No.184 廻る糸車、西施像奇譚 その5

お祖母ちゃんの昔話より

註1:西施・せいし・・・中国春秋時代、越の伝説上の美女の名前。
楊貴妃と並ぶ、中国古代における、傾国の美女の一人。
古代中国4大美女の一人で、彼女のあまりの美しさに、魚も泳ぐのを忘れ、沈んでしまったという伝説が残っている。
彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎなかったが、その美貌によって、越王、匂践(こうせん)に見いだされ、,越が呉に敗れた時、呉王、夫差の下に献ぜられました。
呉王、夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされた。
呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王、匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められたと言われておる。
更に詳しくは文の中ほどにある註をご覧ください。
註2: 奇譚(きたん)・・・世にも珍しい話、
註3:
登場人物について:
寿美:長女
吉治:長男(丸吉商店店主。故人。)
金佐衛門:次男
留吉:三男
奈津:次女
勘助:吉治に雇われ、吉治の死後、丸吉商店を継ぐ。また、名を「藤兵衛」と改める。
泰乃:吉治の妻
お絹:寿美の遠縁の娘。泰乃の養女となり、勘助と結婚する。

このお話はフィクションです

 

その13

それから10年余、勘助改め藤兵衛の、丸吉商店は、目を見張るような大発展をし、今では、藩内外の物産を手広く取り扱う、この地方では1,2を争う、川船運送業と卸問屋をかねた大店(おおだな)となっております。
表向きは、川船輸送業と、藩内外の物産の仲卸によって財をなしたことになっておりますが、内実は、裏で金貸しを兼業し、それを利用して、藩の役人達に取り入り、藩内の産物の取り扱いの時だとか、租税徴収の際に便宜を図ってもらう事によって、急速に成長したというもっぱらの噂です。
事実、藩の緊縮財政によって、藩の役人達の家計は何処も苦しく、何時の時代でも、どこの国でもそうであるように、このため藩内の役人達の倫理観は低下し、規律が緩み、汚職だとか、横領などと言った犯罪が蔓延しておりました。
その上藩内では、税金の徴収法について、農産物の収穫に課税する事を重視する守旧派と、物の取引に課税するのを重視する革新派に別れての争いだとか、幕末における、佐幕派と勤皇派との争いなどが複雑に絡んでおりましたから、ますます混乱は助長され、規律の乱れを誘発させておりました。
その頃の藩内では、鼻薬(びやく=ちょっとしたわいろ)や、賂(まいない=わいろ)によって、藩の行政がねじ曲げられる事なんか、別に珍しい事ではなくなっておりました。
このような風潮に乗じて、藩内の役人達に取り入り、上手く商売を大きくしていった者達の一人が丸吉商店でした。
藩内の役人達のかなりの者が、盆暮れの付け届け以外、購入した物品の“付け”という形での、利息も付かず、催促されることもない、丸吉商店への借金が溜まっておりました。
それほど実績のなかった丸吉商店が、僅かな期間に、藩内の物産を、一手に引き受けて、取り扱えるほどに成長し得たのも、なかなか参入し難い、川船運送業の認可を、あっさり得る事が出来たのも、物品取引の際にかかる税金を負けてもらえているのも、時々、税金のお目こぼしを、得ているのも、そのせいでした
しかし、そのような生業(なりわい)と、商いの仕方をしている事によって、藤兵衛を恨んでいる者たちも少なくありませんでした。
特に高金利と、借りた金の厳しい取り立てによって、家や田畑を取られたり、娘を女郎や飯炊き女へ売らざるを得なくされたりした者達の恨みは大でした。
また、配下の、船頭だとか、荷役、貸した金の取り立て役の男などの中には、荒くれ者も、少なからず混じっておりましたし。
見知らぬ土地での取引には、強面の男達とやりあわなければならない場合も出てきました。
この為、藤兵衛は、いつも用心棒を連れ歩いておりました。

 

その14

濃い霧の中、その用心棒ともはぐれ、夜の山中に、たった一人、とり残されてしまった藤兵衛は、心細さと寒さに、途方に暮れておりました。
懐には、集金してきたお金が、たっぷり入っているだけに、とても心配でした。
そんな事は、まずないだろうとは思いながらも、こんな所で、自分を憎んでいる奴や、山賊にでもあったら、どうしようもないと思えました。
疑り深い藤兵衛には、霧の中に、急に、姿を消した、用心棒と手代さえもが疑われました。
「もしかしたら、二人で打ち合わせて、姿を隠し、隙を見て襲ってくるのではないか」と。
何処か雨露を防ぎ、身体を隠せる場所はないかと、必死で探しました。
その時です。今いる場所より少し下った所に、霧の中、ぼんやり拡がる、かすかな光の輪をみつけました。
藤兵衛は、藁にもすがる思いで、クマザサ(熊笹)を掻きわけ、掻きわけ、手や顔に擦り傷が出来るのもかまわず、道を開きながら、光らしい物をめがけて、下へ下へと下っていきました。
下るに連れ、霧は次第に薄くなり、辺りも少しずつ、ぼんやりながら、形が見えるようになってまいりました。
すると、せせらぎの音の聞こえる方角に、柴垣に囲まれた、小さな、仕舞屋風の建物(しもたや:商人などが引退後、金利などで、暮らしている裕福そうな家・・転じて、商店でない普通の家の意)が目に入ってまいりました。
光はその家の雨戸の隙間から洩れでているもののようでした。

 

その15

「ごめん下さい。もしもし、ごめん下さい。どなたかいらっしゃいませんか」藤兵衛は扉を叩きながら、案内を乞いましたが、一向に返事がありませんでした。
しかし耳をすましますと、中では、何かが、動く気配がありました。
雨戸の隙間から洩れ出ていた光も、俄かになくなり、辺りは再び、霧と暗闇に包まれてしまいました。
家の中の気配は消え失せ、中からは、何の応答もありません。
「もしもし、どなたかいらっしゃいませんか。私、八幡町で丸吉商店と言うお店をやっている藤兵衛と申すもので、決して怪しい者ではございません。
この濃い霧の中、道に迷って、難渋しております。
土間の片隅でも結構でございますから、今夜一晩、中で、過ごさせていただけないでしょうか。
どうか扉を開けて中にお入れ下さい。お願いします」藤兵衛は、扉を叩きながら、必死に哀願し続けました。
しばらくすると、引き戸が少しだけ開き、その隙間から、老婆が顔をのぞかせました。
「申し訳ありませんが、私どもでは、ただいま、病人を抱えて、立て込んでいますので、どなたもお泊めする訳にはまいりません」と言うなり、扉を閉めてしまおうとしました。
慌てて藤兵衛は、扉の隙間に杖の代わりに持っていた小枝をつっこみ、同時に扉の端に手を掛け、扉が閉まり切るのを防ぎながら、
「それは、それは大変でございましょう。病人がいらっしゃるなんて知らずに、お騒がせして申し訳ありませんでした。
しかし私も、この霧の中、道に迷って、本当に困っております。どうか土間の片隅で、横にならせていただけるだけで結構でございますから、今晩、泊めていただけないでしょうか。それ以上に、ご迷惑はおかけしませんから」と頼みました。
しばらく藤兵衛の顔や身なりを見ていた老婆は、やがて「それは、さぞお困りでございましょう。一度ご主人様と相談してまいりますので、しばらく、お待ち下さい」と言うと、廊下伝いにある、奥の部屋へと消えていきました。
それほど待つ間もなく戻ってきた老婆は、「それではお泊めしなさい」との事でございました。
「しかし先ほども申しましたように、宅では、ただいま病人を控えておりますので、何のお構いも出来ませんが、それでもよろしかったら、どうかお通り下さい」と言うと、水を汲んで来て、足を洗ってくれてから、玄関脇にある、座敷へと導いてくれました。
「こんな狭い家でございますから、すぐ隣の部屋では病人が休んでおります。ですから申し訳ありませんが、なるべく静かにお願いします。
なお直ぐに、火鉢の火と、温かいお湯など用意してまいりますが、さしあたっては、まず濡れたお羽織をお取りになって、お顔やお身体をおふきなっていて下さい。お羽織の方は、私が、後ほど乾かしておきますから、廊下の片隅にでも放り出しておいてくだされば結構でございます」といいながら、数本の手ぬぐいを差し出してくれました。

 

その16

案内された部屋は、8畳ほどの広さの、四方無節(むぶし=表面に節が現れていない木材)の総檜造り、床の間付きの部屋で、天井は、2尺(約60センチ)もありそうな広幅の杉板が使われているといった、何とも豪華な造りです。
しかし懐具合はかなり逼迫している様子で、長い間、取り替えられてないと見える畳は、所々擦り減り、隣の部屋とを仕切る襖は、古くなって、茶色く変色しております。
廊下との間を隔てる障子に至っては、茶色く変色しているだけでなく、所々薄くなり、今にも自然に破れそうな感じです。
絞り丸太と松の一枚板で作られた豪華な床の間には、古い女人像の掛け軸が掛けられていました。
部屋には、他に、何も置かれていず、客に出す座布団さえない様子です。何も置かれていない8畳の部屋は、がらんとして、寒々としております。
藤兵衛はその部屋に案内された瞬間、首筋に、誰かにじっと見つめられた時に感じる、あの不思議な感覚にとらわれました。
しかし藤兵衛が振り向いた時、見たものは、床の間に掛けられている、古い、女の絵だけでした。
他には、何もいませんでした。
所がその時、一度も、訪ねてきた事のないはずのこの家の、この部屋に、なんだか一度、入った事があるような、或いは遠い昔、どこかで見た事のあるような奇妙な感覚が浮かんでまいりました。
しかしどう考えても、この部屋を訪ねた事等、あろうはずがありません。
何しろ今まで、こんな所に家がある事さえ知らなかったのですから。
その奇妙な感覚を振り払おうとするかのように、藤兵衛は頭を振りました。
けれども、藤兵衛が気付かなかっただけでした。彼がその部屋に入った、その時、床の間に掛けられていた、古い掛け軸に描かれている女の目が、一瞬、つり上がり、その瞳が、きらりと光り、藤兵衛を、睨みつけたのでした。
藤兵衛も、何かに、見つめられていると感じた時、すぐに振り向いて、床の間の方を見たのですが、その時はもう、絵の中の女の顔は、男心を惹きつけてやまない、あの憂いを含み、頼りなげな、艶めかしい(なまめかしい)元の姿に、戻ってしまっていましたから、藤兵衛が、気付かなかったのです。
お茶を運んできた老婆は、「生憎ただ今、お茶を切らしておりまして、こんなものじゃーお口に召さないかもしれませんが」と、しわがれ声で言いながら、恥ずかしそうに、白湯(さゆ)しか入っていない湯呑を差し出しました。
60歳はゆうに超えていると思われる、真っ白なさんばら髪の老婆は、まるで物語の中に出てくる山姥(やまんば)のようでした。
腰は曲がり、赤茶けた顔や手は、皺だらけ、染み(しみ)だらけで、衣服は、古くなって色褪せ(あせる)、もうこれ以上の修復は無理かと思われるほど、あちらこちらに、繕い(つくろい)の痕や、継接ぎ(つぎはぎ)があり、まるで襤褸(ぼろ)の塊が動いているかのようです。
老婆は、目が不自由なようで、話をしたり、聞いたりする時は、こちらの顔を見据えるようにじっと見つめます。
しかし老婆の、その白濁した目に見つめられると、腹の底まで、見透かされているかのような、気味の悪さがありました。

続く