その37
3日目の取り調べを終わって、真夜中に、牢屋に戻されてきた藤兵衛は、いつも帰ってきた時に座らされる、異臭のする、固い板の間と違って、綺麗な青畳が敷かれている、床の間付きのお座敷の、真ん中に座っている自分に気付きました。
戻された場所の、あまりの変わりように、藤兵衛は、驚いて、何も考えられないままに、ただ茫然と座っておりました。
その時、「お前、この部屋に見覚えはないか?」という女の声が、床の間の方から、聞こえてまいりました。
驚いて辺りを見回しますと、その部屋は、藤兵衛が霧の山中で迷った夜、一晩泊めてもらったことのある、あの奇妙な家の、あのお座敷そのものでした。
床の間に掛けられていた、女人像の描かれた軸こそありませんでしたが、床の間の配置といい、隣の部屋との間仕切りになっている、襖に描かれた模様といい、廊下と隔てる、雪見障子の桟(さん:戸や障子の骨組み)の堀文様といい、全てあの時あの部屋で、見せられたもの、そのものでした。
「この部屋、今、お前が思っている物より、もっと、ずっと前に、お前は見ているはずである。
もう一度、心を空にして、この部屋を見てみるがよい。そしてお前の心の奥深くに眠らせたままになっている、もっと、もっと昔の記憶を呼び起こしてみるがよい。
そこに何が見えるか、お前の心に聞いてみなさい」
その時初めて藤兵衛は分かることができました。あの山中の家で、この部屋に案内された時、いつか、どこかで前に見た事のある光景だと感じた理由が。
勘助は、いつの間にか、盗賊に押し入り、亭主を惨殺した時の、あのお座敷に座っておりました。
血まみれの布団が、丸められ、片隅に押しやられて、布団の敷かれていた辺りには、古い甕(かめ)が転がっておりました。
お座敷の中は、血の匂いで吐き気を催しそうでした。
あの時の福造の悲鳴や、鳴き声、喚き(わめき)声が、突然、耳に響いてきた勘助は、思わず耳を塞ぎました
そうだったのです。山中で見た時、何時の時か、何処かで見た事がある部屋と感じたのは、この部屋、すなわち角福質店に押し入り、あの凶行を行った座敷そのものだったからです。
勘助自身はその凶行の時は、上がってしまっていましたから、その部屋の光景は、通常の記憶には留められていませんでした。
しかし、彼の感覚は、その光景を、きちんと捉え、潜在意識の中にそれを留めておりました。
「私は許さない。
絶対に。
私の大切な、大切なあの人を、あんな惨たらしい(むごい)死に方をさせてしまったお前たちの事を。
お前たちはその報いを受けなければならない。
私は既に、10年前、一番悪い奴、三郎九朗を、処刑台の露と消えさせてやった。
お役者銀次なんか、私が手を下す迄もないほどあっけなく、あの世へと逝ってしまいおったわ。
あやつめ、旅回りの一座に入って、巡業していた時、座長の娘である、劇団の看板女優に手を出しおって、一座の男達皆の恨みを買い、きゃつら(彼奴等:あいつら)に、袋叩きにされたあげく、谷底へと、突き落とされてしまいおったわ。
あやつめ、誰も弔ってくれる者もなく、山の獣や鳥たちに食い荒らされ、白骨となった無様な姿を、今なお、山中に曝していることであろう。
それが、あやつの受けた報いよ
もう、3人のうち、残っているのは、お前だけである。
しかし、いくら悪運の強いお前といえども、今回ばかりは、逃げ果せる(おおせる)事は出来まい。
お前がどんなに否認していても、天網恢恢(てんもうかいかい:悪人・悪事は決して取り逃がさないという意味)、私が、絶対にそれを、暴いてやるから」という声が聞こえてまいりました。
と同時に、床の間の辺りが、ぼんやりした光の珠に包まれ、その光の珠の真ん中辺りから、老女を従え、中国服を纏った(まとった)、美しい容姿の女が現れ、睨みつけました。
「お前は、自分のエゴから(エゴイズムの略・・・自己主義、利己主義)私が倭国に来て心を通わし、安らぐ事の出来た、ただ一人の男性、すなわち質屋角福の店主福造殿のお命を奪ってしまいおった。
遣唐使の一員であった、橘逸勢(タチバナ・イッセイ)に伴われ、この倭国へ連れて来られて千年余、私が本当に、心を許し、心通わせる事の出来たお方は、柴田勝家殿のお内儀であった、お市の方様と、お前達によって惨殺された質屋角福の店主、福造殿のお二人だけであった。
その大切なお方の命を、あんなにも惨い方法でお前たちは、奪ってしまった。
そんなお前を、どうして、許す事が出来よう。
お前の首が、小塚原の刑場で、曝されているのを見届けるまで、私はいつまでもいつまでも、お前に纏わりつき、祟り続けるつもりであるからそのように心得るがよい」
睨みつけながら言い放った女の顔は、あの郡上の山中にあった、奇妙な家の床の間に掛けられていた、あの軸に描かれていた、あの女人像の顔そのものでした。
表情こそ、怒りと、憎しみに満ち満ちて、変わっておりますが、あの時、一晩中、夢か現(うつつ)か分からないような世界で、彼の劣情を刺激して、眠らせてくれなかった、あのコケティッシュな女に違いありません。
又、その女に付き添っている老女もまた、あの晩、あの家で、彼の世話をしてくれたあの目の悪かった老女であり、それは又、あの女人が描かれている、軸の下端に、後ろ向きになってしゃがんだ姿で描かれている、あの老女その人である事に気付かされました。
なにしろその老女は、郡上の山中の家で見た時も、光の中に現れた、あの軸に描かれている女の後に、ひっそりと控えている今も、あの軸の画の中に描かれている老女と同じような、今の日本では見られない、特徴的服装を身に着けていましたから。
藤兵衛は、全てを悟りました。
あの軸に描かれていたこの女の、綿密に練られた計画に従って、自分が、徐々に奉行所の、この取り調べの場へと、引き寄せられてきたのだという事を。
それだけに藤兵衛は、女の怒りの強さと、恨みの深さを思い知らされ、もはやこの女から逃れられないと、観念せざるをえませんでした。
藤兵衛は、大きくため息をつくと、なおも睨みつけ続ける、女から目をそらそうとするかのように、目を伏せました。
気付いた時には、あの女の姿はもうどこにもありませんでした。
藤兵衛は、取り調べが終わった後、いつも戻される、暗い牢屋の、固くて冷たい床の上に座らされている自分に気付きました。
註:橘逸勢・・フィクションの中の人物で、実在の人物とは関係ありません
その38
拷問、訊問(じんもん)と交互に挟みながら、深夜にまで及ぶ、延々とうち続いた、三日間の長い取り調べは、藤兵衛の体力を、既に、限界近くまで奪ってしまっていました。
体力の衰えは、気力にも影響し、それまでなんとか持ちこたえていた気力の方も、もはや限界に達しておりました。
そこへ見せられた、執念ともいえるような、あの軸に描かれていた女の、恨みと憎しみの念は、藤兵衛から、取り調べに抵抗する気力をすっかり、奪ってしまいました。
四日目に取調室に引き立てられてきた藤兵衛は、もう前の藤兵衛ではありませんでした。人が変わったように素直に、罪を認め、訊かれる(きかれる)ままに、その犯行の全てを、詳らかに(つまびらかに)していきました。
しかし、取り調べに当たった、与力達には、藤兵衛が語った、あの西施像を手に入れた不思議な経緯(いきさつ)だとか、牢獄に現れた、西施像に教えられたという、お役者銀次の行末についての供述だけは、どうしても納得できませんでした。
幽霊だとか、祟り、狐に化かされるなどと言った不思議が、まだまだ、信じられていた時代ではありましたが、それでも当時の人にとっては、それは半信半疑で、そんな事が現実に起こるとは、俄かには信じられなかったからです。
しかし、どうしたって極刑は免れる事が出来ない藤兵衛が、今更、嘘(うそ)をつくとは思えません。
藤兵衛の取り調べに当たっていた与力や、同心たちは、この時点で、ほとほと困惑していました。
なにしろ、例え、これ以上どんなに藤兵衛を責めたとしても、これまでに、述べた以上の供述が得られるとは、到底、思えなかったからです。
しかし、そうだからと言って、その供述を、そのまま記録に残す事は、躊躇わざる(ためらわざる)をえなかったからです。
その39
結局、取り調べは、それで終りとなり、藤兵衛は、軸に描かれていた女、西施の願いどおりに、小塚原の刑場で、うち首の上、獄門となりました。
訪れる者も、弔ってくれる者もないままに、長い間、その刑場の木の台の上に曝されて、腐り、崩れ落ち、白骨となっていく姿は、因果応報とはいえ、いかにも哀れでした。
こうして裁判は終わりましたが、後には、西施の姿が描かれている軸の帰属を何処にするかという問題が、残されました。
本来なら,例えこれが、ご下賜(ごかし)品であったとしても、盗難で無くしたものが見つかったわけですから、元の持ち主である、本間の家に戻されるのが当たり前の筈です。
しかし、本間の家は、改易(かいえき:大名家が罪を犯して、領地などを没収されること)によって、その子孫の行方もはっきりしなくなってしまっていました。
それに、仮に子孫が見つかったとしても、大御所からのご下賜品を、幕府と関係のなくなった一般人に渡す事には躊躇い(ためらい)がありました。
そうなりますとこの軸は、通常なら、幕府の所蔵品として、幕府の書庫に納められるべきものです。
事実、老中たちの中には、正論として、それを主張する者達も少なからずいました。
所が、これまでに、この軸を所有した者に齎された(もたらす)、数々の悲運の言い伝えだけでも、この軸を幕府が所有する事を忌避すべき、十分な理由でした。
所がその上、今回この事件の取り調べを通して、この軸に描かれている西施像に憑依(ひょうい:霊などが乗り移ること)している霊の強さと、その怨念の恐ろしさが明らかになりました。
従って縁起を担ぐ老中達の多くは、この軸を、幕府の書庫に収めることに強く反対しました。
この為、幕閣内の議論は紛糾し、その処遇をどうするか、なかなか決めることができませんでした。
その40
幕府に遺されていた、大御所様御下賜品記録によりますと、そもそも、この作品は、大同元年〈804年〉帰国した遣唐使の一人、橘逸勢が持ち帰ったものとされております。
会話が苦手だった逸勢は、渡唐後、書道と、琴の学習に励みましたが、同時に中国絵画の鑑賞と蒐集(しゅうしゅう)にも力をいれました。その際、有名な曾不興の筆になる名画であるにもかかわらず、割安で手に入ったので、購入してきたのがこの軸でした。
しかし、この軸には、その時既に、西施の魂が宿り、西施の生存中の悲運を引きずっていて、その悲運は持ち主にもおよび、それを持った者には、不幸が訪れるという恐ろしい言い伝えが存在していました。
橘逸勢という人は、浮世離れをした、のんびりした性格の人で、物によって不運が付き纏うとか、物に祟られるなどといった事には全く気にしない人でした。
だから、そのような言い伝えがあったにもかかわらず、購入してきたわけです。
ところが、恐ろしい事に、逸勢が帰国してから3年後に、朝廷に対する謀叛(むほん:為政者に背くこと)に加担した疑いありという事で、捕らえられ、流罪となってしまいました。
しかも彼は、流罪の為、伊豆へ護送される途中で病死してしまったのです。
逸勢という人は、元来、権勢には無欲の人で、政治の世界にあまり関与していなかったにもかかわらず、謀叛人に仕立て上げられてしまいました。
真偽は不明ですが、一説によりますと、この軸に描かれた西施像に惚れ込み、この軸を横取りしようと企んだ、同僚の朝臣に陥れられた為であったとも言われております。
その後もこの軸は居所が定まらず、公家衆の家だとか、武家の間などを転々としますが
この軸に描かれた、西施像に惚れ、その画に捉われた人間の多くに、悲運が付き纏ったとの言い伝えが残されております。
この軸は、その後、応仁・文明の乱〈867~877)の際、朝廷付きの絵師であった有須賀美邨(ありすがみそん)に伴われ、戦火によって灰燼に帰した京都を逃れ、越前の守護、7代目当主、朝倉孝景(たかかげ)を頼って、一乗谷に落ち延びました。
しかし後にこの軸は、頼った先、朝倉孝景に目をつけられ、強引に召し上げられ、朝倉家の所有に帰する事になってしまいました。
その朝倉家もやがて、天道元年〈1573年〉11代当主義景(よしかげ)代になりますと、織田、徳川連合軍に敗れ、一乗谷にあった朝倉氏の城下町は城諸共(もろとも)、灰燼(はいじん)に帰し、朝倉の一族は自刃、朝倉家はここに、滅亡の時を迎えてしまいました。
続く