No.187 廻る糸車、西施像奇譚 その8

このお話はフィクションです

その24

「先ほど私が、いろいろお尋ねして、非常に不愉快な思いをさせてしまったかもしれませんが、そうしたのには、訳がございます。
実はこの画、今から20年ほど前、盗難にあって、それ以来、行方が知れなくなっていて、今も捜索中の作品のように思われるからでございます。
普通なら、20年も前の盗難品の事などは、その時の持ち主自身が、もうすでに亡くなって、代が替わってしまっていたり、もし生きておられたとしても、諦めてしまっていたり、忘れられてしまっていたりして、今更見つかったとしても、よほどの事がない限り、盗んでいった人間に迄、追及が及ぶような事はない事件でございます。
所が、この画の場合は、そうはまいらないのでございます。
なにしろこの画は、古くて、貴重な画というだけでなく、徳川家譜代の家臣、本多正輝様のご先祖、幸輝殿が、北の庄にあった、柴田勝家の城攻めに加わった際、その軍功によって、今は東照宮として祀られている、大御所様から、直に、拝領した品だったからでございます。
従って、盗難によって、それの紛失が明らかになった際には、その時の持ち主だった、正輝殿が、責任を取らされ、改易になっているほどの、由来のある画だからでございます。
そう言う経緯から、その当時の事を、多少なりとも知っている幕臣や、好事家達(こうずか:もの好きな人・風流人)の間では、知らないものはいないというほどに有名な画でございます。
この画につきましては、現在も探索中でして、私どものような古画の研究者だとか鑑定を業とする者はいうまでもなく、更には、漢学者、歴史家などにいたるまで、それらしき物の消息を耳にしたり、目にしたりした場合は、直ちに奉行所に届け出るようにと言う、廻状が回っております。
よって、誠に申し訳ありませんが、これを見た以上、私としては、直ちに奉行所に届出なければなりません。
よろしければ、一緒に奉行所の方に行って頂けませんか、今は確か北町奉行所の持ち番になっていたと思いますが。
その際は、手に入れられた経緯を聞かれると思いますが、今、お聞きした限りでは、遠野様の場合は、とても不思議なお話ですが、直接お狐様から貰ってこられたわけではなく、騙されたと言われる人から譲ってもらわれただけでございますから、正直に、その通りお話になれば、別に遠野様ご自身が、問題にされる事は無いと存じます。
でも、遠野様の場合、霧峰藩の御家中の方でございますから、『今奉行所へ直接出向いてこの画を手に入れた経緯について、お話するのは、管轄違いだから、まずい』とおっしゃるのでしたら、それはそれでかまいません。
ただその場合でも、私の方は、霧峰藩の遠野様が、その画を御所持の旨、奉行所の方へ、お届けはしておきます。
そうしますと後日、奉行所を通して、霧峰藩の方に、貴方様を訊問する為の了解を取りに、北町奉行所のほうから、お伺いする事になると思います。
さて、どちらにされますか」
「そうですねー。私としては、藩の方々に、あまりこの事を知られたくありません。
それに私としては別にやましい事もありません。
だから事情をお話しするだけと言う事でしたら、今奉行所の方に御一緒してもかまいません。
ただ、もしそこで取り調べの形を取られるというのでしたら、それに応じますと、私の方が、藩から、お咎めを受けることになります。だからその場合は、お断りしなければなりません。
従いまして、大橋様には、奉行所へ着きましたら、まずその事を御尋ね下さいませんか、
今言いました事を、奉行所が了承して下さるようでしたら、この画を手に入れた経緯について、お話しするのは,吝かでは(やぶさか)ではありません」

 

その25

霧峰藩、江戸藩邸の座敷牢に捉えられた藤兵衛は、翌朝にはもう、彼を受け取りに来た、月当番の北町奉行所の与力に引き渡され、奉行所へと引き立てられていきました。
遡る事一カ月ほど前、遠野親義と、大橋右近の届けを受けた奉行所は、遠野親義の前に、その画を所有していたという、丸喜屋藤兵衛を早速取り調べねばならないと思いました。
所が藤兵衛は、当時の霧峰藩では、藩の台所は言うまでもなく、藩士たちもまた、重役達から、下級武士達にいたる、かなりの者が、金銭的なお世話を受けているといった、大商人(あきんど)です。
江戸の奉行所としても、迂闊に手を出せません。
もし、藤兵衛の取り調べの為にと、藩に内緒で、彼を江戸まで連行してきたりすれば、藩の反感を買い、後々幕府と藩の間で、トラブルが発生する可能性だってあります。
しかし公のルートで、藤兵衛の引き渡しを要求すれば、よほど注意して、限られた少数の人間を介して、ごくごく内密に、藩と交渉するのでなければ、藩内には、彼のお世話になっている者達が一杯いますから、そういった人間を介して、調査している事が、藤兵衛に、洩れてしまう可能性が大です。
もし犯罪に関与している疑いで調査している事が、藤兵衛の耳に入れば、彼は、藩内の重臣たちに働きかけて、藩の意見として、霧峰藩の住民であるから、江戸の奉行所での取り調べには応じられないと言わせる可能性があります。
また、どうしてもそれから(江戸での取り調べ)、逃れられないということになれば、証拠隠滅を図ったり、逃走したりする危険性だって少なからずあります。
その為、藤兵衛の調査と、取り調べが、江戸の奉行所で行う事になるまでには、奉行所にはいろいろな苦労がありました。
しかし本件が、東照宮に祀られている、大御所様の拝領品が絡んだ事件であるだけに、幕府としては、どうしても、他所の藩の取り調べに任せておく訳にはまいりませんでした。
こうして幕府内で、いろいろ検討した結果、藩主、繭山幸直に直接、訳を話し、彼の了解を取りつけて、藩内の者には、内密に、藤兵衛の調査にとりかかる事にしたのでした。
そうだからといって、藩内の者すべてに内緒にという訳にはまいりません。
藩主、幸直は、重臣たちのうち、信用できる、一人、二人にだけ事情を話し、彼らに、江戸幕府や、奉行所との交渉をまかせました。
こうして、普通の住民達や、家臣たちは言うまでもなく、重臣たちすら、その殆どが、知らない間に、峰霧藩内に潜入した、隠密同心によって、藤兵衛が、20年以上も前の、郡上霧峰藩江戸屋敷の仲間小屋にいた頃の事から、その後、郡上霧峰藩内にやって来てから、現在に至るまでの、彼の行状を、全て詳しく、調べ上げていきました。
こうした慎重な調査の結果、「やはり、20数年前にあった、質屋押し込み強盗事件についての、彼の嫌疑が十分である。よって、江戸の奉行所での、取り調べを、お許しいただきたい」と、藩主、繭山幸直の所へ、老中を通して、直々に申し入れました。

 

その26

話は再び、今から20年以上、30年近くも前に遡ります。
そのころの、藤兵衛は未だ名を勘助と言っておりました。
一旗揚げる為に、田舎から、江戸へと出てきては見たものの、縁故もなく、知り合いもいないような彼を、まともに働かしてくれるような所はありませんでした。
止む無く彼は、遊び場で知り合った、同じような境遇にあった男に誘われ、当時の霧峰藩、藩士、上村伊織(註:勘助が江戸から離れて間もなく、当主が急逝し、跡継ぎもなかったことから、廃家(はいか)になり、家族は四散して、その後消息は不明となっております)の仲間小屋に潜り(もぐり)込んで、住まわせてもらっていました。
そこでの勘助は、偶に出る、上村家の臨時雇いの仕事にありつきながら、後は、似たような境遇にあった男達と、博打に、遊所通いにと、自堕落な生活に明け暮れておりました。
そして、お金がなくなってくると、そこで知りあった無頼の男達とつるんで、いろいろな悪事に、手を染めるといった、極道な生活を送っていました。
しかし、そんな江戸での生活にも、やがて終りを告げなければならない時がやってまいりました。
霧峰藩の財政立て直しの為に、上村伊織家でも、その使用人の大半が暇を取らされ、住まわせてもらっていた仲間小屋からも、追い出される事になりました。
所が、運が悪い事に、この頃、江戸の町では、周辺の農村部から流入してくる人間の激増によって、急激に人口が膨張し、それによって、江戸の都市機能がマヒ寸前になっており、他方では、地方の農村部が、労働人口の急激な流出によって、過疎化すると言った、労働人口の偏在による弊害が大きくなっておりました。
そこで、江戸幕府は、それを防ぐため、江戸の町へ流入する人の数を、規制する法律を作り、それの厳密な実施に踏切りました。
人別帳などによって、きちんと身元が確認できないかぎり、江戸の町中で、仕事にありつく事も、家を借りることも難しくなってしまいました。
彼等にとって、とりうる道は、無宿者として江戸の町に残るか、さもなければ、江戸から出て行くしかありませんでした。
無論、勘助も例外ではありません。
勘助も、江戸の町中での居場所を失ってしまったのです。

 

その27

いよいよ明後日には、今まで住んでいた仲間小屋も立ち退かなければならなくなった日の夜の事でした。
住職もおらず、荒れたまま放置されていた、慈恩寺の一室では、その夜も密かに、賭場(とば:博打場)が開帳されておりました。
明日からの生活を、どうするかについての、考えも纏まらないままに、勘助は、その憂さを晴らそうと、賭けるのですが、運にも見放されたのか、ことごとく外れてしまい、結局、僅かしか持っていなかった、その最後の持ち金さえ、その殆どを、すってしまいました。
無一文になって、明日からの行く当ても、明日の食べ物を得る当てさえもなくなってしまって、ぼんやりと考えこんでいた勘助の所へ、これまでつるんで、いろいろな小悪事を働いてきた、与太者仲間の、お役者銀次と、三郎九朗とが、近寄ってまいりました。
お役者銀次は、年は40歳代半ば、名前の通り、色白の役者のような顔立ちをした、やや小柄で、華奢な(きゃしゃ)色男でした。
真偽の程はわかりませんが、以前は、どこか、どさ回り一座の看板女形(おやま)だった事もあったとのことでした。
ところがそこで、座長の女に手を出し、一座を追われ、その後は、住む所も定めず、普段は、あちらこちらの女の所を渡り歩いて、小遣いを貰っては、遊び暮らすという生活をしていました。
そして、懐が寂しくなってくると、勘助達とつるんで、小悪事を働くと言った程度の小悪党でした。
一方、三郎九朗は、ついこの間まで、質屋、角福商店の手代をしていた男です。
たまたまお休みで、遊びに来ていた浅草観音の境内で、お役者銀次に出会ったのが、悪事に手を染めることになった始まりでした。
銀次に誘われるままに、賭場に顔を出した事によって、賭け事にのめり込んでしまった三郎九朗は、最後、お店のお金にまで手を付けるようになってしまいました。
無論そんな事が、長続きするはずがありません。
ある時、それがばれ、お店から追い出されてしまったのです。
この男、もともと、かなりの悪だったようで、勘助よりやや年下、20歳そこそこの年齢だったにもかかわらず、やる事が大胆、腹も座っていて、しかも、悪知恵が働き、腕も立ちます。だから、僅かの間に、この3人で悪事を働く時には、首領格のような立場に立っておりました。

次号に続く

No.186 廻る糸車、西施像奇譚 その7

おばあちゃんの昔話より

註1:西施・せいし・・・中国春秋時代、越の伝説上の美女の名前。
楊貴妃と並ぶ、中国古代における、傾国の美女の一人。
古代中国4大美女の一人で、彼女のあまりの美しさに、魚も泳ぐのを忘れ、沈んでしまったという伝説が残っている。
彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎなかったが、その美貌によって、越王、匂践(こうせん)に見いだされ、,越が呉に敗れた時、呉王、夫差の下に献ぜられました。
呉王、夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされた。
呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王、匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められたと言われておる。
更に詳しくは文の中ほどにある註をご覧ください。
註2: 奇譚(きたん)・・・世にも珍しい話、
註3:
登場人物について:
寿美:長女
吉治:長男(丸吉商店店主。故人。)
金佐衛門:次男
留吉:三男
奈津:次女
藤兵衛:吉治に雇われ、吉治の死後、丸吉商店を継ぐ。また、名を、「勘助」から「藤兵衛」と改める。
泰乃:吉治の妻
お絹:寿美の遠縁の娘。泰乃の養女となり、藤兵衛(勘助)と結婚する。

このお話はフィクションです

 

その20

言われてみれば、確かに手代や用心棒の言う通りで、おかしなことばかりです。
不安に駆られた藤兵衛は、家に着くなり座敷にこもり、お金を置いてきたとは言うものの、あの家から、無断で持ち出してきた絵を開いてみました。
「手代たちはあんな事を言っていたけれど、あいつら、この画をまだ見ていないから、あんな事を言えるんだわ」
「一度、この絵を拝んだら最後、画の事なんか、何も知らない、ど素人のあいつらだって、この女の画の魅力に、魂まで抜き取られてしまうんだから」とぶつぶつ呟きながら開きました。
しかし開いた途端、藤兵衛は、愕然としました。
古い古い画布の上に描かれていたものは、全体が、すっかりくすんで色も薄墨色にくすんでしまっている(くすむ:すすける)、何の変哲もない洗濯女の姿でしかありませんでした。
どれだけ眺めていても、昨夜、藤兵衛を魅惑してやまなかった、透き通るような白い素足も、吸いついてきそうな真っ赤な唇も、思わず抱きしめたくなりそうな、嫋やかな姿態(たおやか:しとやかで、なよなよしているさま)も、灰色にくすんだ色の中に沈んでしまって、何の感懐(かんかい:感慨)も呼び起こしませんでした。
「フーッ」とため息をついて藤兵衛は、やがてその絵を、元の古い箱の中にしまい込むと、床の間の隣にある天袋(床脇の最上部に造られた、袋戸棚)の中に放り込み、そのまま部屋から出て行ってしまいました。
しかしその絵は、どう考えても、由緒ありげな、古い絵でした。
だから、まんざら自分が騙されたわけでもなさそうだと、自分で自分を慰めました
学問のない藤兵衛には、正確に意味を理解する事は出来ませんでしたが、画面の余白に書かれていた讃(さん:かかれている画に題して、画面の余白に添え書きされた詩、歌、文等)から、この女性が、西施(せいし)という名で、魚も泳ぎを忘れるほどの美人として、一時代もてはやされたらしい女である事くらいはわかりました。
しかし骨董趣味もなく、学問もない藤兵衛には、そんなもの、何の意味をありませんでした。
彼は、その画に、簡単には整理しきれない、もやもやした感情を残してはいましたが、画そのものについては、完全に興味を失ってしまっていました。
彼は、「こんな画、手元にあるだけで、気色が悪い」と、たまたまその時、他の用事で訪れた、物品取引に掛かる税金担当の役人、遠野親義に、ただ同然の価格で、譲りわたしてしまいました。
遠野は、多少学識もあり、骨董蒐集の趣味も持っていましたから、西施の画かれたその古画が手に入った事をとても喜びました。
しかしそれが手に入った経緯を、藤兵衛が笑って話しながら、無造作に、ただ同然の価格で譲ってくれましたから、まさかこの画が、本物の呉の曾不興の手になる、西施像だとは思ってもいませんでした。
贋物か、もし古い物であったとしても、後世に模写した(もしゃ)ものくらいに思っていました。
彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎませんでしたが、その美貌によって、越王・匂践(こうせん)に見いだされ、越が呉に敗れた時、呉王・夫差の下に献ぜられました。
呉王・夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされてしまいました。
呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王・匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められてしまったと言われています。
考えてみれば、彼女、その美貌故に、国家間の政略に巻き込まれ、翻弄され、最後は残酷な殺され方をしなければならなかったわけですから、可哀そうな悲運の美女でもあります。
よってその恨みが、末代まで及んでいるのも、故なしとは言えません。
(註4)曾不興:・・三国時代(220~280)の呉の国の画家。呉の孫権へ献上される為の屏風画を描いていた時、誤って汚点をつけてしまったので、これを蠅として描いておいた所、孫権は、これを本物の蠅と間違えて、追い払おうとしたという言い伝えがあるほどの名画家で。中国古代、八絶(呉に仕えた絶妙な技能をもつ8人)の一人

 

その21

時は徳川時代の末期、動乱の嵐が、まさに日本国中に吹き荒れようとしていた時でした。
美濃の国と飛騨の国にまたがる、山の中の小藩に過ぎなかった霧峰藩もそれと無関係ではありませんでした。
その影響を受けた、家臣団は、佐幕派と勤皇派に別れてにらみ合い、藩内は騒然たる雰囲気に包まれておりました。
しかし商売人である藤兵衛にとっては、そのような藩内の事情など関係ありませんでした。
いやそれどころか、そんな藩内事情こそ、お金儲けのチャンスとばかり、あくどい金儲けに奔走しておりました。
そんな藤兵衛の所にある日、参勤交代で江戸に滞在中のお殿様から、「早急に江戸藩邸に出府(しゅっぷ)するように」と言う命令が下されました。
藤兵衛には何のための出府命令か、見当が付きませんでした。
命令を伝達してきた役人にその理由を聞いても、ただ首を傾げるばかりでした。
今までいろいろお世話をし、親しくしている藩の重役達にも聞いてみましたが、はっきりしませんでした。
何が何だか分からぬままに、藤兵衛は急いで支度を整えると、あちらこちらに作っていた女達の所に立ち寄り、江戸土産の約束をしてから、江戸に向かって出立(しゅったつ:旅立ち)していきました。
不思議な事に、護衛として、捕り方の役人が二人同道(どうどう:連れ立っていく事)する事になっていました。
しかし彼らにも、単なる商人に過ぎない藤兵衛の護衛として、江戸まで付いて行かなければならない理由は知らされておりませんでした。
彼らには、「大切な人だから、道中何事もないよう、きちんと見張っておるように」と言う命令が下されていただけでした。
従って彼等は、藤兵衛が、藩内の有力商人であり、藩の借金の大半の貸主であることから、とても大切な人として、道中問題が起こらないように、大変気を使いながら、付き添ってくれました。
彼らの一行の行程は、まるで主人とその使用人達が、物見遊山でもしているかのようでした。美味しい物を食べ、冗談を言い合い、和気藹藹(わきあいあい:なごやかな気分が満ち溢れている事)と道中を楽しみながら、江戸藩邸迄やってまいりました。

 

その22

しかし、藤兵衛が大切にされたのは、そこまででした。
江戸藩邸に到着するや否や、藤兵衛の待遇は一変しました。
彼に付き添ってきた捕りかたの役人が、門番に、藤兵衛の到着を知らせるや否や、出てきた江戸屋敷の役人は、そのまま彼を、座敷牢へと放り込んでしまいました。
藤兵衛の心算では、彼の出府を喜んで、彼が今までお世話してきた沢山の家臣達が出迎えてくれるはずでした。
今晩は、そういった連中を引き連れて料亭に繰り出し、一晩中騒いで、飲み明かす予定でおりました。
しかし到着した江戸藩邸の家臣達の中に、彼を出迎えに出てくれた者はいませんでした。
それどころか、座敷牢に閉じ込められている藤兵衛に会いに来てくれる者さえいませんでした。
「私が何をしたというのです。どうして縄目の辱め(なわめのはずかしめ:捕らえられて縄をかけられる恥の事)を受けなければならないのです。
私はこれまで、どれだけ藩の財政の為に尽してきたか知れません。その功労者とも言うべき私を、わざわざ江戸まで呼び出しておいて、こんな仕打ちをなさるというのは、一体どう言う事ですか。
私には、さっぱり分かりません。
どうか御重役の、植村様をお呼び下さい。
もし植村様がご不在で、駄目でしたら、神戸様でもよろしいですから、お呼び下さい。あの人達なら、今は、お殿様のお伴をして、江戸に出てきていらっしゃる筈です。
あのお方達でしたら、私の事を良くご存じで、私が、こんな目に遭わなければならない人間でない事を証明して下さる筈でございます。どうかお願いですから、あのお方たちにご連絡ください」
「もしそれも叶わぬという事でしたら、せめてこんな所に押し込められなければならない罪状だけでもお教えください」と牢内で叫び続けました。
しかし、牢の周りはシーンと静まり返っていて、何の応答もありませんでした。無論、彼の所に会いに来てくれた者など、一人もいませんでした。
その23
それより遡る事、約1年近く前の事でした。
参勤交代のお伴として江戸に出府してきた遠野親義が、かねてより気になっていたあの西施像、藤兵衛から貰った例の西施像の軸を鑑定してもらうため、当時、古画の鑑定では、当代随一と言われていた、大橋右近の許を訪ねました。
挨拶もそこそこに、早速、遠野が取り出した例の西施像を見た大橋右近は、その画を見た瞬間、顔色を変えました。
「すみません。こんな事を聞いて失礼な事は、重々承知しておりますが、貴方様はこの画、どこからお求めになったのでしょうか」
「私の知人から、譲って貰ったものですが、この画に何か問題でも?」
「知人とおっしゃいますと、ご職業は、何をしていらっしゃるお方でしょうか?」
「手広く御商売をなさっている、大店の御主人ですが、ただそのお方がこの絵を入手なさった時の経緯がとても変わっていまして、それで嫌気がさして、私に無料に近いような価格で、譲って下さったものです」
「変わった経緯とは?差支えなかったらそのお話、もう少し詳しくお聞かせ下さいませんか」
「本当か嘘か、私にはわかりませんが、その大店の御主人のお話では、ある霧の深い夜、道に迷ったあげく、立派なお屋敷に迷い込んでしまわれたのだそうでございます。
その時、その屋敷の床の間に掛けてあった絵が無性に欲しくなってしまい、嫌がる相手から、奪うようにして持ってきてしまった画だそうでございます。
従って、価格については教えて下さいませんから私はっきりとは分かりませんが、口ぶりからすると、代価として、びっくりするようなお金をおいてこられたようでございます。
所が、帰る途中、使用人達からいろいろ言われて考えてみますに、そんな人里離れた山の中に、立派な家があるなんて話は、それまで、噂にも、聞いたことがなかったそうです。
またそんな場所で、誰からも知られることもなく、町の人々と隔絶して、20年以上もの間、婆さんと病人だけで、生活していけるはずもありません。
又、言われてすぐに振り返ってみましたが、その家から帰ってきた時の道は、いつの間にか消えてしまっていて、どこにも見当たらなかったのだそうでございます。
冷静になって考えてみますと、あれはやはりお狐様か何か、怪しげなもののお屋敷だったに違いないと思われたのだそうです。
それでも、あの時床の間に掛けられていた画は、これまで目にしてきた、こういった類の画の中で、これほど彼の心を捉えて離さなかった画はなかったそうです。
だから、画だけは騙さないだろうと一縷の望みを抱いて、家に帰るや否や、早速、軸を開いて見直して見られたのだそうです。
ところが、何の事はありませんでした。画の方も、古いだけで、何の感慨も呼び起こさない、全体にくすんでしまっていて、色もはっきりしないような、古ぼけた洗濯女の像にすぎなかったのだそうです。
あの時、あんなにも、きらきらとして、魅力的に見えたのも、やはり騙されていたからに違いないと思い当たると、悔しくてたまらなくなってしまわれたのだそうでございます。
ちょうどその時、他の用事があって訪ねて行った私に、『こんな絵、手元に置くと、目にする度に、嫌な思いをしなければなりませんから、欲しければ、貴方にお譲りしますよ。
ただでもいいのですが、後で問題になるといけませんから、貴方のお好きなお金を、おいていってください』と言われ、格安に譲ってもらってきた画でございます」
「さようでございましたか。
それにしてもこの画、何という、数奇(すうき:境遇の変化の激しい)な運命に弄ばれ(もてあそばれ)ている、哀れな画でございましょう。
今回の場合、一体全体、どのような経緯で、怪しい物の怪(もののけ)なんかの手に落ちたのでしょうね」
「と申しますと、この画は本物の呉の曾不興が描いた、西施像なのでございますか」
「そうでないかと思われます。私も三国時代の呉のような、古い時代の絵など見た事がありませんから、断定はできませんが、逆に、そのような古い時代の絵など、日本には何枚も残っていない筈ですから、この古さと、この絵の持っている風格、そして今まで知られている、この画についての伝承から考え、まずは間違いないと思います」
註:三国時代の呉・・・西暦222年から280年迄中国江南の地にあった国

続く