No.170 一粒の米にも その5

(おばあちゃんの昔話より)

このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物や、実際に在った出来事とはとは関係ありません

「旦那様は、あのお方の事をインチキ坊主とおっしゃいますが、あの方は、決して旦那様が思っていらっしゃるような、怪しげなお坊さまではありません。ほんとうにお大師様その方だったに違いないと、私達は確信しております。
旦那様が、常日頃からおっしゃっていますように、この世は無常でございます。明日、何が起こるかは、私どものような凡人には見当が付かないのが、現世でございます。
だから、もしあのお坊様のお考えが、間違いで、例え将来何も起こらなかったとしても、今の内から、備えだけはしておかれても、損はないのではないでしょうか」
「それで、あの方は、何が起こり、何を準備しておけとおっしゃっているのだ。」
苛立たしそうに、観佐衛門が問いかけます。
自分の家の事を思って言ってくれる、お兼の真剣な言葉に、観佐衛門もさすがに耳を貸さないわけにはまいりません。
「お大師様にも詳しい事は分かっていらっしゃらないのか、あるいは、未来の事をあまり詳しく話して、歴史に干渉することになってはいけないと思われて、お話にならなかったのか、はっきりとは仰って(おっしゃって)下さいませんでした。」
「それでは、何が起こるかもわからないものに、どう備えよというのか?
備えようがないではないか。」
「そんな事はありません。この家やこの村が滅び、お坊ちゃまがお一人取り残される事になったとしましても、その時のお坊ちゃまの苦労が、少しでも、少なくなるようにしておいてあげる事が、大切なのではないでしょうか」
「またまた、僭越な事ばかり申して、申し訳ありませんが、今日は、思い切って言わせていただきます。
旦那様だって、もうとっくにお気付きなっているので事と思いますが、お坊ちゃまの事を、他人の子として、冷静に、御覧になってくださいませ。
今のお坊ちゃまで、将来、一人取り残された時、幸せに暮らしていけるとお思いでしょうか」
「いくら贔屓目に見ても、到底そんな風には、思えないのではないでしょうか」
「『教育したり、働かせたりするには、未だ早すぎる』とお思いになっていませんでしたか。だったら、幾つになってそれらを、始めさせるのが、良いのでしょう?」
「貧しい小作の子供達は、7歳にもなれば子守や丁稚奉公に出されていますよね。そうでなくても、10歳にもなれば、みんなもう一人前に田んぼで働かされています。
女中のお米(よね)だって、10歳にもならないうちからここに来て働いているではありませんか。
それを見て、『こんな小さなうちから、働かされて可哀そう』とお思いになられましたか。そんな事はございませんでしょう」
「このまま、働く人への感謝も、働く事の尊さも知らないで、贅沢三昧、物のありがたさも分からないような子に育ってしまわれて、本当によいのでしょうか。」
「このまま、乳母日傘(おんばひがさ)で育てて、世間知らずにしてしまった場合、一人になられた時、この厳しい娑婆(しゃば=現世)を無事に、渡っていけるとお思いですか」
日頃控えめにしていて、自分の意見なんか滅多に言った事のなかったお兼の口から、まるで憑き物(つきもの)でも付いているかのように、次から次へと飛び出してくる、厳しい指摘の数々に、観佐衛門は呆気(あっけ)にとられてしまいました。
そして最後の方は、もう黙って、ただ聞き入っているだけとなってしまわれました。

 

その14

観佐衛門には、お大師様と思われる托鉢僧と、お兼の指摘は、もっともだ、とは頭では分かっていました。
しかし人間、嫌な話だとか、不安にさせられる話だとからは、目を反らし(そらす)、耳を塞ぎ(ふさぎ)、それから逃げたいと思うのが普通です。
観佐衛門の場合も、こういった厳しい忠告はなかなか受け入れる事が出来ませんでした。
僧侶の指摘が、自分と自分の家の未来についての、あまりにも暗くて厳しいお告げを伴っていましたから、否定し、無視したいという気持ちの方が強く働いて、耳を塞いでしまったからです。
従って、気にはなっていましたが、直ぐには動き出そうとはされませんでした。
お兼も、使用人と言う立場上、それ以上に、口出しする訳にもまいりません。
だから、ただやきもきしながら、見守るより仕方がありませんでした。
こうして、時間だけがどんどん過ぎ去っていきました。

 

その15

それから8年余の月日が流れました。その間も、八代目青木観佐衛門の家には、別に変わったことは何も起こりませんでした。
その年のお正月も、家族、使用人とも、全員無事に、何事もなく、新しい年を迎えました。
あの、祐貞も、もう18歳、背丈は随分伸び、外見的には,大人と全く変わらなくなっておりました。しかし、身体付きは、やや華奢(きゃしゃ)、性格的には、まだ幼さが残っております。
また、祖母、母、女中達等といった、女ばかりに囲まれ、チヤホヤして育てられた関係で、どちらかと言うと、気弱で、内弁慶的な所が残っておりました。
従って人付き合い、特に男との付き合いは苦手で、男友達は殆どいません。
しかし甘え上手で、女中たちからは、とても人気がありました。
女中たちは皆、「祐貞の困った顔、何かしてほしそうな顔を見ると、頼まれなくても、手助けしたくなってしまう」と言っておりました。
その為、直ぐに人を頼りにし、少し頼りなさを感じる所が残っておりました。
贅沢で、物の有難みを知らない、物を大切にしないという欠点は、幼い頃と、あまり変わっていませんが、子供時代のあの癇(かん=怒りやすい性質)の強さや、傍若無人な横柄さは、影を潜め、外目には、とても礼儀正しい、愛想の良い若者となっておりました。
しかし、人と競争しなくてもよい環境だとか、物に不自由しないで済む環境などといった、豊かな育ちが作り出した、物に執着しない気の良い性格や、人を疑わない素直な性格、人を押しのけたり、蹴落とそうとしたりしない、おっとりした性格等は、あまりにも良過ぎて、独り立ちした時、果たして、この厳しい世の中を渡って行けるのだろうか、と言う危惧が付き纏って(つきまとって)おりました

 

その16

この8年間、観佐衛門の頭の中から、あの僧侶の残していった、不吉なお告げが消え去ったことはありませんでした。折に触れ、あの滅びのお告げが、頭の中を過ぎって(よぎって)は、不安を甦らせます。
お兼の言う事に反発し、最初は無視しようとしていた観佐衛門でしたが、さすがにいつまでも、それに抗って(あらがる)いる事は出来ませんでした。やがて少しずつですが、万一に備え、貯えを増やすようにすると同時に、祐貞の教育にも、目を注ぐようになっていました。
観佐衛門は、祐貞が15歳を過ぎた頃からは、地主としての仕事を、少しでも頭にいれておいてもらおうと、小作地の管理、小作人の監督、農作業の指揮、作柄の点検などなどの時、書記代わりとして、(祐貞を)連れていくように心掛けるようになりました。
習い事についても、寺子屋で習った読み書き・そろばんといった習いごとで終わらせるのではなく、より教養を深めるようにと、寺子屋を終えた後も、師匠寺の和尚さんに頼んで、広く一般教養を身につけられるよう、特別教育を受けさせました。
祐貞も、勉強は嫌いでありませんでした。
どちらかと言うと、身体を動かす事は若干、苦手でしたが、本を読んだり、考えことをしたりする、頭を使う方は得意でした。
それに、和尚さんに習う時、観佐衛門の遠縁にあたっている、女中のお米が一緒という事も、(だからといって、その当時は、別に特別どうこうという感情を持っていたわけではありませんでしたが、)可愛い女の子と一緒という事で、なんとなく心が弾み、それが一層の励みになっておりました。

 

その17

あの女中のお米も18歳になっていました。
彼女は、観佐衛門の遠縁にあたる娘です。彼女が8歳の時の冬、その地方を襲った、はやり風邪で、両親を始め身寄りを亡くし、孤児となってしまいました。その時、それを哀れんだ観佐衛門によって、引き取られて、下働きをさせられていました。
右手が多少の不自由と言う弱点は持っておりましたが、もともと利発な所のある子でした。観佐衛門の遠縁にあたっていた上、夫婦の間には娘がいなかったせいもあって、特に目をかけられ、可愛がられておりました。
彼女、下働きこそさせられておりましたが、他の女中達とは違って、礼儀作法から、家事全般に亘って、良家の子女として、どこに出しても恥ずかしくないように、人並み以上に躾け(しつけ)をうけておりました。
それどころか、その利発さを買われ、その頃の女の子には珍しく、読み書き・そろばん、帳面の付け方まで、みっちりしこまれました。
彼女はもともと、可愛らしい顔立ちでしたが、ここ1、2年の間に、蛹(さなぎ)から孵った(かえった)蝶のように、容姿の整った、しっとりとした、とても美しい娘に成長しておりました。
その上、お米は、あの日以来、お大師様の教えに背かぬようにと、日夜心掛け、どんな仕事でも、陰日向(かげひなた)なく、心を込めて行うようにしました。
また困ったり、弱ったりしている人を見かけた時には、貧富、外見によって差別するような事はせず、どんな人に対しても、優しく、親切に、手を差し伸べ、その時自分のできる、精一杯の事をするように心掛けておりました。
したがって、男女を問わず、誰からも、好意をもたれておりました。
その評判は日ごと高くなり、それを聞きつけた、近在のあちらこちらの家から、縁談がもちこまれるようになっておりました。
しかし観佐衛門夫婦は、お米を手放したがりませんでした。
中には、大変お金持ちからの縁談もありましたが、お米に知らせる事も無く、断ってしまっておりました。
当時は18歳と言えば、もうお嫁にだしても別に不思議でない年齢でした。
観佐衛門夫婦としては、頭が良くて、よく気が付くお米の事を、最近では、娘のように思っておりましたから、結婚相手に対する条件が厳しくなって、なかなか決める事ができなかったのです。
それと、できたら、近くに嫁入りさせて、将来、一人息子である祐貞のよき相談相手になってほしいという思いもありました。だから、余計に、なかなか手放す気になりませんでした。
したがって、女に学問なんかと、言われている時代であったにもかかわらず、祐貞が学問所に通うようになった時、これからの女は、男に負けないくらいの学問を身につけておかなくてはと言って、彼女にも、同じ学問所に通わせました。
お米は利発な上に、とても考え深く、慎み深い娘でした。
自分の立場を良くわきまえていて、習いに行っている時でも、何時も控えめにしていて、祐貞を立て、自らの頭の良さをひけらかし、祐貞に先んじようとするような事は決してしませんでした。
しかし、それにもかかわらず、言葉の端々に現れる、彼女の知識と判断力が、時々、祐貞を脅かしました。
何時か、追い抜かれるのではないかと言う危機感に、祐貞はいつも追い立てられていました。
(註:当時の風潮に従って、祐貞は、学問の分野で、女なんかに負けるなんて、恥と考えておりました。)
結果においてそれは、観佐衛門夫婦の思惑通り、祐貞の競争心を煽り、勉学心を高めるのに、役立ちました。
和尚さんは、学問を教えてくれただけではありませんでした。折に触れ、繰り返し、繰り返し、仏の教えや、人が人として歩むべき道についても教えてくれました。
これは、祐貞の、生涯の、大きな道導(みちしるべ)となりました。

次回へ続く