No.208 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その10

油滴天目の油滴に刻まれた涙痕 (戦国の世を駆け抜けた女) その10

このお話はフィクションです

その10の1

斎木頼貞の居城、朱鷺城(ときじょう)のある仙雲山から約一里ほど川下、上保川沿いにある、洒落た小料理屋の一室では、斎木頼貞の息子頼正とその取り巻きの武将連中六人が集まって、いつものように、酒を酌み交わしながら、不平不満をぶっつけ、慰めあっておりました。
この店、頼正が愛人・小夜に、密かにやらせている店で、街道からやや外れた所にある一軒家です。
従って、こうした秘密の会合をするには最も適した場所です。
彼らには、大殿や、自分たちの親世代の連中の旗色を鮮明にしないまま、どちら付かずで、様子見に徹している、御身安全第一主義的な態度が、我慢できませんでした。
「今は、能力ある者なら、誰もが、出世出来る時代だろ。
うまい具合に好機を掴み、波に乗る事が出来さえすれば、俺たちが、国を持つことだって夢ではない時代だぜ。
それなのに、大殿をはじめとする老人たちときたら、相も変わらず、その狭い領地にしがみつき、それを守る事だけに汲々としていやーがる。
こんな情けない話、ないと思わんか。
その為、俺たちもまた、鳴かず飛ばずのまんま、この一生を終わってしまうことになるんだろうなー」と頼正の取り巻きの一人が嘆きます。
「そういうことになるんだろうなー。
なにしろ大殿には、これ以上に、国を大きくされようとする気概も、お気持ちもお持ちでないんだから。
こんな主人を持ったのが俺たちの因果。
こう言った殿様の下についた家来は、ほんに哀れだよなー」と他の取り巻きが応じます。
「そうだよなー、美濃の斎藤殿からの要請に応じて出兵した、先日の戦だってそう。
おっかなびっくり、求められた最低の兵での参加と、お付き合い程度の金品の提供に応じられただけだった。
だがその為、折角、戦に参加し、血を流し、お金も使ったというのに、俺たちは、雑兵扱い。
戦に勝ったというのに、手柄は全て、斎藤方の侍大将と、そいつの家来どもに、もって行かれてしまった。
一方、俺たち斎木方ときたら、誰にも、何の音沙汰もなかった。
お互い、こんなバカな話はないと思わんか。
俺なんか、悔しくて、眠れんくらいだったわ。
考えてみたら、それも、これも皆、大殿が小心なせいなんだぜ。
これって、なんとかならんもんやろか」と別の取り巻き。
「そうだよなー。どうせ戦に参加して、命の危険に曝される事になるんやったら、大手柄を立て、自分の国を持てるようになりたいもんだよなー。
どこかの大名のお供をして、京に上る夢だって持ちたいし、京に上がって、素晴らしい衣装を身に付けたり、美味いものを食べたり、良い女を抱いたりしたいとも思うよなー。
もし、うまいこといって、それが実現したらと思うと、考えただけで、ぞくぞくするわ。
お前らもそう思わんか?
俺なんか、人生なんて、所詮五十年。
一生の間に、そんな良い思いを、一回だってする事が出来たら、後はもうどうなってもいいと思っとるくらいだぜ」と最初に言い出した男が応じます。
頼正を中心とするその取り巻き連中が集まった時は、何時もこの調子でした。
酒を酌み交わし、大殿やその側近連中のやり方をこき下ろしたり、罵倒したり、悔しがったりして、くだを巻いて、憂さを晴らしているのが常でした。

その10の2

そうこうしているうちに、頼正とその取り巻き達も、もう不惑を迎えようとする年になってしまいました。
註:(不惑・・四十歳)
それにもかかわらず、彼等の国の政(まつりごと)は、いまだに、家を守る事だけに汲々としていて、一向にそれ以上の野心を持とうとしない大殿と、大殿の顔色を窺ってばかりいる、保守的な親世代の重臣たちによって、牛耳られたままです。
彼等の意見が、取り入れられる余地など、全くありません。
そんな現状に、彼等の不満と焦燥感は、もはや頂点に達しようとしておりました。
この日も、いつものように、頼正を始めとする六人が、例の小料理屋に集まり、大殿や、保守的な親世代の連中に対する不平不満をぶちまけ、愚痴をこぼしたり、こき下ろしたりしながら、くだを巻いておりました
その時でした。頼正の側近武将の一人、芳武が、突然改まって、
「こんな風に、ぶつぶつ言いながら過ごしている間に、俺たちももう、不惑の声が聞こえる齢(よわい)になってしまった。
俺たちの間だけで、このように、幾らぶつぶつ言ってたって、どうなるものでもないと思わんか。
俺たちが、このまま、大人しく待っとったとしても、大殿や、取り巻きの老いぼれどもが、俺たちの意見を、政に取り入れてくれる日が来るとは、とても思えん。
まして大殿が、自ら引退なさって、若様に政を任して下さる日がやってくるなどというのは、ありえん話だと思わんか。
このままだったら俺たちは、おそらく、一生冷飯食いのまんまで、終わってしまう事になるんやろなー。
もうそろそろ、こんな風に、陰でぶつくさ言っとるのは。止めにしようと思わんか。
俺たちの意見を、政に反映されるには、どうやったらよいかを考え、それを、実行に移す時が、来ているんやないやろか」と切り出しました。
芳武は頼貞の重臣の息子で、子供時代からの頼正の取り巻きの一人です。
成長してからも頼正の側近の一人として、父親から預かった手勢(てぜい;手下の兵士または軍勢)を従え、常に頼正と、戦場での行動も、共にしてきました。
「そう、そう。前々から俺も、その事が気になって、仕方がなかったんやけど、皆はどう思っとる?」
「大殿に、若様を跡継ぎとするお気持ちが、おありだと思う?
それについて、肝心の若様自身がどう思っていらっしゃるのか、今日は、まずそれからお伺いしたいんやけど」と もう一人の取り巻きの武将、掬佐が言葉を繋ぎます。
掬佐は斎木領の有力郷士(ごうし:戦国時代には、農業を営みながらも、手勢を養い、その地方を、自分の勢力下においていた半農の武士)の息子で、早くに親を亡くした関係で、かなりの数の、自分直属の手勢を有しております。
彼もまた、子供の時から、頼正と共に学び、共に遊んでおり、頼正が、最も頼りにしている側近の一人です。
「俺。俺は、親父にそんな気持ちは、全くないと思っとる。
だから、ずっと前から、そんな事は起こり得ん話だと思って、諦めとる。
お前たちも知っての通り、俺の母親は、親父に嫌われていただろ。
その為か、或いは俺がこういった性格だったからか、はっきりは解らんけど、俺も、子供の時から、親父に好かれとらなんだ。
いな、むしろ憎まれていた、と言った方が、良いくらいだったと思っとる。
なにしろ、この年になるまで、親父から愛情らしい物を受け取った覚えがないんやから。
今の親父の頭の中には、妾の子・美貴の姿しか入っとらんのやないやろか。
だから親父のやつ、跡目には、美貴の婿・信光を考えとるとしか思えん」と頼正。
表情には悔しさと憎悪心が剝き出し(むきだし)となっています
「そうかもしれませんねー。
傍から見ていましても、大殿と、若様との間には、何とも言えない冷たい空気が流れているのが、感じられますものねー。
だけど皆、信光の奴め、あいつもあいつだと思わんか?。
あいつめ、どういう、まやかしを使っとるのか解らんけど、大殿だとか、年寄り連中の受けが、ばかに良いんだよなー。
うちの親父なんかも、息子の俺を差し置いて、何かと言うと、信光殿、信光殿なんやからなー。
でもさー、この国には、頼正殿という、れっきとしたご嫡男がいらっしゃるんだぜ。
少しは遠慮して、普段から頼正殿を、もっと立てるようにしてもらわんとだちかんわなー(だちかん・・・中部地方の方言:埒が明かない。駄目だ行けないの意)。
どう、皆もそう思うだろ。
所が、あいつときたら、大殿の信頼が厚いのを良い事に、何かに付けてしゃしゃり出てきやーがって、自分が仕切ろうとしやーがるんだから。
そもそも、それが俺には、許せんのやわ。
『俺達は、お前の家来じゃないぞ』と言ってやりたい気持ちやわ」と芳武。
「それで結論として若様は、どうなさるお心算ですか。
このまま、大殿の決断が下るまで、手をこまねいて、みていらっしゃるお心算ですか。
そうなりますと、今、大殿が支配していらっしゃるこの領地も、領民も、みんな、みんな、信光ごときに盗られ、若様はあいつの家来という事になりますが、それでもよろしいんですか」と地元有力郷士(ごうし)の息子、祐常が詰め寄ります。
彼も頼正の取り巻き武将の一人で、最近では、戦になりますと、めっきり老けこんだ父親の代わりに、父親の手勢を率いて頼正に従うようになっています
「俺、信光を主(あるじ)に頂く事は、どうにも我慢できんのやわ。
あんな臆病者の、金堀り野郎の下に、つかなきゃーならんかと思うと、考えただけで、ぞっとするわ。
第一、俺達武将が出世する、絶好の機会が来ているというのに、それが、こんな田舎で、こうやって燻って(くすぶる)いなければならんのは、一に、あの臆病者の、金堀り野郎のせいなんだぜ。
あんな世の中の趨勢が、全く分かっとらんような野郎に、このままこの国を任せておいて、いいんやろか?。
俺、このままやったら、この国にも、俺たちにも、未来がないと思うんやけど、皆は、どう思う。
若様、どうかお願いですから、諦めたなんて、寂しい事、言わんで下さい。
ここは、思い切って踏ん張って、何が何でも領主になって下さいよ。
そうして頂かんことには、俺たちの立つ瀬がありませんからね」と祐常が続けます
「諦めていると俺が言ったのは、領主になる事を諦めるといった訳ではないんやから、皆も、勘違いせんでくれ。
諦めるといったのは、親父から、領主の座を禅譲されるのを待っているのは諦めると言ったんだから」と頼正。
「それじゃ若様は、いつかは領主になるべく、行動をお起こしになる、お心算なんですね」
「無論そうだよ。
決まっているじゃないか」
「よかった。
これで、一安心」と祐常。
「そう、そう、そうこなくちゃ。
一時は、どうなる事かと、皆、肝を冷やしたんですよ。
何しろ、ここで若様がおこけになったら、ここにいる者は皆、生涯、日のあたる場所を、歩けん事になりかねませんから。
なあ、皆、これで一安心だよな」と掬佐。
黙って頼正と掬佐達とのやり取りを聞いていた、他のとりまき3人も、いかにも安心したように頷きます。

その11へ続く