No.199 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その1

註1)天目茶碗:抹茶茶碗の一種、すり鉢型をしている天目山の仏寺から伝来したと言われている。宋代、福建省建窯の茶碗が、最もよく知られている。
註2)油滴天目茶碗:黒い釉の中に、銀色の、油の滴のような丸い斑点が、まるで夜空に光る星のように、一面に現れている、天目茶碗。
  中国宋代、福建省建窯の茶碗

このお話はフィクションであって。歴史上に実際にあった事件、実在していた人物とは全く関係ありません。

その1(序章)

大学に入って一カ月余が過ぎました。
あれほど猛烈に勉強して入った大学であったにもかかわらず、毎日が、なんとなくつまりません。
講義の内容も、まだ教養課程のせいもあってか、高校の授業に毛が生えた程度で目新しさがありません。
その上、もう、受験を控えていないだけに、講義をする先生の方にも、聞いている生徒の方にも、緊張感の欠片(かけら)もありません。
講義中というのに、うっかりすると、居眠りしてしまいそうな、のんびりした時間が、だらだらと流れているといった状態です
その上、高校時代に、親しくしていて、いつも連んで(つるんで)なにかをしていた友人達とは、進んだ大学が違ったために、離れ離れとなってしまっています。
最初のうちこそ頻繁だったメールでのやりとりも、最近ではもう殆ど来なくなって、途絶えがちです。
皆、夫々(それぞれ)、進んだ学校内に新しい友人が出来たんでしょうね。
しかし私の場合、人見知りが強く、新しい学校に、なかなか馴染めませんでした。
心許せる友人もまだ出来ていません。
こんな状態で、何もする気が起こらなかった私は、大学の講義の方も、出たり休んだりで、グダグダと、無為に、毎日を過ごしているような状態でした。
その日も私は、学校には出ては来たものの、やる気のスイッチが入りませんでした。
そこで午後の講義はさぼることにして、図書館の椅子に座ったまま、ただぼんやりと、窓の外を眺めておりました。
窓の外では、爽やかな五月の風が、軽やかに通り過ぎ、風にそよぐ新緑の木々には、明るい太陽の光がさんさんと降り注ぎ、風に揺らめく新緑の葉を、キラキラと輝かせておりました。
その光を眺めるともなく眺めているうちに私は、いつしか、子供時代のあの時、その原因が何であったか、今は忘れてしまいましたが、再々の悪戯に怒った母親によって、罰として、蔵の中に、閉じ込められてしまった、あの日のあの時へと、引き戻されていました。
私はうす暗い蔵の中に、立っておりました。
蔵の中は、あの時と同じように、真昼というのに薄暗く、埃っぽいような、はたまたカビ臭いような、古い物たちからでてくる特有の臭いが、立ち込めておりました。
代々の御先祖様たちが使ってこられた、箪笥だとか長持ち、そして漆器や磁器等の組者が入った木箱などなどが、壁にそって、整然と並べられ、それらの前には、古本だとか、古い書きつけの類が詰められた木箱、使い古した衣類や古いお布団などの詰め込まれた柳行李(やなぎごうり:柳や竹で編んだ箱型の入れ物)、代々、蓄えられてきた、救荒食(きゅうこうしょく:災害などに備えて備蓄・利用される食物)としての梅干しの甕等々が、雑然と、積み上げられ、並べられ、それらの上に埃が、うず高く積っておりました。
蔵の奥深く、そこだけ特別に板で区切られている場所の、台座の上には、あの時恐る恐る、しかし期待に胸を膨らませながら開き、その為に後で、母から、更にこっぴどく叱られる原因になってしまった、金蒔絵の唐櫃(からびつ)が、その時と同じように置かれておりました。
唐櫃の中には、古くなって茶渋色に変色した細長い木箱と、同じように古くなって変色している、立方体の木箱とが、昔、覗き見したあの時と同じように、ちんまりと収まっておりました。
「あ、そう言えばこの細長い方の木箱の中には、家系図が、そしてこっちの立方体の木箱の方には、たしか,何処かに長い間、埋められていたかのように、釉(うわぐすり)が少しかせて(ひからびて)、くすんでしまった、黒っぽい陶器の欠片が入っていたんだったわ。
あの時は、『こんな何処かのごみ捨て場から、拾って来たとしか思えないような、みすぼらしい欠片が、どうしてこんなにも大切そうに、しまってあるのだろう』と不思議に思ったものだったなー。」
ところがその後、母から、「あれらはね、我が家の出自(出自:系譜上のを帰属)を示す証ともいうべき、とても大切な物なんだよ。
もし、おまえがあれを、傷つけていようものなら、私の小言を食らうくらいでは済まない所だったんだからね。
親戚中から責められ、お母さんと一緒にこの家から、出ていかなければならない事になったかもしれないんだよ」と強く嗜め(たしなめ)られました
「あの時は、母親の剣幕に押されて、黙ってしまったけど、これって、本当にそんなに大切なものだったのかしら」
「この類の家系図だとか、こういった証拠の品物などというものは、自分の家の家格を誇るために、ご維新後、結構、あちらこちらで、捏造(ねつぞう)されたと言う噂を聞いたことがあるんだけど。
これ、本当に、本物なのかなー?
もしこれが、後の代に造られた贋物だったとしたら、我が家では、そんな大嘘を、何百年間にも渡って、代々、信じてきたことになるんですから、ほんと、笑えちゃうよねー」と独り言を言いながら、眺めておりました。
その時でした。何時、何処から現れたのか、唐櫃(からびつ)の脇には、黒い僧衣を纏った尼僧らしき影が、ひっそりと立っているのに気付きました。
その影は、何も言わないで、私に向かって、手招きをしております。
それに気付いた瞬間、私の身体は、その手招きに釣られるかのように、そちらに引き寄せられ、その影の中へと吸い込まれていきました。

その2へ続く