No.228 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その30

このお話はフィクションです

その30の1

「所で、重兵衛さん、もし私が死んだら、私が亡くなった事を、息子康継の所へも知らせて欲しいと思っているのですが、やって頂けます?」
「またそんな不吉なことを。そんな気の弱い事を言ってないで、何としても生きていかなければと、気力をふり絞って下さいよ。もう一度元気におなりになって、一緒に、ご子息に会いに行きましょうよ」
「そんなの無理。だからその話は止しにしましょう。さて今言いました私のお願い、聞き入れて下さいます?」
「無論、庵主様のお頼みですもの、万一の事があればいうまでもなく、おっしゃるとおりに、いたしますけど」
「そういって頂けると嬉しいわ。所で、何時その事を、知らせに行ってもらうかと、今の所悩んでいますの」
「えっ、亡くなられたら直ぐに、お知らせに行くのではないんですか?」
「だって、貴方もご承知のとおり、私の人生って、波乱に満ち過ぎていて、世間一般の人の目からみたら、受け入れ難いような生き方だったんですよ」
「でも庵主様、それもこれも庵主様が、自分の意志でそうなさったわけではないでしょ。そうなるように宿命づけられた事によって、歩まざるをえなかったに過ぎないんじゃないですか。」
「そうよ。だから私自身は自分が歩んできた人生を恥じている訳ではないのよ。ただね、世俗的な通念からすれば、指弾されても仕方がないだろうなと思うの。だから、世俗の世界に生きている人である、康継や安乃さんたちが、私を母親とし、また一族の一員として受け入れてくれるようになるには、かなり成熟した分別と考える時間が、必要になるだろうなと思いますの。何しろこの世俗の世界で生きるものにとっては、それを理解するには世間体(せけんてい)という、大きな障壁を越えなければなりませんからね。そういう意味では、康継が、自分の頭できちんと考え、決断できるような年になってからの方が良いんじゃないかとも思いますの」
「本当にそうでしょうか。わしが思うには、今すぐに、今の病状を康継さんにお知らせすべきだと思いますけどね。こんなにも、息子さんに会いたがっていらっしゃるんですもの。息子さんだって、今生の別れという事になればこれまでの経緯はどうであれ、会いに来て下さるにちがいありませんよ」
「止して(よして)くださいよ。私としてはねえ、そりゃあ、会いたいですよ。
こうして会いたい、会いたいと思いながら、結局、会わずに死んでいかなければならないなんて、悔しいし、悲しいとも思いますよ。
いくら仮の世の、縁(えにし)にすぎないとはいえ、因果の理に基づいて、阿弥陀如来がお結び下さった、強い、強い絆ですもの、あの子に対しては、他の人とは違った、特別な感情がありますからね。
でもね、それは私だけの思い。康継や、安乃さんの立場になって、考えたらどうかしら?十年余もの間、何の連絡もなく、死んだとばかり思っていた母親の所から、突然『お母様が、ただいま危篤状態で、貴男様に会いたがっておられます。直ぐに会いに来て下さい』と全く見知らぬところから連絡があった時、直ぐに会いに行く気になります?『えっ、もうとっくの昔に、亡くなっておられたんじゃなかったの』と驚きはしましょうが、記憶喪失になっていた為に、連絡できなかったという事を含め、私の生きてきた道を、全くあの人達は知らないんですからね。『十年余もの間、何の連絡もしてこないで、放ったらかしにしておいたくせに、何を今更』と反発するだけでしょ」
「そうなりますと、あの子が、もし会いに来てくれたとしても、心に蟠り(わだかまり)をもって会いに来るわけでしょ。もし来なかったとしたら、あんなに会いたがっておられた母を、冷たく突き放してしまったという後悔が、あの子の心に、生涯に亘って残ることになりますでしょ。という事は、いずれにしても今知らせる事はあの子の心に、負担を掛ける事になるだけだと思いますの」
「だから私としては、直接二人にお会いして、私の歩いてきた道をきちんとお話をし、その生き方に何の拘り(こだわり)もない理解をして欲しかったのです。そしてその上で、母として、一族の一員として、受け入れて頂きたかったんです」
「でもね、庵主様、それは急には難しいかもしれませんよ。お二人の心の問題だけでも、そう簡単には解決できないでしょうに、その上、立派なご身分の方々は、世間体も気にされますからね。
だからこの際、この機会を利用して、一挙にお会いになるというのが一番良いと、私は思うんですけどね」
「駄目、それは止しておくれ。私としてはねえ、会う以上は、私のこれまでの生き方を理解してくれ、あの子や、安乃さんが、『私の母です』とか、『義姉ございます』と、何の蟠り(わだかまり)もなく、世間様に向かって、胸を張って、言えるようになってほしかったんですから」

その30の2

「さて、いろいろ考えたのですが、私が亡くなったのを康継たちのところへ知らせにいってもらうのは、どうせ遅れついでですからあの子に充分な分別がつく年齢になるまで、待ってもらおうかと思うの」
「と言いますと何時頃行けとおっしゃっるのです?」
「そうね、あの子、今はまだ十六歳だったと思いますから、あの子が二十歳を過ぎ、十分な分別がついてからの方が良いと思いますので、知らせるのは今から四、五年後くらいにしてもらおうかしら」
「良いですよ。でその時、庵主様がお亡くなりになったことをお伝えする以外に、何かお話しをしてくることがありますでしょうか?」
「そこにある机の上に、柳行李の弁当箱がありますでしょ。その中に、父・頼貞の愛用していた油滴天目茶碗の欠片と夫信光の遺髪、それは、敵兵に囲まれ緊迫した状況の中急いでぬいてきたものですから、数本しか入っていませんが、それらが紙に包まれて入っています。
それに私の遺骨を加えて、届けて頂きたいと思います」
「私の遺骨につきましては、お二人と別れて以後に、私の身の上に起こった出来事を、お話しなさった場合、もしかしたら、『事情はどうあれ、憎き敵方の将、東信綱と情を交わした上、沢山の男どもに玩具にされたような過去をもつ女は、私(康継)の母とも、父・信光の妻とも認めるわけにはいかない。
故に、父(信光)の遺品の入っている、山岐家、先祖代々の墓に入れる訳にはいかない』と言って、遺骨の受け取りを拒否されるかもしれません。
もしそうなった場合は、お手数ですが、黙ってお受け取りくださり、お持ち帰りになってください。
そして、一緒に持ち帰ってくださった、夫(信光)の遺髪と一緒に、この寺の墓地の片隅にでも、埋葬して下さい」
私としましては、この身体は、仮の世で私が授かった、仮の肉体にすぎない事はよく分かっておりますが、しかし、この仮の世の肉体の一部であった私の遺骨には、この仮の世で愛した、唯一の男性、信光の傍で、眠らせてやりたいと思いますから」
「油滴天目の茶碗の欠片につきましてはどういってお渡しすればよろしいでしょう?」
とお聞きしましたら
「それにつきましては、それを見つけて持ち帰った晩、泊まりました宿で、その由来を書き留めた懐紙で、包んでおきました。
従って、お茶碗の欠片をお渡しなさる際は、その紙も捨てないで、一緒に保存してくださるようお願いしておくれ。
なお、この茶碗は、その由来にも書いておきましたように、私の父であり、康継の祖父にあたる、斉木頼貞の唯一の形見となる物です。
それはまた、康継の、母方の家の由緒を証明する証(あかし)となる物でもあります。
故に、それをみて子々孫々に至るまで、自分の出自に誇りを持って、常に正道を歩むよう心掛けてほしいと言っていたと伝えてください」との事でございました。

その30の3

「ご臨終の際、庵主様からお聞きました、お言葉は、今お伝えしました短いお言葉だけでございました。
しかし、これは、重い病気で、死の間際に(まぎわ)にいらっしゃった故に、ここまで話されるのが精一杯だったからだと思います。
でも、日常庵主様からお聞きしていた言葉からお察しますに、実際には、他にも言い残された事が、いろいろおありだったろうと思うのでございます。
特にご子息康継殿につきましては、いつも気にかけていらっしゃっただけに、語っても語りつくせぬ思いがおありだったはずです。
私の思い過ごしかもしれませんが、私に託された、この天目茶碗の欠片には、言外に、「世間の通俗的な見方からみれば、私は、この陶器の欠片のように、唾棄すべき汚い陶片でしかないかもしれません。しかし、世評に惑わされることなく、真実を見透かすことのできる、濁りのない目で見て頂ければ、この陶片の黒い陶肌に、輝いている美しい油滴のように、私の生きてきた道もまた、私なりに,あなた方が、世間に対し、胸を張って、自分の母であり、山岐一族の者であったと、誇れるような生き方をしてきた心算です」というメッセージが込められていると思います。ほかにも、「私は、いつ何時といえども、夫・信光の事と、康継、貴方の事を忘れたことはありませんからね。
私たち母子が背負った、不幸な宿命故に、不本意ながら、ついにお会いすることもなく、永遠のお別れを迎えなければならない事になってしまいましたが、私の肉体は、この世から消えて無くなったとしても、私の心はいつも、貴男の傍にあって、貴男を見守っています。
貴男のこれからの人生において、困難に出会った時は、どうか、この茶碗を取り出して眺めてください。この茶碗の釉肌に涙の粒のように光る油滴には、貴方に代わって苦しみを、引き受けてやりたいと願っている、母である、私の祈りがこもっていますからね」というメッセージも込められているように思います。

その30の4

「そうでしたか、最初お聞きしたときは、僧侶の身とはいえ、記憶がお戻りになられてから後も、何の便りも下さらなかったのは、いくらなんでも薄情ずぎると、思って恨みましたが、連絡をくださらなかったのは、そういう理由だったんでございますね。
母と名乗る事によって、世間から嘲られ、罵られ、私たちに、肩身の狭い思いをさせるるのではないかと恐れられ、母と名乗る事を躊躇って、連絡を下さらなかったのが、最大の理由だったんですね。
そんな事とは露知らず、薄情な母親と恨んだりして申し訳ない事をしてしまいました」。
「そうです。どうか庵主様のお心をお汲み下さって、受け入れてあげてください。貴方たちの所へ会いに行かれなかったり、連絡されなかったりした最大の理由は、今貴方様にお話ししたたことによる所が大ですが、ほかにも、庵主様の几帳面で義理堅い性格に付け込むような形で、震災後の大変な時期を乗り切るために、私どもが庵主様に頼り切り、こちらを訪れるお時間を、差し上げられなかった所にも、大きな原因がありますから」
「そうですか、よくわかりました。お話を聞きまして、理屈では、受け入れてあげなければと思うのですが、心情的には、他の男、それも、父の命を奪った敵(かたき)に、身を委ねたような女を、母と呼ぶことには、なお釈然としないものが残っていまして、すんなり受け入れ難い所が、なおござますけど」
「そうおっしゃいますけど、敵方の大将に、身をゆだねられたのも、貴男様や、庵主様のお父上、すなわち貴男様のお祖父様(おじいさま)の命をお助けする為だったのでございますよ。
『わしの言う事をきかなかったら、お前の父の命も子供の命もないと思え。
お前は、子供は、どこかへ逃がしてあるから、安心と思っているようだが、
草の根分けてでも探し出し、首をもらいに行かせるからな。
それはお前が自死したからと言って許されるものでないからな』という東の脅しに屈し、やむなく、身をお任せになっておられたのでございますよ。
『死ぬことも出来ず、敵に身体を委ね(ゆだね)続けなければならなかった時の辛さは、地獄の責苦もかくやと思うほどだった』とおっしゃっていたんですよ。
自分の部屋に戻った後、悔しさと悲しさの為に流した涙で、『枕の乾く時がなかったほどだった』とも言っておられたのを聞いております」
「そうだったんですか、身を委ねられたのも、自殺されなかったのも、私達のせいだったんですね。
知らなかった事とはいえ、それを母と呼ぶのに、こだわりがあったなんて、何という罰当たりな。ほんとうに申し訳ない事をしました」
「何もご存じなかったのですから、仕方がありませんよ。ただね、この後、この陶片をご覧になった時は、庵主様がいつもおっしゃっていた、
『あの時の悔しさと、悲しさ、そして康継恋しさ故に流した涙の数は、この天目茶碗の釉薬の中に光る、油滴の数より、多いほどでしたのよ』という言葉も思い出してあげてください」

その31に続く