No.190 廻る糸車、西施像奇譚 その11

このお話はフィクションです

その32

呉の曾不興の手になるこの西施像の軸は、この質屋角福の店主、福造の持ち物ではありません。
それは旗本、本多正輝家の家宝ともいうべき、本多家の大切な所蔵品でした。
しかしその時代、侍の給与ともいうべき、禄高は、下がる一方なのに、物の価格は上がるばかりでした。
だから本多家に限らず、どこの藩のどの家臣の家でも、侍の家の家計は苦しく、あちらこちらに借金を作って、破産寸前の所も少なくないありさまでした。
まして、本多正輝の家のように、下級旗本の場合、旗本とはいっても、それは名ばかりで、実際の収入は非常に少なく、家計は何時も火の車でした。
しかし旗本である以上、本来の家格に見合った体面を保つ為のお金も入用なら、旗本として、幕府に万一の事があった場合の出陣に備えての貯えも必要です。
しかし本多家の現状は、毎日の生活費だけで、ぎりぎりで、そんな余裕なんてありません。
その為、不意の出費が出来た時は、町人達と同じように、質屋へ走らざるをえません。
今から少し前の話になりますが、本多家に、急にかなりの大金が必要となった事がありました。
しかし、質屋でお金を借りると言っても、貧乏旗本の事、それに見合うような質草なんか、曾不興の西施像くらいしか思いつきませんでした。
そこでやむなく、それは本多家にとっては大切な大切な物で、もしその画に何かあったら、大変な事になる事は分かっていました。
それでもやむなく、西施像の軸を角福質店に預けて、お金を借りた事がありました。
所がこの画の魅力に取り憑かれてしまった店主の福造が、期限が過ぎても、なかなか、お金を返しに来られない本多家の懐事情に付け込むような形で、逆に福造の方から、お金を出して、預からせてもらっていたものでした。
すなわち、借入の期限が大分すぎてから、やっとお金を作って、返しに来られた、本多正輝の御内儀(おないぎ:他人の妻)に、「月々2両の借り賃を支払うという条件で、しばらくの間、私の所に、預からせてもらえないでしょうか」とお願いして、福造の家が、逆に借り賃を払って、借りていたものでした。
本田家では、質屋さんの蔵に預かってもらっているのだから、自分の家に置いておくより、ずっと安全だと安心しきっておりました。
所がその質屋に押し込み強盗が入って、本多正輝の命より大事(だいじ・・かけがえのないもの)といってよいほど大切な、東照宮大御所様からの拝領の品、西施像の軸が、盗られてしまったのですから大事(おおごと)でした。
結局、本多正輝は切腹こそ逃れられたものの、その責任をとらされて、家は改易(かいえき)となってしまいました。
(註:改易・・所領や家禄、屋敷を没収する事。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い刑
しかしこの事件は、本多正輝に責任を取らせて終わるような単純なものではありませんでした。
何しろ、東照宮の大御所から拝領した品であっただけに、それが盗られたという事は幕閣を揺るがす大事(おおごと)でした。
責めは彼だけに留まらず、彼の上役達にも監督不行き届きの咎(とが)でその累(るい・・かかりあい、わざわい)が及ぶという、一大事となった事件でした。
その上、この事件は、江戸における、犯罪史上まれにみる残虐な事件でしたから、江戸の治安を預かる奉行所としては、このような事件の再発防止の為にも、奉行所の威信を保つためにも、早急な、この事件の犯人逮捕と、盗難品の発見に努める必要がありました。

その33

しかし悲しい事に、奉行所の必死の探索にもかかわらず。三郎九朗の行方は杳として(ようとして:事情がはっきりしないまま)分かりませんでした。
三郎九朗以外の犯人についても、殆ど何の手掛かりも得ることが出来ませんでした。
何しろ奉行所の手配には時間がかかりすぎました。手配書が出来るのも遅ければ、それが配られるのにも時間がかかりました。
したがって、江戸からの出口にあたる関所に、手配書が届いた頃には、三郎九朗は、もうとっくの昔、その関所を通り越して、江戸奉行所の管轄が及ばない所まで逃走してしまっていました。
三郎九朗とつるんで悪事を働いた男達についても、目明し達の努力にもかかわらず、何の手掛かりも得られませんでした。
賭場への聞き込みも、試みましたが、なにしろ賭場そのものが、奉行所に内密に開かれているものでしたから、目明し達をなかなか近づかせてくれませんでした。
上手く賭場に入る事が出来たとしても、そういった所に出入りしている輩らは、目明しだとか、同心、与力などと言った奉行所に関係のある人間に対しては、良い感情を持っていない者が殆どで、何を聞いても、「知らない」と首を振るだけで、何も話してくれませんでした。

その34

こうして、西施像の行方は、20年余の間、杳(よう)として行方がわかりませんでした。
奉行所は、この間、あの忌まわしい質屋角福への押し込み強盗事件の犯人の一人、三郎九朗こそ捕まえることができましたが、盗まれた西施像の軸と、残りの犯人二人の行方については、分からずじまいのままとなっておりました。
今回、ひょんなことからその行方不明だった西施像の軸が、突然郡上の山奥から出てきたわけですから、奉行所としては、欣喜雀躍(きんきじゃくやく:小躍りするほど大喜びすること)、この画を手掛かりに、何としても、未解決のままとなっている質屋角福押し込み強盗犯の残り二人の逮捕に結びつけ、この事件の全容解明を図り、奉行所としての面目を保ちたいと考えました。
この事件の主犯格三郎九朗が捕まったのは、強盗事件から10年位経った後の事でした。
三郎九朗は、自分の手配書が、このように大々的に、市中に出回っている事も、この事件がそれほど大事件として、奉行所が犯人逮捕に躍起になっている事も知りませんでした。
だから、あの時のお金を使い切ってしまった彼は、「もういい加減あの事件の、熱(ほとぼり:事件後の世間の関心)もさめている頃だろう」と思って、江戸に舞い戻ってきました。
ところがこの男、あれほど綿密に計画を立てて、押し込み強盗をした人間とは思えないほど、実にばかばかしい事で、捕まり、極刑に処されてしまいました。
捕まったきっかけは、仲間達とのお金を巡るいざこざで、軽い傷害事件を起こしたことによるものでした。
喧嘩相手達によって、自身番に引っ張って来られた時、そこにいた目明しの一人に、
彼が、10年ほど前の、質屋角福への押し込み強盗犯として、手配中の男である事に気付かれてしまいました。
奉行所としては、その時、これであの強盗事件の犯人、全員の逮捕と、あの大御所様からの拝領の品、西施像の行方が判明すると思いました。
ところが、どんなに三郎九朗を責めても、気絶するほどの拷問にかけても、西施像の行方は分かりませんでした。
強盗仲間についても、当時、どこかの武家屋敷の仲間小屋にたむろしていた勘助という24,5歳の男と、女達の所を渡り歩いていた、お役者銀次という40歳台半ばの男であったという事くらいしか分かりませんでした。
三郎九朗をどれだけ責めても、それ以上の進展はなく、結局、三郎九朗を打ち首・獄門にする事だけで、その時の取り調べは打ち切らざるをえませんでした。
奉行所としては、その程度の手掛かりでは、それ以上、探索のしようもなく、それからまた10年余の歳月が流れてしまいました。
しかしその時、三郎九朗が白状した、もう一人の共犯者は、当時何処かの武家屋敷の仲間小屋にいた勘助という男であったという証言が、今回、藤兵衛こと、勘助を、逮捕にまでこぎつける為の、重大な決め手となりました。

その35

奉行所に引っ張られた藤兵衛は、そこまで調べが付いている事なんか知る由もありませんから、旧悪については、あくまで口を噤み(つぐむ)白を切り(しらをきる)通す心算でした。
しかし奉行所の役人の追及は甘くありませんでした。
奉行所での取り調べを受ける事になった経緯を知らない藤兵衛は、最初は、「どうして私が、こんなお調べを受けなければならないのですか。
私は霧峰藩の台所を助けてこそおりますが、このような所で取り調べを受けなければならないような悪い事は何もしておりません。
お殿様や、藩の重臣のお方がたは、この事、御存じなのでしょうか。
第一、江戸の住人でもない私が、何ゆえ,江戸の奉行所の取り調べを受けなければならないのでございますか」と一生懸命訴えました。
しかし、取り調べに当たった役人は一向に取り上げてくれませんでした。
彼は藤兵衛の訴えなんか無視するかのように、次々訊問をしてきました。
「そなた、江戸に在住していたことがあるか」
「はい、確かにございます。たしか私が20歳代前半の事でございますが、江戸におりました。」
「その時どこに住んでいたか」
「最初江戸に出てきました時は、樽屋町の、備後屋さんという酒屋さんにお勤めしておりました」
「当取り調べ場で、嘘をつくなどという事は、もってのほかである。
その方が勤めていたという備後屋などという酒屋は,樽屋町には、存在していた事がない事は、当奉行所では、とうに調べが、付いておる事であるぞ。
本当は何処にいたのか」
「恐れ入ります。確かに記憶違いでございました。
私、江戸に出てきました、仕事を探しましたが、仕事にありつく事も出来ず、寝る所もありませんでした。
その時、賭場であった男に誘われて、霧峰藩・上村伊織様の御屋敷の、仲間小屋の片隅に、寝泊まりさせてもらっておりました」
「その男の名は」
「さあ安さんと呼んではおりましたが、それ以上の事は」
「そこに住んで何をしていたか」
「折々出る、あちらこちらの武家屋敷での、日雇い仕事をして過ごしておりました」
「仕事のない時は、何をしていたか」
「別にする事もありませんから、小屋の中で、ごろごろしておりました」
「それだけではあるまい。
他には何をしていたか」
「・・・・・」
「当方の取り調べによると、時々賭場に出入りしていたというが」
「確かに賭場に行った事はあります。しかしほんの手慰み程度で、それほど度々覗いた訳ではありません」
「その賭場に、そなたと親しくしていた者はいなかったか」
「私のような、ぽっと出の田舎者を知っている人なんかいるはずもございません」
「さようか、当奉行所の調べでは、特に親しくしていた人間が、二人ほどおったようじゃが?」
「そいつらと組んで、時々、ひったくりだとか、盗人、強請り(ゆすり)、集り(たかり)をやった事は無かったか。当奉行所の調べでは、そのようになっているが」
「それは間違いでございます。決してそのような事はございません」
「そうはいうが、そなた三郎九朗なる者を、知っているであろう」
「いいえ、そのような男、全く存じません」
「それでは、お役者銀次という男については、どうか。特に親しくしていたとなっているが」
「いいえ、その男も全く知りません。何処から御調べになってきたか、分かりませんが、そんな男達は、私、全く存じません。何かの間違いでございます」。
「そうかな、実はな、10年ほど前に掴(つか)まった、三郎九朗なる男が、全部白状しているのだぞ。
それでも、そなたは、知らぬと言えるのか」
「さようでございます。本当に聞いた事のない名前ばかりでございます」
「それでは聞くが、そなた、女房と別れて、他のお店を作った時、考えられないような大金を、その店につぎ込んだそうだが、そのお金は何処から出たのか」
「無論、前の女房と一緒にお店をやっていた時、誤魔化して、貯めておいたお店の売り上げ金の一部でございます」
「そうではあるまい。お前の前の女房の話では、お店の売り上げから誤魔化したお金では、そんな額にはなりようもない大金のようだったとのことであるが」
「それは、前の女房が知らなかっただけでございます。それ以外にどこからそんなお金
が出てきたというのでございますか。
そんな金、何処にもあるはずがないではございませんか」
「そうかの―。しかし当奉行所の調べでは、そなた、皆の者には、江戸で稼いできたお金だと、言っていたとなっているが」
「そちらの方こそ、間違いでございます。もしそんな事を言っていたとしましても、それは、前の女房に内緒で、お店のお金をくすねていたお金だなんて、言い辛かったから
に過ぎません。決して怪しいお金ではございません」
「先ほど申した、三郎九朗の申し分によると、勘助、銀次と称する者達と、押し込み強盗を働いた際、一人当たり300両余(今のお金に換算すると、6000万円~9000万円に相当するお金)の分け前があったとなっているが、江戸から持ってきたお金というのはその金ではないのか、」
「とんでもございません。私、先ほども申しましたように、三郎九朗などという男とは全く面識がありません。
もしそいつが、私の名を言ったのでしたら、それは、同じ名前を持った、私以外の人間の名前か、何処かで知った、私の名前を、でたらめに上げたのに違いありません。
私、押し込み強盗などという、恐ろしい事をした覚えがありませんし、ましてそんな大金、全く覚えがありません」
「それではそなたが、遠野親義に譲ったと言うあの絵について聞くが、一体、あの絵は何処で手に入れたものか」
「それは、もう遠野様からお聞きになって、御存じかと思いますが、私が郡上霧峰藩内の山中のお屋敷から、買ってきた物でございます」
「嘘を申すな。当奉行所で調べさせた所では、そなたが遠野殿に言った山中には、そんなお屋敷も家も、何処にもなかったと言うぞ」
「それは私も不思議でならないのでございます。後、誰に聞いても、そんな所に家があるとは聞いた事がないと申しますし、私も後でもう一度、確かめてみようと思って、その家を、探して見たのでございますが、やはり、何処にもそんな家は、見つかりませんでした。
もう、あれは、お狐様に騙されたとしか思えません」
「そなたは、あの絵の価値を知っているか」
「いいえ、全く存じません。あの小汚いような古い画に、そんな価値があったのでございますか」
「あの画は、徳川様譜代の家臣、本多正輝殿のご先祖、幸輝殿が軍功により、今は東照宮に祀られている、あの大御所様から授けられたという、大変貴重な品で、本来は、本多様の家にあるべき物であった。
所が故あって、一時的に、質屋角福に預けられていた所、たまたま入った、押し込み強盗、三郎九朗の一味によって、持ち去られてしまった事は、取り調べによって明らかになっている。
故に、幕府としては、大変貴重な品として、長い間、探していた物である。
その画が、そなたの家に在ったというのは、どう考えても、そなたが、あの押し込み強盗に関与していたからであるとしか思えない。
それでもまだ、白を切る心算か。
いい加減本当の事を言ったらどうか。
お前は、お狐様から買ってきたと言うが、今時、そんな出鱈目(でたらめ)が通ると思っているのか。
そもそも、お狐様が、あんな絵を、何処から、どのようにして、手に入れる事が出来たというのだ。
どのようにして、江戸から、郡上くんだりの、山の中まで運んだというのだ」
「私めが、お狐様の所から、買ってきたといっても、誰も信じてくれないのは、当たり前でございます。
私だって、そんな話を、人様からお聞きましても、与太話として、信じませんでしょうから。
でもそれは、本当なのでございます。
第一、押し込み強盗に入った時に、盗んできたものでしたら、当然、その画の良さにほれ込んで、盗ってきたのでしょうから、そんな愛着のある画を、どうして今頃になって遠野様に、二束三文で、おゆずりするなんて事をする必要がありましょう。
私めが、お狐様に騙されて、買わされた画だからこそ、ただ同然の価格で売る事にしたのでございます。
狐ごときに、騙され、買ってきた画だと思うと、目にするだけで、業腹(ごうはら:腹が立つこと)でしたから」
「お前、そんな事を申すが、お狐様のお屋敷から、その画を奪うようにして持ってきたと遠野殿には言っていたそうだが、という事は、その時には、その画の価値が分かっていたという事ではないか」
「いいえ、価値が分かったというより、その画を見て、無性に欲しくなっただけでございます」
「無性に欲しくなった画というのに、どうして、二束三文で、遠野殿に譲ってしまったのだ」
「それが不思議な事に、その時は、無性に欲しかったのでございますが、家に帰ってみましたら、熱が冷めたように、つまらなくなってしまったからでございます」
「という事は、お前が、角福質店の床の間に掛かっている、あの画を見た時にだってそのような事が起こっていたであろうという事ではないか。
20年前、角福質店の床の間で見た時には、素晴らしい画で、無性に欲しくなったけど、20年たって、成功した今になってみてみたら、ただの燻った(くすぶった)古い女の画に過ぎなかったものだから、良心に咎めるような嫌な思い出の品から逃れようと思って、遠野殿に譲ってしまったとも言えるであろう。
いや、その方がむしろ説得力があるのと違うか。お狐様というような、荒唐無稽なものを、持ち出してきた話よりもなー」
「そうはおっしゃいますが、お狐様に騙され、買わされてきたというのは、本当でございます。
あの時、お伴していた二人をここに呼んで、訊いて(聞いて)いただけば分かる事でございます。どうか、私の言う事をお信じ下さい」
「当奉行所では、その点ぬかりなく、二人の証言も、取ってきたが、二人は、霧の山中で道に迷った事は、認めたが、それ以上は見てないから、何とも言えないという事であったぞ」
「さて、長い時間、お前の話を聞いてやったが、お前が、この奉行所で言っている事は、全て疑わしく、全く信用できない。
これほど証拠が揃っているというのに、あくまで、白を切り通すというのなら、もう、お前の身体に聞いてみるしかあるまい。
明日からは、厳しい訊問(じんもん)と拷問が、待っているから、そのように心得るがよい」というと、その日の取り調べは打ち切りとなってしまいました。

その36

奉行所としては、霧峰藩の台所を握っているとも言える、霧峰藩の大商人、藤兵衛を、江戸の奉行所まで、呼びだして、取り調べる事にした以上、「取り調べましたが、何も怪しい所が無く、無罪でした」で、済ませられる話ではありません。
奉行所の面目に掛けて、何が何でも、藤兵衛の罪を立証しなくてはなりません。
従って、翌日からの取り調べは苛烈を極めました。
訊問と拷問の繰り返しで、一日目の取り調べが終わった時点で、体中が傷だらけで、痛くて横にもなれず、そうかと言って、起きて座っているのも辛い、と言った状態でした。
しかし藤兵衛は頑として、否認を続けました。二日目の取り調べは、もっと厳しく、しかも取り調べは、夜遅くにまで及びました。
そのため、取り調べが終わって部屋に戻って来るや否や、倒れ込むように横たわると、痛みも忘れ、そのまま気を失ったように眠りについてしまいました。
もし罪を認めれば、全てを失うだけでは済まず、極刑を免れる事が出来ません。
その事が分かっているだけに、藤兵衛は、否認を続けました。
奉行所は、単に、郡上霧峰藩内に住んでいた時代の藤兵衛の事だけではなく、江戸に住んでいた若かった時代、すなわち、藤兵衛が、まだ勘助とよばれていた時代の行状まで遡って調べていて、それに基づいての調査報告書を見ながら、自白を迫りました。
しかしそれでも彼は、頑として否認し続けました。
3日目を終わった時は、睡眠不足と、疲労、そして拷問による痛みとで、牢に戻された時にはもう、意識は朦朧として、起きて現実の世界にいるのか、寝て夢を見ているのか、区別が付かないような状態となっていました。

続く