No.167 一粒の米にも その2

このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物とは無関係です

その3

それは、その祐貞が、ちょうど今のお前くらいの年になった、夏の初めの事でした。
八代目観佐衛門さんの家の門辺(かどべ)に、一人の托鉢僧が立ち、読経を始めました。
昔から、師承寺(ししょうじ=門徒が所属する寺)の一番門徒として、寺のお世話役を一手に引き受けているほどに、信心深い観佐衛門さんの家です。
使用人達は、常日頃から、托鉢の僧侶を見かけたら、丁重にお接待をする(遍路をしている人に地元の人が食べ物や賽銭を差し出すこと)ようにと、言いつけられておりました。
従ってその日も、托鉢僧の読経の声と、チリン、チリンと鳴らす鈴の音を聞きつけると、使用人達は、日頃から、言いつけられている通りに、早速、僧侶を屋敷内に招き入れ、一休みしていかれるようにと勧めました。
年はもう60歳も大分過ぎていると思われるその僧侶は、小柄で、痩せこけ、顔は真っ黒に日焼けし、皺と染み(しみ)が顔全面に広がり、口の周りから顎にかけては、髭が伸び放題に伸びておりました。
垢と埃に塗れ(まみれ)、染みと皺だらけのその髭面は、見るからにみすぼらしく、その小柄な体格とも相まって、何とも貧相で、小汚い感じです。
しかし笠の下に隠されている目には、どんな人の心も見透かしてしまうかのような、鋭さと、悩んだり、苦しんだりしている人の心を優しく包み込んで安らわせてくれそうな、温かい光を宿しておりました。
ずいぶん遠い道のりを歩いてこられたと見え、僧侶の草鞋(わらじ)は、紐の一本が千切れ(ちぎれ)そうになり、更に、あちらこちらが擦り減ってしまっていて、もうこれ以上は用をなさないのではないかと思われるほどとなっておりました。
汗と垢に塗れた(まみれる)法衣には綻び(ほころび)が目立ち、そこから立ち上ってくる、饐えた臭い(すえた:腐った食べ物が出す、酸臭の混じったむっとするような臭い)は、思わず鼻をつまみたくなるほどで、こういった托鉢僧の扱いに慣れた女中たちでさえも、「上にあがって、一休みしていってください」と口にするのを一瞬、躊躇(ためらう)わせたほどでした。
その為、女中達は、その僧侶のお接待役を、まだこの家に勤めに来て間もない、右手のやや不自由な下働きのお米(よね)一人に押し付け、皆、それぞれ、自分のやりかけの仕事の方へと散っていってしまいました。
数えで10歳(いまの満年齢では8歳くらい)の、幼さの残っているお米は、少女特有の潔癖さで、男の人のすぐそばに寄らなければならない、通常のお接待役でさえ苦手でした。その上、今日のお坊さまは、むさ苦しい風体(ふうてい)をし、破けた衣服の下からは、所々黒い肌が露出し、饐えた(すえた=食べ物が腐って酸っぱくなる)男っぽい臭いが立ち上っています。
そのため気持ちが悪くて、とても嫌でした。
しかし一番下っ端の悲しさ、言い付けられた以上、その役を、一人でやり遂げるより仕方がありません。
仕方がないので、何時も皆がやっている通りに、そのお坊様に、お勝手の上り框(かまち)に腰掛けてもらうと、冷やしたお茶を差し出した後、草鞋を脱がせ、足を洗い始めました。
お坊様からは、饐えた臭いが、絶え間なく立ち上ってまいります。
彼女はその臭いを避ける為、息を詰め、顔を背け、出来るだけ、身体をお坊さまから離すようにしながら洗おうとしました。
しかし、幼い小さな両腕と、やや不自由な彼女の右手が、それを許してくれませんでした。結局、お坊様の足をしっかり攫む(つかむ)為には、右腕で足を抱え込むようにしながら洗わざるを得ませんでした。
次から次へと出てくる垢は、ちょっとやそっと洗ったくらいでは落ち切りません。
やむなく彼女は、何度も何度も水を変えながら洗いました。
「糞坊主め。『もうこれくらいでいいよ』といい加減に、言ってくれたらよさそうなものなのに。この坊主、一体何様のつもりなの」と口の中で、ぶつぶつ悪態をつきながら、それでも几帳面に、綺麗になるまで洗い続けました。
やっとの事で洗い終わった時は、彼女の忍耐はもう限界に近くなっておりました。
それでも彼女は、それを抑え、冷たい事務的な声で、「上にあがってお休みになりますか?」とお坊様を接待する時の、マニュアル通りに訊ねました。
しかしその声と態度には、幼さも手伝って、一刻も早く自分の前から消えて欲しいと思っているのが、ありありと現れておりました。
お坊様はそんな彼女の気持ちを、分かっているのかいないのか、「ありがとうよ」と言われると、上り框にどっかりと腰を落とし、しばらくの間、辺りを見回しながら、静かに休んでおられました。
お米は、そんなお坊様を見ても、もうまるで関係ないとばかり、完全に無視し、放ったらかしにしたまま、自分の行った水仕事の、後片付けに精を出しておりました。
しばらくの後、「ご主人、今日は、御在宅かな」とゆったりとした調子で、お坊様が話しかけてこられました。
「本日は所用で出かけております」イライラしているお米の、突き刺さるようにとんがった声。
「さようか、それならこれで御無礼するとしよう。えらくお世話になったなー。
ありがとう。ありがとう。御主人殿にも、よろしく言っていたと、お伝えしておくれ。南無遍照金剛。南無遍照金剛」といいながら、お米が差し出した、新しい草鞋を足につけられると、手を合わせ、足を引きずりながら、立ち去って行かれました。
その後ろ姿を見たとき、何故だか分りませんが、一瞬、お米は、チクリと突き刺さるような心の痛みが走るのを感じました。
「・・・・・・・・・・・・」黙って見送った彼女でしたが、その痛みの切れ端は後をひき、なかなか消え去ってくれませんでした。

 

その4

お坊さまが立ち去られた後、台所に集まってきた女中達は、しばらくの間、お坊様の話に、花を咲かせておりました。
「ああ臭、臭。窓も、扉も、しばらく開けっ放しにしておきなさい」
「それにしても汚い坊主だったわねー。あれ何処から来たと言っていた」
「どうせ無住の乞食坊主でしょ」
「ご主人様も、ちょっとは、わたしたちの身にもなって欲しいもんだわ」
「こんな道楽、もういい加減にしてほしいよねー。
お米、お前も、大変だったね。御苦労さん」
「お前も嫌だったろうに、よく我慢したわね。」
「一体、あのくそ坊主、何日間、お風呂に入ってないのだろうね。」
「私なんか、もう、近くに寄ってこられただけで、ぞぞ毛が立ったわ(ぞぞ毛が立つ=身の毛がよだつこと)。
お米、お前はよくやったよ。感心、感心。」
「お米。あの乞食坊主が腰掛けた所、きちんと拭いておいておくれ。ダニや虱(しらみ)が落ちているかもしれないからね」などなど、みんな勝手な事を言い合っておりました。
しかしお米は、何か心に引っかかるものがあって、他の女中達に同調する事も彼女達のように浮いた気分になれませんでした。
その時でした。上り框を見た女中の一人が、
「お米。お前、お坊様にお渡しする事になっている、御喜捨の品々をお渡しするのを、忘れたんじゃない?」と咎め(とがめ)ました。
言われてみれば、お坊様に差し上げる為に、いつも準備してあるお米、小銭、そしてお握りを包む用の葉蘭の葉、竹筒の水筒等といったお布施の品々が、そっくり準備した時のまま、置かれておりました。
女中頭は蒼く(あおく)なりました。
かねてより、御主人から、丁重に扱うように命じられている僧侶を、新米の、幼いお米一人に押し付けて接待させ、そのあげく、大失態を起こしてしまったのです。
そんな事が御主人に知れたら、大目玉を食うに決まっています。
「未だ遠く迄は、行かれてないだろうから、直ぐに追いかけて、お渡ししてきなさい」
「お米だけじゃ―、心もとないから、誰かほかにもう一人行ってくれる人は、いない?」と女中頭(がしら)。
その声に応じて、お兼(おかね)が
「わたしがまいりましょうか」と手をあげました。
お兼はどちらかと言うと、温和な性質で、思慮深く、40歳を少し過ぎているだけに、とても常識的な女でした。
しかし事なかれ主義で、何事につけても、角が立たないよう、仲間外れにされないようにと立ち回って、自分を出さない女でもありました。
従って今回の、お坊様のお接待についても、皆と同じように、幼いお米一人に押し付け、逃げはしました。ところが、元々はとても信心深い女でしたから、良心が咎め、内心では、自分のしたことを、とても悔やみ、心の中で、自分を責めていたところでした。
その為、お米と一緒に行ってくれる人をと、女中頭が言った時、真っ先に手をあげたのでした。
「お兼、そう、お前が行ってくれるの。お前が一緒なら一安心。きちんとお詫びをしてきておくれ」と言いつけると、女中頭は、そそくさと、奥へと入ってしまいました。
お米とお兼の二人は、御喜捨の品々を持つと、早速、出かけようとしました。
所が、その時でした。
少し前に、遊びから帰って、女中達の話を聞いていた祐貞が、にやにや笑いながら、二人の所に近寄ってきて言いました。
「お前達、慌てて追いかけようとしたって、その坊さんが、どちらへ行ったのか、知らないだろう。俺、知っているから、一緒に行ってやろうか」と。
一緒に行って、何かトラブルでも起こされたら大変と思ったお兼は
「大丈夫ですよ、お坊ちゃま。私たちだけで行ってまいりますから。どちらの方に行かれたか、方向だけ教えて下さい。」と返しました。
しかし祐貞は「ベーだ。おれを連れて行かないのなら、教えてやらなーい。教えて欲しけりゃ、おれのいうとおりにしろ」と言うなり、
お米の手から、お握りの包みをひったくり、先に立って、走り始めました。

 

その5

竹藪の中の道を走り抜け、広々と田んぼが広がる場所に出た所で、田んぼ道の彼方に、お坊さまらしい小さな人影が動いているのが見えました。
二人の女中は、「お坊様、お坊様、どうかお待ちください」と大声で叫びながら一生懸命追いかけました。
やっと追い付いた二人の女中は、
「先程は失礼しました。お立ち寄りくださったお坊様方に、お渡しするようにと、かねてより、主人から言いつかっておりました、御喜捨の品々を、お渡しするのをつい失念してしまいました。本当に申し訳ありませんでした。どうかお受け下さい。」と言って、米・小銭・竹筒の水筒を差し出しました。
それから祐貞の方を振り向いて、「さあ、お坊ちゃまも御挨拶をして、手に持っている物をお坊様にお渡しして」と申しました。
すると祐貞は「お前たちが噂していた乞食坊主というのは、こいつの事か。お前たちが言っていた通り、本当に汚らしい奴だなー。ほらお握りを恵んでやるから、もっていけー。」というと、托鉢僧の足元へと、お握りの包みを投げつけました。
運悪く足元に当たって跳ね返った、そのおにぎりの包みは、あぜ道をころがり、田植えをする為に、満々と水が張られていた田の端まで、転げ落ちてしまいました。
内輪の者達の中だけでしていた話をばらされ、耳まで真っ赤にした、お兼は、「もうお坊ちゃまったら。」と言いながら、あわててお握りを拾い上げました。
しかしお握りは、もうかなり泥水で汚れしまって、とてもお坊様に差しあげられるような状態ではなくなっておりました。
それをみたお兼は「申し訳ありません。本当に申し訳ありません。直ぐに、家に帰り、取り替えてまいりますので、どうかしばらくの間お待ちください」というと、早速家にとって返えそうとしました。
しかしお坊さまは、「良い、良い。構わぬ。構わぬ。水に浸ったからといって、どうせお握りを食べた後は、腹の中に入ってからお茶で潤す(うるおす)ものだから、後が先になっただけじゃ。ありがたく、それを頂こうぞ」
と言われると、そのお握りを押し頂かれ(物を目より高くささげて持つこと)、それを持って歩き初められました。
その後ろ姿を見た時、お兼は、お坊様の背中から、神々しい光の線が無数に差し出ているのに気付きました。
思わず道に座り込んだお兼は、お坊様の後ろ姿を伏し拝みながら、「尊いお方とは存ぜず、私どもがいたしました無礼の数々、どうかお許しください」
「ぼちゃま、お米、貴方達も、早くお詫びを。
姿はこのように、むさい姿に替えておられますが、このお方こそ、話に聞いている、苦界に苦しむ、私達衆生を救うため、入定後(にゅうじょう後:聖者がお亡くなりになった後)も尚、お姿をお変えになって、日本国中を歩いておられるという、霊験あらたかな(霊験がはっきり表れる)あのお方、そう、あの弘法大師様に違いありません。」
「さあ、早く今迄の無礼をお詫びし、これからのご加護をお願いなさい」と二人にもお詫びをするようにと促しました。
しかし信じる心を持たない二人には、托鉢僧の本当の姿を、理解する事が出来ませんでした。二人はお兼(おかね)のする事を、ただきょとんとした眼で、眺めているだけでした。

続く

No.166 一粒の米にも その1

このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物とは無関係です

始めに
昭和の初期といいますと、まだほんの少し前のような気がしますが、私達の目に入ってくる風景も、人の心も、随分変わってしまいました。
昭和の初期には、神様も仏様もまだ、私達のごく身近にいらっしゃる存在でした。
太陽はお日様ないしはお天道様〈おてんとうさま〉、月はお月様といって、朝には一日の無事を祈り、夕には何事もなく一日を終える事が出来た事に感謝の祈りを捧げていました。
人々はまた、風は風の神様が司り、雨には雨の神様が、水には水の神様がいらっしゃると信じていました。更に高い山々や、年代を経た木々、雄大な滝、大きな河、巨大な巌(いわ)に神々の存在を感じていました。
自分達の日々の生活を守り、命を繋いでいてくれているもの、それは、自分達の住むこの山河においでくださる、そういった八百万(やおよろず)の神々である事を信じ、それを疑う者など殆ど、いませんでした。
当時の農村は、水は清らかで、空は澄みわたり、のどかな時がゆったりと流れている、とても牧歌的な時代でした。
しかし生活はどの家も貧しく、着るものは木綿で継ぎ接ぎ(つぎはぎ)があるのが当たり前、食べるものはと言えば、白いご飯などといったものが、常食できるのは、大商人か大地主などと言ったごく限られたお金持ちだけ、殆どの家は、お正月とか、お祭りといった特別な日以外は、麦や、稗(ひえ)、黍(きび)、粟(あわ)と言った、雑穀混じりの御飯だとか、市場に出す事のできないくず米で作った団子だとか、蕎麦、芋等の類で命を繋いでおりました。

 

その1

私が10歳になった頃の事だったでしょうか。田舎にある母の実家に遊びに行った時の話です。
都会育ちの私にとっては、そこは珍しい物、楽しい物に溢れ、冒険心を充たしてくれる、遊びの宝庫のような場所でした。そこでの遊びの楽しさにすっかり虜になってしまっていた私は、私達を歓迎して、せっかく用意しておいてくれた昼食も、咽(のど)に流し込むようにしてかけ込むと、「御馳走様」という食後の挨拶も、そこそこに(適当に終わらせるの意)、すぐに外に飛び出していこうとしました。
その時の事でした。
「哲、そこに座りなさい。」という怒気(どき)を含んだ祖父の厳しい声。
私はもともと祖父が苦手でした。
彼は、普段からとても無口で、いつも気難しい顔をして座っていて、何を考えているのか
窺い知れない人でした。
その為、家族からも、どちらかというと煙たがられていました。
娘である私の母と、外孫の私とが訪ねて行った時などでも、気難しそうな顔を、ちらっと、こちらに向けてくれるだけです。
親しい言葉を掛けてくれた事など、まずありません。
来訪の挨拶をしても、「アッ」とか「ウン」といって軽く頭を下げてくれるだけで、それだけです。
だから祖父と会話を交わした記憶は殆どありません。
その祖父の一言です。
それだけに恐ろしく、思わずそこに、ぺたりと座りこんでしまいました。
その家では、祖父以外は、いつもとても優しく、それまで、何をしても怒られる事も無く、比較的自由気ままにさせてもらっていました。
それだけに、祖父の厳しい咎め(とがめ)だての言葉は、堪え(こたえ)ました。
わけがわからない恐ろしさで、半べそをかきながら、うつむいたまま、手を膝の上において、座っておりました。
二人の間には、しばらく沈黙の時が流れました。
祖父の厳しい目線を意識しながらのそれは、私にとってはとても長い時間のように思われました。
やがてその沈黙を破って祖父が、
「哲、どうして呼び止められたのか、分かっておるか」と問いかけてきました。
それまで遊びに浮かれていて、何も考えてなかった私には、そんなこと分かるはずがありません。
私は只黙って、首を横に振りました。
「分からんのか。茂子(私の母親の名前)、この子に、何も教えてやっていないのか。」
この子の御飯の食べ方は一体何なんだ。
この年になっても、未だに、こんな食べ方とは。
鶏の食べ後みたいに、ご飯粒を食べ散らかしおるなんて、このままじゃ、何処にもだせるもんじゃないぞ。
お前ん家(おまえんち)の恥だと思いなさい。
哲に、こぼしたご飯粒をきちんと拾ってたべさせなさい。
お茶碗に残っておるご飯粒も、一粒残さず、綺麗に食べさせなさい。
それが終わらんうちは、外に出す事はまかりならんからな」
「房乃(おばあちゃんの名前)、お前も、お前だ。お前らが、ただただ甘やかすだけだから、こんな子になってしまったんだぞ。
甘やかすのは、もういいかげんにして、ここらで人間としての大切な事を、ちゃんと教えてやったらどうだ。
もういい年なんだから」
「ちょうど良い機会だから、今日は、昔、隣村の、八代目観左衛門さんの所の、息子の身の上に起こった話を聞かせてやりなさい」
「これくらいの年のうちから、物を大切にする気持ちだとか、天地の恵み、そして人の恩に対し、感謝する心を、覚えさせておかないと、後になって、この子が苦労することになるんだからな」
というと、そのまま奥の部屋の方へ引っ込んでしまいました。
「哲ちゃん、びっくりしたやろ?
でもね、おじいちゃんは、ああいう人だけど、間違った事は言わん人だからね。
怒られたからといって、恨んじゃいけないよ。
お前の為を思って言ってくれているんだからね」
「ちょうどいい機会だから、今日はおじいちゃんの言う通り、観佐衛門さんのとこの祐貞(すけさだ)さんの話を知ってもらうことにしようね」とおばあちゃん。
おばちゃんの話。

 

その2

昔、と言ってもそれほど大昔の事ではありません。これはね、今から250年位も前の事でしょうか、徳川様の時代のお話です。
このお隣の村に、青木観佐衛門さんという、代々庄屋を務めていた大地主がいました。
ある年、長い間、子供がなかったこの家、八代目観佐衛門の所に、待ちに待った子供、それも男の子が授かりました。
祐貞(すけさだ)と名付けられたその子は、その家のたった一人の跡継ぎとして、勘左衛門さんとその家族は言うまでも無く、その家の使用人達だとか、観佐衛門さんの所の小作人達からまで、とても大切にされ、お坊ちゃまとして、チャホヤして育てられました。
子供時代の彼は、何をしても、何を言っても、回りの者から注意されたり、咎められたりするような事など殆どありませんでした。
自分では、何かをしなくても、ぼーっと両手を挙げて、待っているだけで、いつも誰かが、先回りして彼が欲している事をやってくれました。
その為どうしても、依存心が強い上に、我儘で、自分勝手、人の痛みが分からない子になってしまっていました。
更に人から、何をしてもらっても、それが当たり前で、人に何かをしてもらったからと言って、その人に感謝するとか返そうとする気持ちなど全くないという、お山の大将に育ってしまいました。
両親や、祖父母から、欲しがるものは何でも買ってもらえました。
その上、彼の御機嫌をとって、観左衛門からうまい汁を吸おうとする輩が、いろいろな物をプレゼントとして、持ってきてくれますから、家の中は物に満ち溢れ、物の有難味もわからなくなっていました。
その為に、物を大切にする心も、物に感謝する気持ちも失くしてしまっていました。
回りの人の中には、「あんな、小生意気で、我儘に育てて」と、眉を顰めて(ひそめる)いる人もないではありませんでした。
しかし何しろ、大地主にして、大庄屋の、大事な、大事な跡取り息子の事です。
後難を恐れ、直接咎めだてをしたり、注意をしたりする人は出てきませんでした。

続く