以前からなにかと彼女に好意を示してくれていた幼馴染と結婚したのです。
しかし、彼女の心はいつも彼との間を揺れ動いていました。
従ってそんな結婚がうまくいくはずもありません。
やがて、子供を二人連れての離婚ということになってしまいました。
幸い彼女は看護士という職業を身につけていましたから、子供たちを育てていくことくらいはどうにかできました。
それから約20年、大変でしたが、それでも末の子供も大学に通うようになり、やっとほっと一息つけると思えるようになった頃のことでした。
マラソン大会救護班の一員として待機していた彼女は、大会に出場するために訪れてきた彼と出会ったのです。
まだ別れた時の事にこだわりを持っていた彼は、大会の前日に催された歓迎レセプションで彼女を見かけたとき、一瞬逃げようかと思ったそうです。
ところが、彼女のほうも同時に彼に気付き、すぐに彼のほうに近づいていきました。彼女は彼が自分のことで傷ついているなどということを想像もしていませんでした。従って、もうとっくに結婚して幸せな家庭を築いていらっしゃるとばかり思っていました。
時間は、彼女が持っていた彼の母親への嫌悪感も薄めておりましたから、何のこだわりもなく、憧れの王子様に再会した喜びをぶつけていきます。
最初のうちは、過去のいきさつにこだわりをもってなんとなく一歩ひいたような感じであった彼の方も、もともと生涯たった一人の心より愛した人のこと、話しているうちに次第に打ち解け、心を開いていきます。
問わず語りに彼女が話してくれた過去の経緯(いきさつ)話は、冷え切っていた彼の心を再び燃え上がらせるのに充分でした。彼女のほうも、彼の母親があれからまもなく亡くなられたことを知ります。
こうして何の障害もなくなっていた二人は(彼女の子供たちはもうほとんど自立していましたから彼女の決断に心より祝福してくれたそうです)、改めて結婚という形をとることになったのだそうです。
結婚した彼は、彼女を幸せにするために変わろうと決心します。お勤めも今までの嘱託といったような不安定、かつ低収入のお仕事はやめ、きちんした正社員の道を選ばれます(彼はとても能力のある人だったものですから、前々から正社員になって後輩を指導してほしいと頼まれていました)。
「それでは今までみたいに電化製品と無縁というわけには、いくらなんでもいかないでしょうね」
と父。
「無論テレビも、冷蔵庫も、エアコンも洗濯機も掃除機も。そういったものは全部そろえましたよ」
「しかし、テレビ、あれはいけませんね。どうも最近、ほとんど本が読めないのです」
「へー。しかし、テレビのせいばかりとは言えないでしょ。奥さんの存在も大きいのでは」
と父が冷やかしましたが、彼はそんな父の皮肉も全く気付かれない様子で
「女房がいますと、何かと仕事が増えましてね。それに話していると飽きなくて」
とニコニコしながらぬけぬけとおっしゃいます。
「それにしても、お洒落になられましたね。女性の影響は大きいですね」
と父。
「女房の奴、次から次へと洋服を買ってきてくれまして。着せ替え人形みたいに楽しんでいるのですかね」
とこれまた嬉しそうです。
こうして1時間くらい話してから帰っていかれました。
いつもなら、来られたときは、夜中までお酒を飲んで駄弁って(だべって)いかれていましたから、こちらが面食らってしまいます。
「せっかく来られたのですから、ゆっくりしていってくださいよ。今お酒も準備させますから」
と父が引きとめたのですが
「女房と待ち合わせておりまして」
「奥さんも一緒に来ていただいたらよろしかったのに」
「そう思ったのですが、女房が遠慮しまして。それに私も少し照れくさかったものですから。今日はご報告だけにということにしたのです。また一緒に寄せてもらいますから」
と彼。
こうして彼は帰っていかれたのですが、あの飄々として物にこだわらず、自由奔放、現代に対するアンチテーゼみたいな生き方をされていた彼の、あまりの変わりようにただただ驚くとともに、なんだか寂しくなりました。
父なども
「あいつ変わってしまったな。馬鹿に俗っぽくなってしまって。現代版久米仙人(※1)というところだろうな。それにしても女の影響は大きいね」
と嘆いていました。
※1:伝説上の仙人。寺にこもり空中飛行の術を体得したが、川で衣を洗う女のすねに目がくらんで神通力を失い墜落。その女を妻とした。後に神通力を取り戻し久米寺(奈良県橿原市(かしはらし))を建てたという。