No.171 一粒の米にも その6

(おばあちゃんの昔話より)

このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物や、実際に在った出来事とはとは関係ありません

 

その18

その年は稲の実りも特に良く、使用人や、小作人達の懐具合も暖かで、何処の家も、ご馳走や、門飾りを奮発し、新しい衣装を新調したり、家を修繕したりして、大人も子供も、皆浮かれ、村全体が華やかな、お正月気分に包まれておりました。
観佐衛門は「あー、有難いことに、今年も何事もなく、全員、無事にお正月を迎えることができた。」
「あれからもう8年。これだけ何もなかったと言う事は、あのお坊様のお告げは、間違いだったということじゃないだろうか。
こういうのを『弘法も筆の誤り』と言うのだろうな。
それとも、私の願いを、仏様がお聞き届け下さって、お助け下さった御蔭なのだろうか」と思いながら、何年ぶりかの心安らかなお正月を過ごしました。
所が、節分も過ぎ、春がもう、すぐ近くまでやってきていると言う3月の初めになりますと、妻と母親の二人を、悪性のはやり風邪によって、続けて亡くしてしまいました。
不幸はそれだけで終わりませんでした。
その年の5月下旬の事でした。
数日にわたって、これまでこの地方では、あまり経験した事のなかったような大雨が降り続きました。
そして、運が悪い事に、それが、毎年この頃になると起こってくる、山の雪解け水と重なって、村落の両脇を流れていた二つの川が大氾濫を起こしてしまいました。
それまで、水から村落を守ってくれていた土手は、あちらこちらが切断され、大川から流れ込んできた濁水は、田植えが終わったばかりの田や、発芽して間もない畑の作物の殆どを、それは全て観佐衛門の小作地でしたが、それらを、泥水の中へと、沈めてしまいました。
早くから警戒していたせいもあって、人的な被害は殆どありませんでした。しかし物的な被害は大きく、観佐衛門の家のような、やや高い所にあった、数軒の家を除いた、村落の家々の殆どが、水に浸って(つかって)しまいました。
決壊した土手の前にあった家々にいたっては、土地ごと家が削りとられ、押し流され、何もなくなってしまいました。
濁水によって流されなかった家々も、多くは、田んぼの中の低い土地に建っていましたから、その多くは、床上数間以上〈一間は6尺、1.8メートル〉酷い(ひどい=厳しい)家にいたっては、軒下近くまで、濁水に浸かってしまい、そのため、家財は言うまでもなく、衣類も、寝具も食料も、その殆どを駄目にしてしまいました。
排水設備が、まだ整っていなかった時代です。一旦、輪中(わじゅう=洪水から集落を守るため周囲を堤防で囲んだ地域)内に入った水は簡単にはひいてはくれません。
今回の場合、その上、大川そのものの水嵩(みかさ=水量)がなかなか減っていかずに、決壊後もなお数日間に亘って(わたって)、決壊した場所から大川の水が、流れ込み続けていましたから、余計に水が引いて行くまでには、日数が掛かりました。
床下程度の浸水に過ぎなかった家でさえも、以前の状態近く迄、水が引いていくには、一週間、殆どの家が、水が引く迄には、10日間以上もの日数が掛かってしまいました。
水害によって家の中に侵入してくる水は、水といっても、普通の水ではありません。屎尿(しにょう)と泥とが混じった汚濁水です。
(註:当時は、どこの家も、汲み取り式の便所でした。その上、田畑のあちこちに、肥え溜と言う、汲み取ってきた屎尿を溜めておく、カメが埋められていました。よって洪水の場合は、それらの屎尿がぷかぷかと浮き上がって、泥水と一緒に家の中にまで入ってきました)
その為、ほんの短時間の浸水であっても、その後の家の清掃と洗濯は大変です。
まして今回の場合のように、10日近くも水に浸っていますと、壁は剥落し、軒は傾き、床板、茣蓙(ござ)、布団、衣類、家具、食品等の殆どが、汚れ、ふやけ、腐り、使えなくなってしまっていました。
田畑の被害も甚大でした。
田植えが終わったばかりの苗や、苗床に残っていた苗も、そして芽を出して間もない畑の野菜類も、泥水に浸かっている間に、根や葉が腐ってしまったものが多く、半分以上が駄目になってしまいました。
残っている苗も、青葉は一葉か二葉しかなく、根もかなりやられてしまっていて、今年の収穫に多くは望めそうもなくなっていました。
水害の被害はそれだけでありませんでした。堤防の切れた近くでは、流れ込んだ濁水が、田や畑を削り取り川の流れに変え、その周辺には、大量の砂礫や石の塊、塵、この塵には、山の倒木、切り株、流された家の残骸や家具、家財などが入っていましたが、そういったものを運んで来て撒き散らし、作付が終わったばかりの田や畑上に、覆いかぶさり、広範囲にわたって、そういった物の積み上げられた川原へと変えてしまっていました。
田んぼの間を走っていた用水路も、ズタズタに寸断されました。
この為、かなりの水田が、湿地となり、またかなりの水田が、逆に水不足で、稲作には不向きな土地と変わってしまっていました。
水が引いていった後に見た村の惨状に、小作人達は動揺しました。
土手はあちらこちらが切れ、堤防の役目をなさなくなってしまっておりました。
このままでは、まるで川の真ん中に出来た、川洲(かわす)に家を建て、土地を耕し、作物を作っているような状態です。
少し雨が降っただけでも、それによって増水した大川の水によって、村全体が、水浸しになってしまう恐れがありました。
その上、借りていた土地の殆どが、作物が作れそうもない塵と砂礫の撒き散らされた、川原に変わってしまった人もいれば、屋敷も耕地も、川の一部になってしまっている人もいました。
大きな被害を受けたこれらの人達の中には、今後の年貢だとか、土手だとか、用水路の再建のために駆り出される事になるであろう、賦役(ふえき:労動の形で支払わされる地代ないしは貢物)などの事などを勘案したとき、このままこの村に留まっていたとして、果たしてここで、生きていけるのだろうかと、考え込んでしまいました。
もともと小作人達は、それほど豊かではありません。それ迄だって、生きていくのが一杯一杯の生活で、貯えなんか殆ど持ってない状態でした。
そこへ今度の水害です。
家だとか家財といった沢山の物を失った上、自分達の生活の糧を生みだしてくれる、借りていた土地までが、殆ど駄目になってしまいました。
その日の生活にも事欠くようになってしまった人達にとっては、年貢だとか、賦役といった義務は大変な重荷です。しかし藩におさめる年貢(藩に納める税金)などは、部落全員の共同責任です。自分の所が出さねば、他の人に迷惑をかけます。賦役だってそうです。輪中と言う水害を防ぐための共同防水組織の中で生きている以上、例え生活が苦しくても、隣近所の人との付き合いもあり、これらの義務は果たさざるを得ません。
とはいえ、小作人たちにとっては、ここは故郷です。流されたり、水に浸かったりして、無くなったとしても、住み慣れた家の跡があります。
親戚もいれば、友人もおります。
更にそこにはご先祖様から受け継いできた墓もあれば、産土(うぶすな)の社(やしろ)もあります。
貧しいながら、物を分かち合い、傷をなめ合うようにして生きてきた、親しい隣人もいます。
従って、非常に離れ難いものがあります。
にもかかわらず、それら全てを切り捨て、見も知らぬ土地へ、しかもそこへ行ったからといって、生活が保障されるわけでもないのに、移住を考えざるを得ないというのは、彼等にとっては、よくよくの事でした。

 

その19

観佐衛門も、小作人、特に水害に遭って困っている小作人たちの惨状を、手を拱いて(こまねく)見ていたわけでありません。
水没した家々から救出されてきた家族だとか、家が流されて無くなってしまった家族は、一時的に自分の家に引き取って、納屋だとか、離れといった、屋敷内に、一時的に住まわせました。
水が軒下まで来て、屋根裏で避難生活している人々には、水が引くまでの間、船で、お握りを配り歩かせもしました。
さらに自分の家の倉を開け、水害に遭って、その日の暮らしにも困っている者には、米、粟(あわ)、稗(ひえ)などといった食品を、当座用に配りもしました。
しかしあまりの広範囲で、多人数の被害です。
観佐衛門個人だけの力では限界があります。
藩からの援助もなしに、皆が満足するほど十分な事は出来っこありません。
だから、どれだけ観佐衛門が、一生懸命やっても、村人達を、これは殆ど観佐衛門の小作人でしたが、彼等を満足させる事は出来ませんでした。
彼等の口をついででるものは、不平不満と、陰口だけでした
観佐衛門にとって最も大切な事は、この村の再生を図る事でした。
観佐衛門はこのために、自分の家の事も、自分の身体の事も、ひとまず脇に置いて奔走しました。
喫緊の課題(きんきつのかだい=差し迫ってやらねばならない大切な課題)は、決壊した堤防や、寸断された用水路の再建でした。
そして次は、砂礫と塵に埋まった農地の再生でした。
観佐衛門は知人、親戚を訪ね、惨状を訴え、復旧への援助の手の差し伸べを、頼み歩きました。
無論、藩の方にも、お救い米の放出と、村の再建への援助をお願いしました。
しかし、川の真ん中の浮洲と変わってしまったそんな場所の援助を、申し出てくれる所はありませんでした。
藩の方も、再三再四のお願いにも関わらず、藩財政がひっ迫している事を理由に、良い返事はくれませんでした。
観佐衛門のこんな苦労を知らない小作人達は、その日の食べ物にも困るような状態も、一向に進まない堤防の復旧も、漠然とした明日への不安も、全て地主である観佐衛門の至らないせいだと極め付け(決め付け)、その怒りの矛先を彼に向けました。
彼等は寄ると触ると、地主であり、名主でもある、観佐衛門の悪口ばかり言うようになっていきました。

 

その20

梅雨時を控えている事もあり、観佐衛門は焦りました。
堤防の決壊した場所から流れ込む、川の水を堰き止め、そこに仮の堤防だけでも作らないと、梅雨時の雨による増水で、この村は、再び水浸しになってしまう恐れがあります。
どこからの援助も当てにならない以上やむなく観佐衛門は、自力で、(堤防の)決壊部分を締め切り、仮堤防だけでも作る事にしました。
そこで、それまで、代々に亘って資金の運用を任せていた、桑名にある廻船問屋を訪ね、運用金の一部を繰り上げて返済してくれるように頼みました。
所が悪い事は重なります。
その廻船問屋では、「今年の春、時化(しけ)で、持ち船のうち二艘を、失くしてしまいました。そこで、なんとかこの損害を挽回したいと思ったものですから観佐衛門殿始め、お金の運用を任されていた、いろいろな人のお金までも、一時的に流用して、新しい船を作ってしまいました。
更に、その船団に積み込む荷物を買い入れる為だとか、船乗りを雇い入れる為などに、あちらこちらから、借りられるだけ、借りてしまいました」
従って、今すぐには、お望みの金額を準備するわけにはまいりません。
もしどうしても、すぐにその金額のお金が必要とおっしゃるのでしたら、私どもとしましては、今持っている物、全てを売り払って清算するより仕方がなくなってしまいます。
しかしそうなりますと、あちらこちらの借金も同時に清算と言う事になりますので、お宅にお戻しできるお金は、多分、ほんの僅かと言う結果になってしまうと思います。
私め(わたしめ=自分のことをへりくだって言う表現)も、このまま終わる心算はございません。
幸い、新しく作った船も、順調に江戸との間を行き来するようなっております。
前から持っていた船も無事動いております。
だから、必ず盛り返せると思いますので、今しばらくの御猶予、なにとぞお願いします。誠に厚かましいお願いで恐縮でございますが、後3年ほど、お待ちいただきたいのでございますが。
そうしていただきましたらその時は、お預かりしているお金は、お礼も兼ねて、倍にしてお返しさせていただくつもりでございます。
そういった事情でございますから、今日の所はこれだけでご勘弁願えないでしょうか、
これが、今の私どもに、掻き集めることのできる限度でございます」と言って500両ほどのお金を差し出されました
「今ここで、無理して資金の回収を図っても、この人の言うとり、お金は、殆ど、戻ってこないだろう。
にもかかわらず、ここで無理をして資金の回収を強行すれば、相手を倒産に追い込み、元も子も無くしてしまうだけでなく、連鎖倒産をおこさせ、失業と言う、不幸な人達を増やす事になってしまうだけだろう」
「長年にわたる、こことの取引で、この人の人柄も分かっており、嘘を言ったり、騙したりする人ではない事はわかっている。
だったらここは、相手の言葉を信じ、そのまま帰るより仕方があるまい」と、500両のお金を受け取っただけで、すごすごと(元気なく)帰ってまいりました。

続く