No.210 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その12

油滴天目の油滴に刻まれた涙痕 その12(戦国の世を駆け抜けた女)

このお話はフィクションです

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「そういう訳で、今となってはもう、この領地を取り巻く、厳しい周りの状況を、頼正殿によく理解していただいた後、領内の融和と、一致団結を図る事を条件に、領主の座を、頼正殿にお譲りになって頂くしか、道がないだろうと思うんです
大殿にはそう進言しました。
ただ、ここで心配なのは、あの頼正殿のことです。
先ほども言ったように、どんな約束をしておいても、あの人の場合は、権力を握った途端、そんなものは、何の良心の呵責もなく反故(ほご)にしてしまう可能性が大きい人ですからねー。
だから私たち一族は、自分達の身を守るために、私たちは、私たちで、対策を立てておく必要があると思うんだよ。
そこで貴女達に相談なんですが、無論、最終的には、一族の皆にも諮って(はかって)決めることになると思うんだけど、
この際、もうこの地への執着は棄て、皆で、先ほど言った、河川敷へ移住しようかと思うんだけど、貴女達の考えはどう?
先ほどもちょっと触れたように、先に行っている者からの報告では、
『水との戦い、草との戦い。虫との戦いと、その土地の開拓には、一筋縄では、いかん苦労がある』のだそうだ。
しかし同時に、『私達の持っている土木技術を持ってすれば、それらを克服して、そこに我が一族の楽園を築くのも夢ではありません』とも言ってきているんです。
幸いな事に私達は、金(きん)を採取していた時以来の貯えを、今もなお、少なからず持っています。
その土地で、食べていけるようになるまでの数年間の生活なら、それは、食べていくだけで精一杯で、ぎりぎりの生活になるかもしれんが、なんとか、持ち堪えられる(こたえる)んじゃないかと思うんだよ。
だからこの際、思いきって侍と言う身分を棄て、新たに、人と殺し合わなくても良い、人のものを略奪したり、人を苦しめたり、泣かせたりしなくてよい、農民として生きる道を選ぼうかと思うんだけど、どう?」
「お兄ちゃんの戦嫌いも(いくさぎらい)、ここまで来ると、呆れるより、ご立派と言うより他(ほか)ないわね。
でも、私はお兄ちゃんについて行くよ。
ただ、この話、一族の他の皆達がどう言うかしらね。
そこの所に、問題があるんじゃないの」と安乃。
「そうだろうね、折角ここまで手塩にかけて育ててきた、田や畑を棄てて、海の物とも山の物とも解らんような新しい土地への移住と言う話だものね。
それも突然の話だもの、当然、皆びっくりするだろうし、嫌がる者もいるだろうね。
今の安定した生活への未練だって、一方ならない(ひとかたならない:並でないこと)もんがあるだろうからね」
「一族以外の者たちもいるのよ。その人達はどうするの
あれだけの人数を、他に、洩れないようにこっそり移動させると言う事になると、これまた大変よ。
不可能じゃないの」と安乃。
「それが一番問題なんだよなー。
でも自分の家の雇い人達には、夫々の家の、個々の家の事情で、ここにおれなくなったから出ていくという事で、対処してもらうしかないと思う。
そして、ここを出ていくにあたっては、その家の使用人を含めて、その家のもの全員が、一緒に、出ていってもらわねばならんから、一族の者には、今度の会合で、ここを出て行かなければならなくなった事情を、きちんと説明し、理解してもらうしかないだろね」
「そう、それじゃ、そうして。
なお、お兄ちゃんの事だから、抜かりないとは思うけど、使用人達と別れる場所は、ちょっとやそっとでは、ここまで戻ってこれないような場所にしてもらうよう、くれぐれも皆さんに、念を押しておいてね」と安乃
「解った、解った。そうする」
「使用人達はそれで良いとして、雇いの侍だとか、仲間(ちゅうげん)をどうするかという難問が、まだ残っているんじゃない?」
「それは、さほど心配しなくて良いと思うよ。
新しい雇い主の心当たりが、あちらこちらにあるから、夫々から希望を聞いて、夫々、それにあった人の所へ行ってもらうように、手配するつもりだから」と信光。
「ふーん、それなら良いけど、で、その人達は何時そちらへ行ってもらうの」と更に安乃。
「万一を考えて、ぎりぎりまで待って、私達がここを出ていく直前に出て行ってもらうつもりだ。
私達に、付いてきてくれると言う者は一緒にきてもらえば良いしね」
「ふーん、それなら、万一頼正側に寝返る奴がいたとしても、そいつらが、頼正の所に着いた頃には、私達はもう、頼正の手の届かない所にいってしまっているというわけね。
それで安心したわ」
「いずれにしても、時が切迫しているから、今夜にでも、一族の者を集めて、話す事にするわ」と信光。
「ところでお兄ちゃん、お義姉様は、どう思っていらっしゃるのかしら。
もともとが、金を掘り歩いていた山師で、今は半士半農でしかない私達と違って、お義姉さんは、代々、この地のお殿様だった家のご息女よ。
そんな、ど田舎の、河川敷での、開墾生活のような、不便で、苦しい貧乏生活に、耐えられるかしら」と安乃。
「私、私の事なら心配ご無用よ。
康継と、信光さまのいらっしゃる所なら、何処でだって生きていけるから。
どんな苦労にだって耐えてみせるしね」と美貴。
「まあまあ、相変わらず、お熱い事で。ご馳走様。でもね、本当に大丈夫?」
「本当よ。大丈夫。
ただね、強いて言わせてもらえば、心残りは、引退させられるであろう、お父様の事だけ。
私達が去った後、お父様はどうなるのかしらね。
あの頼正兄の事ですもの、約束事を、反古(ほご)にするなんて、朝飯前の人なんですものね」
それほどお父様の事が心配なら、いっそ、美濃への移住する時、お父様もご一緒して下さるようお願いしてみようか」と信光
「いくらなんでも、それは無理。
だって美貴さんのお父様は、なんといってもお殿様よ。
そんな先行きがどうなるかも分からないような田舎での開墾なんか、出来っこないに決まってるがね。
そんなの、言い出すまでもない事よ。
そう思わない、お義姉様」と安乃
「そう、安乃様のおっしゃるとおりですわ。
お父様にお百姓仕事なんかとても無理。
それにお父様には、『例え、自分が領主の座を退いたとしても、自分を支持してくれている家来たちがいる限り、いくら頼正兄でも、自分を粗末にする事は出来ないだろう』と思っていらっしゃる節(ふし)がおありですもの。
そんな話、するまでもありませんわ」
「ただね、私が心配でたまらないだけですから、あまりお気になさらないで。
こんな事態になりますと、お母さまが、早くにお亡くなりになったのは、かえってよかったのかも知れませんわね。
お母様は、こんな悲しい事態を御覧にならなくて、よろしいのですから。
私も、お母様の事に関しては、気にしなくてすみますし」と美貴。気丈な言葉とは裏腹に、美貴の目には今にも流れ出そうな大粒の、涙が溜まっておりました。

12の2

お城での会合当日、夫、信光が「会合の前に、お父様と打ち合わせしておきたい事があるから、少し早めに出る事にしよう」と言いますので、私達は早めに家を出ました。
当時、まだ事態が、それほど緊迫しているとは、知らなかった私〈美貴〉は、久しぶりの信光と二人きりでの外出に、ウキウキしていて、子供のようにはしゃいで、夫に話かけては、夫を困らせておりました。
後から考えますと、その時の夫は、いつ襲われるかもしれないという心配で、それどころではなかっただろうにと思います。
本当に申し訳ないことをしたと、今は後悔しております。
梅雨が明けて間もなかったその日は、とても暑い日でした。
私達一行は、直射日光の遮られている、林の中の道を選びながら進みました。
しかしそれでも暑く、全身から吹き出る汗で、着衣もびしょ濡れになってしまいました。
夫は、寡黙でした。
私がいろいろ話しかけても、緊張した顔をしたまま、ただ「アー、だとかウン」と言う気のない返事が返ってくるだけでした。
私達夫婦の前後左右を固め、護衛している武士達も、皆、今にも破裂しそうなほど、張り詰めた顔をして、前後左右を警戒しながら、ただ黙々と歩いていました。
そんな空気に気づいた私も、それっきり口を噤み(つぐむ)、黙々と夫の後を追いました。
こうして歩く事、一時半(今で言いますと約3時間)ばかり、木々の間を縫うように歩いてきた山道も終わり、間もなく川辺の郷の城下町に出ようと言う所までやってきました。
ところが私達一行は、そこで、一人しか通ることの出来ない細道にぶつかりました。
谷沿いのその道は、せり出した岩壁よって狭められ、辛うじて一人通る事が出来る程度の道幅しかありません。
ここで敵に襲われたらと言う悪い予感が無かったわけではありませんが、ここまでやって来ますと、この道を通るより仕方がなさそうです。
念の為、信光始め、護衛の兵士達皆で、回りを検め(あらためる)ましたが、人の気配らしいものは感じられませんでした。
先行させた物見の兵士が付けていった合図も、この辺りが安全であることを裏付けていました。
いずれにしても僅か六間(十メートル)ほどの距離です。
一気に通り抜けることにして、両脇を固めてくれていた二人の護衛を、前後に配し直し、縦一列に並んでその道を通りはじめました。
私達は少しでも早く通り抜けようと、道を急ぎました。
そのときでした。
パーン、パーンと言う二発のはじけるような音がしたと思ったら、夫、信光が腹を抱え込みながら崩れ落ちるように倒れてしまいました。
「あなた」叫びながら、慌てて駆け寄った私に対し、
「やら、ら、れ、た。に、に、にーげ、ろ」と信光。でも既に息も絶え絶えで、それだけ言うのがやっとでした。
倒れ込んだままで、一人で起き上がれそうもありません。
それと時を合わせるかのように、前後から上がる鬨の声(ときのこえ)。
どこに隠れていたのか、沢山の兵士達が涌き出るように現れ、道の両端を塞いでしまいました。
駆け寄ってきた護衛の一人が、泣きながら信光様に縋り(すがり)ついている私を、押しのけ、信光さまを背負って、引き返そうとしました。
しかし、そこも兵士たちが道を塞いでいて、もはや逃げ場がありません。
護衛の兵士たちは全員引き返して、道を切り開こうとしましたが、何せ一人しか通れない道です。出口近くに来れば、
そこで待ち構えている大勢の敵兵の槍衾(やりぶすま)にあって、多勢に無勢、次々と全員、谷底へと突き落とされてしまいました。
こうして、残されたのは、私と傷ついて動けない夫、信光だけとなってしまいました。
「あなたー、あなたー起きて、こんなところで死んじゃ駄目。起きて、ねー、目を開けてよ」私は信光の身体にしがみついて
泣きながら、懸命に身体を揺さぶりました。
しかし、信光の身体はもはや、ピクリとも動きませんでした。
私達を襲ってきた兵士たちは、信光の身体にしがみついて泣き喚いている私を、情け容赦なくひきはがすと、足を踏ん張って動こうとしない私を、数人がかりで抑え込み、縛り上げ、まるで戦利品でも、あるかのように、担ぎあげ、城の方へと歩みはじめました。
後ろの方からは、夫・信光が打ち取られた事を示す、勝ち誇った鬨の声(ときのこえ)が聞こえてまいります。
しかし私には、どう仕様もありませんでした。
私は、何もする事ができない己れの無力さを呪い、唇をかみしめ、悔しさと悲しみの混じった涙を流しながら、兵士達の肩の上で揺られておりました。

その13に続く