No.185 廻る糸車、西施像奇譚 その6

おばあちゃんの昔話より

註1:西施・せいし・・・中国春秋時代、越の伝説上の美女の名前。
楊貴妃と並ぶ、中国古代における、傾国の美女の一人。
古代中国4大美女の一人で、彼女のあまりの美しさに、魚も泳ぐのを忘れ、沈んでしまったという伝説が残っている。
彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎなかったが、その美貌によって、越王、匂践(こうせん)に見いだされ、,越が呉に敗れた時、呉王、夫差の下に献ぜられました。
呉王、夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされた。
呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王、匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められたと言われておる。
更に詳しくは文の中ほどにある註をご覧ください。
註2: 奇譚(きたん)・・・世にも珍しい話、
註3:
登場人物について:
寿美:長女
吉治:長男(丸吉商店店主。故人。)
金佐衛門:次男
留吉:三男
奈津:次女
藤兵衛:吉治に雇われ、吉治の死後、丸吉商店を継ぐ。また、名を、「勘助」から「藤兵衛」と改める。
泰乃:吉治の妻
お絹:寿美の遠縁の娘。泰乃の養女となり、藤兵衛(勘助)と結婚する。

このお話はフィクションです

 

その17
「私、長い事、この地に住んでおりますが、こんな所に、住んでいらっしゃる人がいるとは、全く知りませんでした。
もう長い間、こちらにお住みでしょうか」と藤兵衛は、その目を避けるようにしながら話しかけました。
「さようでございますか。
私ども、あまり、この地の人達との交わりがございませんので、皆さん方が、ご存じなかったのでございましょう。
私どもがこの地に来ましてから、もうかれこれ20年近くにもなりますが」と火鉢に火を入れながらの老婆の嗄れ声(しゃがれごえ)。
「それにしても、こんな不便な山の中の事、家をお建てになるだけでも大変でしたでしょうに。どうしてこんな山の中をお選びになったのですか」と藤兵衛が尋ねますと
「実は、私どものご主人様のお爺さまと言うのが、その昔、こちら方面で商いをやっておりまして、その方が、隠居された時、隠居所としてお造りになったのがこの家でございます。
私どものご主人様は、今から20年ほど前の事ですが、大変ショックな事があり、それが元で、気鬱(きうつ)の病に罹られて、人間嫌いになってしまわれました。
そこで、その療養を兼ねて、こちらにやってきたわけでございますが、その時、まだ、お爺様が使っておられたこの隠居所が、残されている事をお聞きになり、それではと言うので、ここにお住みになる事にされたのでございます」
「そう言う訳で、ご主人様は、今も、あまり人に会うのを好まれません。
これは貴方様と限ったわけではございません。
どなた様であろうとも、人様と顔を合わせる事自体、嫌っておられるのでございます。
ですから、万一、ご主人さまの気配をお感じになられました場合は、どうか、そちらの方には、近寄らないで下さい。まして、お隣の部屋を、覗こうなどと言う気持ちは、仮初(かりそめ)にも、持たないように、お願いします」と老婆。
「さようでございましたか。よく分かりました。そのように、気をつけますから、ご安心下さい」
「ところで、先ほどから不思議で仕方がなかったのでございますが、床の間に掛かっている女の人が描かれた軸、あれ、どなた様の持物でございますか。
大変、古い絵画のようで、このような田舎では、簡単に、手に入る様な、代物ではないように思えますが」と藤兵衛が尋ねますと、
「さあ、私のような、雇われ者の老い耄れ(おいぼれ)では、何も分かりません。
なんでも、私どものご主人様のお父様が、こういった類の物がお好きだったそうで、そのお方が、とても大切にされていた物だとかで、私の主人が、とても大切にしている物でございます。
これまでにも、『あの絵を売って欲しい』と言われたお方は、沢山、いらっしゃいましたが、『どんなに生活が苦しくても、あの絵だけは売るわけにいかない』と申されまして、絶対に、手放そうとされなかった物でございます。
しかし、このありさまを見て、貴方様も、お察しのように、もう今では、家の中には売る物は何もなくなってしまいました。
正直に申しますと、このままでは、ご主人様のお薬代どころか、明日の食べ物代にも事欠くようになりそうでございます。
私としてはもう『あれをお売りになるより、仕方がありませんよ』と説得しているのでございますが、なにせ、ご主人様は頑固で、
『どうせこの世に、何の望みもない身なんだから、あれを売るくらいなら、飢え死にした方が良い』と申されまして、絶対に売る事をお許し下さいません。
困った事です」と老婆はいかにも困ったように溜息をつきます。
「さようでございましたか、それは、さぞお困りでございましょう。
それなら、その画を担保にお金をお貸ししてもよろしいのですが、それも嫌とおっしゃるのでしょうか」と藤兵衛。
「こんな状態でございますから、お金をお借りしましても、私どもには、返す当てがございません。
だからお借りするくらいなら、最初から買って頂いた方が良いのでございます。
ただ、ご主人さまが嫌だとおっしゃっていますから、今の所は、どうにもなりませんけどね」と老婆はさも困っているように、愚痴ります。
どう言う訳か、藤兵衛は、その画を一目みた瞬間から、その画に強く惹かれてしまいました。
何が何でも、その画を手に入れたいという、強い思いを、抑える事が出来なくなっていました。
「すみませんが、貴方のご主人さまに、もう一度あの絵をお譲り下さるよう、お願いして頂けませんか。私、今手元に100両ちょっとのお金を持っております。その有り金を全て差し出しますから、あの絵を、お譲り下さるよう、もう一度、ご主人様に
お願いしてくださいよ。
それでは足りないとおっしゃるのでしたら、更に100両ほどでしたら、後ほど、手代に持って来させますがいかがでしょう」藤兵衛は懸命に頼みました。
老婆もその熱意に負け、再度、ご主人の許へ、交渉に行ってくれました。
しかし、どうしても、売ってもらえませんでした。
藤兵衛が、あまりしつこく頼むものですから、老婆も困り果て、最後は
「ごめんなさいねー。
私の持ち物でしたら、お売りするのでございますが、なにしろご主人様の物で、そのご主人様が、絶対に売らないと、おっしゃっていますから」というと、藤兵衛が、それ以上何かを言いだす隙を与えず、逃げるように、部屋から出て行ってしまいました。

 

その18

藤兵衛はといいますと、その絵に魅入られ、その夜は、一睡もできませんでした。
横になって目をつぶると、絵の中の女性の姿が眼前に現れて、眠らせてくれないのです。
裾をまくって川に浸している、透き通るように真っ白なその素足、憂いを含んだ艶めかしい(なまめかしい)その瞳、吸いつきたくなるほど魅惑的な真っ赤なその唇、抱きしめると、身もだえして喘ぎだしそうに、なよなよとした、嫋かな(たおやか;しなやかなさま)その姿態などなどが、藤兵衛の劣情(れつじょう:情欲のこと)を刺激して、眠らせてくれませんでした。
眠れないままに転々としている間に、長い冬の夜さえもが、いつの間にか、明け始めてきて、破れた雨戸の隙間からは、薄明るい外の光が洩れ入ってくるようになりました。
藤兵衛には、その時、若かった頃の、悪の血が戻ってまいりました。
欲しいと思ったら、それを、自分のものにしたいという欲望を抑える事が出来なくなっていました。
起き上がった彼は、床の間に掛けられているその掛け軸を外し、床の間の横の天袋に片づけてあった箱の中にそれを納め、それを抱えると、そっとその家から抜け出しました。
さすが、若い時と違って、今では、年もとりましたし、地位も財産もあるようになっています。
体面も気にしますし、悪知恵にも長けて(たけて)きています。
彼は、泥棒と言われないように、掛け軸をもって出る時、代わりに、持っていた百両余の金の全てを、床の間の上に置いてきました。
藤兵衛には、人嫌いなために、世の中の事に疎く(うとい)、世間ずれのしてない主従であるから、充分なお金をその場に、置いてきさえすれば、例えこの絵を、無断で持ってきたとしても、公に問題にされる事はないであろうという計算がありました。
特に、ご主人の手足の代わりとなって動いている老婆に至っては、お金に困っていて、いかにも売りたそうな口ぶりでしたから、それを取り戻すために、彼女自身が積極的に何かをするような事はないだろうと踏んでの上でした事でした。
しかし無断で持ち出してきたわけですから、“悪”(わる)の藤兵衛でも、さすが、気が咎めます(とがめる)。
二人に気付かれないように、そっと家を抜け出すと、道を急ぎました。
しばらくの間は、追い掛けてきた老婆から、今にも、呼びとめられるのではないかと、気が気でありませんでした。
幸いな事に、霧はすっかり晴れ上がり、明け始めた朝の光の下、いつも通っている林道が、すぐ近くに見えるようになってきました。

 

その19

向こうの方から、「旦那様、旦那様」と叫びながら、走り寄ってくる、二人の使用人の姿も見えます。
ほっとして、登ってきた方角を振り返りましたが、登ってきた細い道はもう生い茂る笹竹に遮られて、見つからなくなってしまっていました。
無論、藤兵衛を追っかけてくる人の姿もありませんでした。
「旦那様、よくもご無事で。それにしても何処に行ってらっしゃったのですか。急にいなくなってしまわれたものですから、お捜ししていたのですよ」と手代
「何を言っているのだ。お前たちこそ急に消えてしまって。一人残された俺が、どんなに心細かった事か。
道は分からんわ、霧は、雨に降られた時のように、俺の着ている物を、ぐっしょり濡らしてくるわで、本当に困ってしまったわ。
そうかといって、それを防げそうな場所も見つからんし」と藤兵衛の少し怒ったような声。
「旦那様と、はぐれた後、私達だって、随分お探ししたのですよ。でもどこにもいらっしゃらなくて。
仕方がないので、ちょうど見つかった、この林道脇の、杉の巨木の洞穴で、休ませてもらう事にしたのです。
それにしても旦那様は、何処にいらっしゃったのですか。
あまり衣服もお濡れになっていないようにお見うけしますが」と手代。
「それが有り難い事に、ここを少し下った所に、家があってな、そこで泊めてもらえたんだよ」
「エーッ、こんな山の中に、人が住んでいる家なんかありましたっけ。
今までそんな話聞いた事がありませんけど。
どう、あんた、聞いたことある」と手代は用心棒に同意を求めるように聞きます。
「いやー、知らんなー。そんな話、噂にも聞いたことがありませんぜ。
もしかしたら、お狐さんに騙されたのと違いますか?
ここら辺りには、性質(たち)の悪い狐が出るという、もっぱらの噂ですぜ」と用心棒。
「まさか。俺がド畜生ごときに騙された?!この俺が?そんなことありえん。
第一、どう考えたって、あれはきちんとした家だったぞ。
きちんとした、とても良い材木を使ったね。
狐がそんな良い家、建てられると思うか。
俺だって、一応は、お狐さんの事、疑っては見たさ。
場所が場所だったからな。
でも妖しい所は、どこにもなかったぜ」と藤兵衛。
しかし、言っているうちに、自分の言葉に、自信が無くなったのか、最後の方は、語尾が擦れ(かすれ)、言葉に、力がありませんでした。
「そんな不便な場所で、婆さんと、病人とじゃー、生きていけませんぜ。
医者だって、こんなところまでは、来てくれませんしね。
第一、毎日の、食べ物だとか生活必需品どうします。
二人が生きていくのに必要な物って、ちょっとや、そっとの量ではありませんよ。
食べ物一つとったって、婆さん一人の力じゃー、こんな坂道運ぶの、大変です。
腰が曲がって、一人で歩くのさえ、覚束ないという婆さんに、買い物した沢山のものを、一度に全部を、持ち運ぶなんて、出来っこありません。
だからといって、少しずつに分けて運ぶのだって、こんな急な坂道を、荷物を担いで、一日に何往復も、上り下りするなんて、これまた、そんな年の婆さんじゃ、絶対無理です。
そんな事出来っこありませんよ。
お店の人だって、そんな婆さんの場合は、丁稚(でっち:商人などの家に奉公する少年のこと)に、家まで持って行かせようとするに決まっています。
もし、それを断って、老婆が一人で、何度も何度も往復して、持ち運んでいようものなら、不審がられて、とっくの昔、大変な噂になっているはずです。
またもし、店の丁稚に運んでもらっていたのでしたら、今度は、そんな辺鄙な所に、病人と、老婆が二人だけで住んでいるのを見た丁稚が、黙っている筈がありませんよね。
こんな狭い世間の事、それは、それで、やはり大変な噂になっているに違いありません。
それが、この人達が移り住んで、20年近くにもなるというのに、町の人間の誰も、その人達の事を知らないなんて、おかしいと思いませんか。
どう考えたって、お狐さんの仕業(しわざ)ですよ。それ。
旦那様も騙されてきたのと違います?
自分は、騙されっこないと思っている人に限って、騙されやすいそうですよ。
何しろあいつらときたら、騙すのが、上手いですからね、これが。
人の心を読みますからね、
さしあたり、旦那様の場合は、お金持ちそうに見えますから、あいつらから、何か、くだらん物を、売りつけられてきたのと違いますか?
さも価値がある物のように思わせられて」と手代。
図星をさされた藤兵衛は、思わず自分の持っていた、あの軸の入った箱を袂で隠すかのように、抱えこみました。
しかし、目敏く(めざとい)それを見つけた手代が、狼狽している藤兵衛に追い打ちをかけるように
「アレッ、その箱?それって、もしかしたら、お狐さんの所で、買わされてきたのと違いますか?昨夜は確か持っていらっしゃらなかった物ですよね」と申します。
じろりと、不機嫌そうな顔を、手代に向けた藤兵衛は、それ以上は、何も言わず、先に立って、足早に歩き始めました。

続く