マイナスとマイナスが合わさっても その1

この話はフィクションで、実在の人物、事件とは全く関係ありません。

その1

先日、相続の関係で、絵画の値段査定をしてくれないかというお頼みがあり、徳島までいってきた時のお話です。せっかく、徳島まで来たのだからと、帰り、四国八十八箇所中の一番札所、霊山寺(りょうざんじ)まで足を伸ばし、参詣(さんけい)して帰る事にしました。別に、ここを起点にして八十八箇所巡りをするつもりではなく、単なる観光の心算です。型どおりのお参りを済ませ、お庭を拝見させていただいた後、境内をぶらぶら歩きながら、山門近くにある池の辺まで来た時のことです。
「失礼ですが大田原先生のところのお嬢さんでは。」
と声を掛けてきた男性がいました。
年の頃は、もう60歳半ば、日焼けした顔一杯に広がる伸び放題の胡麻塩の髭面に、着古した白衣(びゃくえ)、土ほこりを被った大きなリュック、くたびれた菅傘を身につけ、金剛杖を突いて立っている男性が、皺だらけの顔に、満面の微笑みを湛えながらこちらの方をみています。巡礼の服装をしていなければ、思わず逃げ出したであろうと思われるような、そんなむさくるしい姿の男に、思わす後退りしながら、
「そうですけど、失礼ですが、どなた様だったでしょうか。」
と尋ねました。
一生懸命に思い出そうと、記憶の糸をたどってみたのですが、どうしても、浮かんでこない顔です。
「中道ですよ。ほれ、お父様の所に、時々お邪魔させていただいていた、あの中央医療器具の中道秀明です。そうですねー。もうかれこれ三十年近くも前になりますか。貴方が小学生の時、水泳教室や、英語会話教室へ通うのを、お母様の代わりに、時々送り迎えさせてもらっていた、あの中道です。覚えていらっしゃらないでしょうかねー。そういえば、私も随分老けましたからねー。お嬢さんの方は、あの頃の面影がそっくり残っていらっしゃるものですから、懐かしさに、つい気安く、お声をお掛けしてしまいましたが、ご記憶にないのも、当然かもしれませんねー。」
といわれます。
そう言われれば、目とか鼻、口の辺りに、あの親しかった中道さんの面影が、かすかに残っているような気もします。
しかし、頬はこけ、目は落ち窪み、心もち猫背で、よれよれの白衣(びゃくえ)といった、みすぼらしいお爺さんの姿に、あの闊達で、いつもお洒落だった頃の、若かった中道さんの姿を、重ね合わせる事は困難でした。
「ごめんなさい。あまりにお変わりになったので、はっきり思い出せなくて。でもあの頃の中道さんって、もう少しスマートで、もっと大きかったような気がしますけど、私がまだ、子供だったからかしら。それにしても懐かしいわ。あれから後、転勤になったということで、もう家には、いらっしゃらなくなったけど、その後、どうしていらっしゃったの。ご結婚されました。あの頃、家の母が、何とか良いお嫁さんをと、盛んに縁談を世話していたことがあったわねー。」
と私。
「お母様には、ずいぶん可愛がっていただきまして。今どうして見えます。お二人とも、お変わりありませんか。」
と中道さん。
「それが、父は相変わらずですが、母は今から18年前、亡くなりました。それで私も、時々こうして行った先々のお寺に立ち寄って、お参りさせてもらっています。」
「中道さんのところも、そんなお姿をしていらっしゃるところを見ますと、いろいろおありになったようですね。」
「立ち話もなんですから、ちょうどお昼時ですし、そこらの食べ物屋に立ち寄って、積もるお話でもしましょう。」
ということで山門前の食堂に入り、それでも足りずに彼のお宿までついていって、いろいろお話を聞かせていただきました。

その2

中道さんが、私の家にいらっしゃっていたのは、彼が医療器具店にお勤めの時で、私の父が医院を開業していた頃の事です。年はその当時30歳半ば、お洒落でスマート、朗らかで、親切、人の心を逸らさない話し方をされる、とてもよく気の付く人でした。背も標準並み以上、苦みばしった、とても男性的な顔立ちでしたから、もてないはずがなかったと思うのですが、どういうわけか、その当時まだ独身でした。母などはそれを気にして、何とかいいお嫁さんをと、いろいろお世話をしていたようでしたが、今ひとつ乗り気になられず、うまくいかなかったようです。私の両親と、とても気があったようで、商売を離れて、個人的にも、親しくされており、お勤めが終わってから、やって来られては、父と夜遅くまでマージャンをしたり、酒を酌み交わしたりしながら、世間話や、会社の愚痴話をされておられたものでした。母も、中道さんの事を何かと頼りにし、物臭な父に代わって、家の用事を、個人的に頼んでいたりもしていました。こんな関係で、私などは、忙しかった両親の代わりに,水泳教室や塾への送迎までも、時々してもらっていたものです。
中道さんは又、とてもこまめな方で、歓送迎会、忘年会、観劇会、慰安旅行といった医院の行事は無論のこと、誕生日会だとか、クリスマスといった、私どもの個人的な行事にも、プレゼントを持って駆けつけてくださるものですから、私たち姉妹は、親戚のお兄さんといった感覚で、彼と接していたものでした。

その3

「で、その後、どうしておられました?ご結婚は?お子さんは?どうしてお遍路さんをされるようになったの?」
と矢継ぎ早に、質問を繰り出す私に対し、彼は、あまり触れられたくなさそうでしたが、それでも、ポツリポツリとそれまでの経緯を語って下さいました。
お嬢さんの所に行かなくなって、一年半位後でしたか。私が36歳になった年の秋に、友人の紹介で知り合った女性と結婚しました。年齢は私より7歳年下。小柄な愛くるしい顔立ちの女性でした。性格は几帳面で、純、潔癖症の所がありましたが、多少いい加減な所のあった私には、ちょうど良いコンビだったように思います。ただ生真面目すぎて、嘘や誤魔化しは許さないといったところがあり、冗談を言っても本気にとって怒ったりしますから、その点では、多少気詰まりなところもある人でした。しかし何しろ、なんでもきちんとやっておいてくれますから、とても頼りになる人でした。又とても寂しがり屋で、甘えん坊なところもあり、私が帰ってくるのを待っていたかのように、付きまとい、その日の出来事、近所の噂、果ては芸能界のゴシップにいたるまで、次々と話しかけてくるものですから、気分の落ち込んでいるときなど、多少煩わしい時もないではありませんでした。そうかといって夫婦の中は、特に仲が悪いという事はありません。どこにでもある、可もなし、不可もなしといった、平均的な日本の家庭といったところでしたでしょうか。共稼ぎでしたから、四六時中、顔をつき合わせているわけでもありませんし、お勤めの関係で夜遅くなることも多かったものですから、おたがい角付き合わせるというようなことも少なく、まあまあ、うまくいっていたほうだと思います。ただ結婚後、長い間、子供に恵まれませんでした。従って妻は、ずいぶん寂しがっていました。しかしこの妻の寂しさには、訳がありました。子供が出来ないという事以外に、私の妻への愛を、妻は今ひとつ掴みきったと思う事が、出来なかったところにもあったようです。と申しますのも、私、実を申しますと、若いとき、猛烈に愛したにもかかわらず、事情があって添い遂げる事が出来なかった女性がいまして、妻と結婚した後も暫くは、その思いを引きずっていた時代がありました。今だから正直に申しますが、貴方のお母さんが、さかんに縁談を持ってきて下さった時、あまり乗り気になれなかったのは、そのせいでした。むろん妻に、そんな話はしたことがありませんが、妻はなんとなく、そのことが感じられていたようで、何かの拍子に、
「英明さんの心は、時々、どこかほかにあるみたいな気がする時があって寂しいわ。」
と結婚後7,8年目も経ってから、ふと漏らした事がありました。
本当はその頃はもう、私も妻のことを、結構、愛していたと思うのですが、日本の男性の欠点という所でしょうか、それを表現するのが照れくさくて、妻に伝える努力をしていませんでした。又そんな妻の寂しい心を、推し量ってやる事もなく、家の事は妻に任せっぱなしにして、自分は残業と称して、夜のお付き合いに精を出し、帰りが遅くなることも再々といった勝手なことばかりしていました。従って彼女は、結婚生活に多少寂しさがあり、余計に子供を欲しがっていたのだろうと、今は思っています。妻は、あちらこちらの不妊外来を訪ね、出来る限りの手を尽くしました。しかし夫婦のどちらにも、不妊の原因はないと、婦人科の先生から言われているにもかかわらず、どうしたものか、なかなか妊娠しませんでした。こうして、かれこれ10年近くも婦人科に通った時のことでしょうか、もう年齢的にも子供は諦めようと二人で相談して、不妊治療に通うのも止めてしまった頃になって、突然に子供に恵まれました。それが香奈で、私が48歳、妻は41歳、妊娠可能年齢としてはぎりぎりの時の事でした。こんなことを言うと、親馬鹿と言われるかもしれませんが、香奈は色が白く、赤ちゃんの時から目鼻立ちも整った、とても可愛い、人目を引く子でした。長じてからの性格も、とても素直で、甘えん坊、誰が教えたというわけでもないのに、幼いにもかかわらず、仕草にも話し方にも、女の子らしい可愛さの溢れる子でした。科(しな)を作りながら(にっこり笑いながら)甘えてこられたりすると、思わず抱きしめて、食べてしまいたくなるような可愛さがありました。どこに連れ歩いても、何をしていても、可愛い可愛いと、どなたからも言っていただける子でした。私たち夫婦にとっては、何物にも換えがたい宝物でした。目の中に入れても痛くないほど可愛いとは、このことかなあ、などと、いつも思っていました。妻など、もう一時も離れておれず、お勤めも辞めてしまい、娘に付きっ切り、どこへ行くのも、何をするのも、娘が傍にいないと寂しいようでした。それが小学校に行きだしてもそうで、他の子と遊ばせるより、自分の傍において置きたがりましたから、このままでは、社会性が身に付かないのではないかと、ひそかに心配していたほどです。そういう私も、香奈が可愛くてたまりませんでした。それまで、どちらかというと遅かった帰宅時間も、子供が生まれてからは、比較的早く帰るようになりしました。大きくなってくるに連れ、ますます可愛くなり、娘の顔を、一刻でも早く見たくて、お付き合いの酒も、ほとんど断るようになっていきました。ましてそれ以外の遊びなど、全く興味をなくしてしまいました。
子供と、お風呂に入ったり、お話したり、散歩したり、遊んだりするのがとても楽しみで、いつも三人連れ立って歩いていました。どうしても勤めが遅くなったりして、子供がもう床に入ってしまっていたりしますと、寂しくてたまりません。そこで寝ている子に、頬擦りをしたり、ホッペをつついてみたりして、起こしてしまい、妻によく怒られたりしたものです。夫婦間の距離も、香奈が生まれてからは、以前よりずっと、縮まったようでした。何しろいつも、何をするのも三人一緒のことが多くなりましたし、妻は、私が帰ってくるのを、待ちかねていたように、私を捕まえては、香奈のその日の出来事を報告してくれました。又どういった習い事をさせたいとか、どこの学校へ行かせたい、将来どういう子になった欲しいといった、子供の未来への夢を飽きずに話してくれました。私もその話によって、私の知らない時の、香奈の時間を埋める事ができましたから、それを聞くのをとても楽しみにしておりました。

その4

幸と不幸は隣り合わせです。こんな幸せな生活は永くは続きませんでした。香奈が小学校の2年生になった年の夏の事でした。英会話教室に香奈を送っていく途中で、妻が交通事故を起こし、香奈を亡くしてしまったのです。信号のある交差点での事故でした。信号が青から黄色に変わるのを待って、右折し始めた妻の軽自動車の側面に、黄色から赤に変わる直前、急いで交差点を渡ろうと飛び込んできた大型トラックが衝突してきました。妻の車はその衝撃で横転、そのまま、交差点のガードレールに激突、大破してしまいました。この時、シートベルトをしていた妻は軽症程度で済んだのですが、後ろの座席に半立ちで、歌っていた香奈のほうは、頭蓋底骨折、頚椎骨折を起こし、即死してしまいました。
急を聞いて駆けつけた私が見たものは、病院の霊安室で、白布をかけられた香奈の遺体とその前に、呆けたような顔をして、あらぬ方を眺めて座っている妻の包帯姿でした。その後の事は、私もはっきり記憶にありません。妻を労わりながら、しっかり葬儀も執り行ったそうですが、まったく記憶にありません。後ろ指を指されないようにしようとする意思だけが、機械的、習慣的に、身体や、口を動かしていたのだろうと思います。これを契機に、私たち夫婦の間は、いつの間にか冷え切ってしまいました。今から思えば妻が一番に苦しんでいたのでしょうに、当時の私には、妻の辛さを理解してやる余裕などありませんでした。ただ自分の寂しさ辛さの中に、閉じこもってしまって、無意識のうちに、非難の目を妻に浴びせていたようでした。私たちの間には、全く会話がなくなりました。彼女は私と目を合わせることを避け、無表情、無言で、ロボットのように家事をやり、私の身の回りの世話をしてくれていました。あれだけ几帳面だった妻が、何をするのも投げやりで、中途半端に放りだしてあるようになっていました。会社に出かけるときも、玄関まで送ってはくれますが、全く義務的で、何の情感も感じられないようになっていました。今から思えば妻は、ひたすら自分を責め、嘆き、苦しんで、閉じられた世界の中でもがいていたのでした。こうして鬱(うつ)によって、人格を破壊され始めていた妻は、もう何をするのも大義で、何もしたくなくなっていたのだと思います。当時の妻は、彼女に残されていた僅かな意思の力が、辛うじて、身体を動かしていたに過ぎなかったようにおもいます。こんな妻の姿をみても、私は、彼女の心の闇を、推し量ってやれませんでした。私は自分の殻に閉じこもって、妻の異常さに気付いてやることが、出来なかったのです。そんな妻の態度を、むしろ心の奥底で、非難さえしていたような気がします。私は玄関まで送ってくる妻に対して、あてつけのように、なんの言葉もなく家を出、一晩中、飲み明かし、無断で家を空けるといった毎日でした。そんな私に対して、妻は、何も言いませんでした。床にも入らず、机にもたれたまま転寝(うたたね)をしながら待っていてくれたのですが、それにたいして、悪いとか、申し訳ないと思った事もありませんでした。むしろ当て付けがましいと感じて、内心腹を立てていたように思います。彼女の謝罪と助けを求めている、必死のサインに気付かなかったのです。助けを求め、もがいている妻に、救いの手をさし伸ばしてやるどころか、その手を払いのけ、泥沼につきおとすような事をしていたのでした。

その5

結局私は、妻も無くしました。その日、いつものように、へべれけに酔って午前様で帰ってきた私を、待っていたのは、鴨居にぶら下がっている妻の姿でした。子供の一周忌を待っていたかのようにあの世へと、旅立って行ったのです。何の言葉も遺されていませんでしたが、そこに妻の寂しさと、無言の抗議を感じました。一人残されてみて始めて知った孤独でした。いつの間にか、妻に依存していた自分を知りました。それまでの妻への態度は、子供が母親へ八つ当たりしているような、やんちゃ坊主の甘えのようなものでした。しかしそれを受け止める余裕は、妻にはもうなかったのです。思えば、妻のほうがずっと強く打ちのめされ、精神を冒され、助けを求めていたのでした。それに気付かず、毎日無言で非難の目をむけ、妻が苦しんでいるのを見て慰められていた自分を責めました。自分を責め、不幸を呪い、孤独と寂しさの中、絶望の淵に立って、私の顔色を窺いながら、ただおどおどとしていた、妻の顔を想いだす時、自分の狭量さが責められました。そこに到るまでの彼女の心境を推し量るとき、その哀れさに涙がとまりませんでした。私は彼女の霊に詫びました。幾度も幾度も詫びました。しかし飛び去った時が、再び戻ってくる事がないように、妻が私を許してくれることもありませんでした。私は孤独と悔恨の中、香奈の死後、妻の味わっていた苦しみや悲しみを、そっくりそのまま受け継いで、味わい続けることになってしまったのでした。

その6

全てが空しく、何をするのも億劫になった私は、お勤めも辞め、家で、お酒を飲み、ただごろごろしているだけといった、自堕落な毎日を送るようになりました。生きていくのも面倒なら、死んでゆくだけの勇気もない私は、酒に逃げ、酒に溺れて、なるべく何事も考えないようにしました。幸か不幸か、香奈の補償金や、妻の生命保険、そして私の退職金などで、かなりの金を手にすることが出来た私は、マンションのローンも一括で払ってしまい、いろいろな人々との交流も、煩わしくなって、自ら絶ってしまいました。従って訪ねてくる人も殆どなく、他から煩わされることもなくなりました。何をするのも億劫であった私は、家事も殆どせず、部屋は散らかり放題、衣服も寝具も、汗と垢で汚れがちでした。食事も、コンビニで買ってくるおつまみと、お酒が主で、後はおにぎりやパンを稀に買ってくるくらいで済ませていました。垢とタバコとアルコールの臭をプンプンさせながら、ぼうぼうの髪、もじゃもじゃの髭、蒼い顔で、垢じみ、よれよれの服装のまま、夜中に買い物にやってくる私の姿は異様で、コンビニの店員から見たとき、気味の悪い、お客だったようで、いつも、あまり歓迎されていませんでした

その7

こうした生活をするようになって2年くらい経った、ある秋の暮れの頃のことだったでしょうか。夜遅く、お酒を切らした私は、いつものようにコンビニへ、お酒、煙草、おつまみなどの食べ物を買いに出かけました。駅の近くにあるそのコンビの前には、寒空にもかかわらず、高校生らしい数人の男女が、私服姿で屯しておりました。彼らは、コンクリートの床の上にばらばらに座りこんでおり、傍にはペットボトルの空き瓶や、缶ジュースの空き缶、インスタントラーメンの空容器、タバコの吸殻、ビニール袋などが乱雑に散らばっているのが、チラッと目に入りました。私は別に気に留める事もなく、いつものように買い物を済ませ、お店の外に出てきました。ドアから出たとき、私に声をかけてきた女の子がいました。
「おっちゃん、そのおにぎり、半分おくれ。良いもん、見せてやるから。」
まだアルコール分の体に残り、夢現(ゆめうつつ)を彷徨っていた私は、彼女のそんな言葉にも、何の関心もなく、無言のまま、そこを通り抜けようとしました。
「おっちゃん、おーい。それ、半分おくれといっとるがー。聞こえんの。飲み物もくれたら、いい事させてやってもいいよ。」
と声が追っかけてきます。
それに合わせるように、外の子供たちの、下卑た笑い声。立ち上がった女の子は、背丈はもう既に小振りの、大人の女性くらいありますが、体つきはまだ子供らしく骨ばり、こげ茶色の顔に、白い目の隈取りした化粧の下の顔には、幼いあどけなさが残っています。茶髪に白のメッシュをいれたその子は、香奈には似ても似つかない顔立ちの子だったにもかかわらず、どういう訳か、ふと香奈のことを思い出してしまいました。酔いから覚めきっていなかった私の頭は、そのあどけない顔に一瞬、香奈の面影を見出してしまったのかもしれません。今から思えば、人懐っこく、物怖じしない、その話し方が、香奈を思い出させたのかもしれません。しかしそれも一瞬の事、深夜のコンビニ前に屯する(たむろする)子供たちに、不気味さを感じた私は、買ったばかりのおにぎりと、おつまみを、黙って差し出し、そのまま立ち去ろうとしました。
ところがその女の子は、
「おっちゃん、あたい、かつあげしたんじゃない。」
「御代はきちんと払うで。ほら、あたいのいいもん、おがんでいきな。」
とスカートの端をたくし上げる格好をしながら、手招きするのです。その蓮っ葉な(はすっぱな:軽はずみで下品な)言動や外見とは裏腹な、少女の律儀さに驚いた私は、酔いも少し覚め、大人の分別が戻ってまいりました。
「遠慮しとく。そういったものは、貴女が、もっと大きくなって、大切な人が出来たときのために、取っておくものだよ。」
「こんな夜遅くまでこんな場所にいて、そんなことしていたら、危ないよ。早く家にお帰り。親悲しませちゃ駄目だよ。」
といって、逃げるようにその場を立ち去り帰ってきました。
しかしその日は、お酒を飲んでも、頭は妙に冴えかえって、酔いが回ってきません。あのまだあどけない顔のくせに、妙に大人っぽい少女の、ヘンに阿婆擦れた言動が、奇妙に頭にこびりついて、離れないのです。
「あれから直ぐ、帰ったのかな。あんなことしていて、悪い大人に、酷い目にあわされなければいいが。あの子の人生、これからどうなっていくのだろう。あのまま放っておいても、ほんとうに、大丈夫かなー、」
私は無意識のうちに香奈の人生と重ね合わせて、彼女の事を心配していたようでした。長く自分の世界に閉じこもり停滞していた私の心が、ほんの少し外に開き動き出そうとした瞬間でした。しかしそれも僅かな時間に過ぎませんでした。再び周りのことに無関心な、元の私にと逆戻りし、煽るようにお酒を飲みながら、その思いは、深い記憶の底ヘと沈めてしまいました。
しかし彼女が垣間見せてくれた、現実の世界との接点は、これで切れてはいなかったのでした。その後、コンビニに行くと、無意識のうちに、彼女の姿を目で探している、自分がいるのに気付きました。私はいつの間にか、その少女を気にするようになっていたようです。それも数日の事、やがてすっかり忘れてしまった頃の事でした。ちょうどあれから10日くらいたった時のことでしょうか。いつものように酒に溺れたまま、だらしない姿で、コンビニへと出かけた私に、あの少女が声を掛けてきました。今日は二人の男の子と三人だけで屯しております。
「おっちゃん。何、又飲んどるんか。駄目だなー。人の事なんか、言えた義理か。大体、この間、おっちゃん、早よー、帰れって、お説教してくれたけど、うちは帰る家なんか、あらへんのや。しょーがないから、ここで、時間つぶしとるのに、なにが悪い。知りもせんと、いらんこと言わんといてや。」
「心配してくれるんなら、おっちゃんの所に泊めてくれるんか。でもテントは嫌やで。」
と彼女。彼女はわたしの服装や態度から、浮浪者かなにかと思ったようで、半分馬鹿にしたように、絡んできます。
「テントじゃないよ。でも本当に泊まる所ないの?・・・・事情によっては泊めてやらん事もないが。・・・しかし危ない事、平気で言うねー。今まで怖い目にあったことないの。こんな怖い時代だというのに。・・・そんなことしていると、そのうち酷い目に会うから。大切なものだけならまだしも、命だって取られかねないよ。」
「なー。いいかげんお家にお帰り。お弁当なら、買ってあげるから。何がいいの。」
その時はもう酔いも半分以上覚め、本格的に彼女のことが心配になった私は、更に続けました。
「もし声かけた人が、暴力団だったらどうするつもり。覚せい剤や麻薬漬けにされて、変なところに売り飛ばされてから泣いても、遅いんだから。こんな夜中に、こんな場所でぶらついているの、もう止めたほうがいいんじゃない。」
と私。
「煩せい(うるせい)なー。いらんお世話や。これでも結構、人を見る目はあるんやから。安全と思う奴以外は、声掛けーへんわ。」
「おっちゃんなんか、絶対変なこと、せーへんタイプやんか。それにもう、オジンやし。」と少女。
「そうかなー。そんな事分からんと思うけど。男は幾つになっても、狼やで。」
「所で、何が欲しいの。好きなもの買ってあげるから、大人しく小父さんの言うとおり、お家にお帰り。」
「うるせいといっとるだろ。家、家、家と。そんなもんあらへんと、さっきから言っとるだろうがー。もういい。」
「でも今日のお説教賃に、カップラーメンとコーラ、野菜サラダくらいおごらせたろか。」と少女。
どう見てもまだ15歳前後にしか見えない、幼さの残っている彼女の口から飛び出てくる、威勢のいい啖呵。強がっているのか、これまでの生い立ちゆえに、人生を諦めて捨て鉢になってしまっているのか、その荒んだ口調とは裏腹に、彼女の言葉には、人の良さが窺われ、哀歓が漂っているように思われます。なんか事情を抱えているとは推定されましたが、所詮無力な一酔っ払いでしかない私に、どうしてやることも出来ません。またその時の心境では、他人のために、何かをしようとする精神的な余裕なども、ありませんでした。従って、せめてと、請われるままの食べ物、飲み物を買い与え、それ以上は何も言わずに、その場を立ち去りました。