No.150 ある文化人の転落の軌跡 その3

その7

結局、集まったお金では、今回借りる事になっている、アジア工芸美術館を補修する費用だとか、館内を絵画美術館用に改修するための費用にも足りませんでした。
しかし最後まで残ってくれている、花咲先生の教え子だった絵画塾の先生にしても、「花咲かおる」のフアンと称する、お琴の先生にしても、足りないお金を出してくれるほどの金銭的余裕などはありません。
結局は井田氏が、全て自費でそれをするより仕方がありませんでした。
しかしその時点では、井田氏はまだ、「まほろば」の人が試算してくれた、この美術館の収支計算を固く信じておりましたから、美術館を開館しさえすれば、そんなお金はすぐに取り戻せると思っておりました。
実際に、いろいろな事業に携わって(たずさわる)きている人達は、そんな杜撰な(ずさんな)事業計画書を信じるほど甘くありませんでした。
むしろこういった文化事業は、よほどしっかりした後援者を捉まえるか、沢山の基金を集め、更に、よほど正確な収支計画書をつくり、それを見極めてから始めないと、底なし沼に、お金を放り込むような結果になってしまう恐れが多いと思っておりました。
それゆえに、そういった人達は、美術館設立計画が進むにつれ、現地を見に行く事もせずに、他人の言う事を鵜呑みにして、どんどん計画を進めていこうとする井田氏の無謀とも覚える事業計画に不安を覚え、このままこの運動に関わっている事の危険性を察知し、この計画から離れていきました。
そう言った人の中には、いろいろ忠告してくれた人もいました。中には基金の集まりが悪いのを見て、計画の変更や、美術館設立計画そのものの中止を勧める人もいました。
しかし美術館設立熱に浮かされてしまっていた井田氏には、そんな忠告耳に届きませんでした。
それを言ってくれている人自身に、何か下心があって、為にする発言(=悪口・中傷)だと誤解してしまったからでした。
美術館設立準備に加わった人の中の殆どは、経営と言う事を全く知らない人達がほとんどでした。
しかし、そう言った人達は、そう言った人達で、館長になる井田氏一人が、良い思いをする為にしているのではないかと疑って、その中の、かなりの人達が、陰口をたたきながら離れていきました。
確かに、その非難は、全く的が外れていた訳ではありませんでした。
館長の井田氏も最初は、純粋に、「花咲かおる」の挿絵本原画を保存しなければという善意から始めた運動でした。
しかしみんなにまかされて、それを進めていくうちに、うまくいけば、館長として、美術館を中心にして、飛騨地方の文化を守る砦をつくり、そこの旗手という、名誉ある第二の人生を送れるのではないかと言う密かな(ひそかな)野望を持ったことも確かでした。
でもそれ以上、それによって金銭的な利益を得、自分の懐を肥やそう等と言う、下賤な思いは抱いてはいませんでした。

 

その8

美術館の経営は、開館当初から、思わしくありませんでした。
それでも美術館開館後しばらくの間は、世の中、バブル時代の余韻がまだ残っておりました。
その為、テーマパーク「まほろば」にも、有名シェフや、京都や東京の有名料理店がオーナーとなっている、世界の、いろいろな国の料理を味わう為にやってくる入園者だとか、飛騨、美濃地方の銘酒、名産、そして作家の手になる食器などを買い求めるためにやってくる観光客が、それは最盛期ほどではありませんでしたが、それでもそれなりに観光バスを連ねてやってきていました。
こうしたお客のうちの幾許かは、ついでに花咲かおる挿絵美術館を覗いてくれましたし、その頃はまだ、お隣の子供遊園地から回って来てくれる入館者も多少はいました。
だから一日50人から100人ほどの入館者がありました。
しかしその程度の収入では、家賃と、従業員の給与支払い代金にも足りません。
彼が目論んでいた、ここを拠点にして、飛騨地方の文化向上を図る運動をするどころか、水道光熱費だとか、建物の修繕、維持費(註参照)、美術館の為に借りた、借金の利息や元金の支払いに追われ、その金策に走り回るだけで、精一杯の日々となってしまっていました。
(註:一般にこういったテーマパークの建物というのは、外国の歴史的建造物を真似して作られていて、外見は頑丈そうに見えるのですが、実質は外見を似せただけの張りぼての建物です。従って建築後日を経ず、あちらこちらが、痛んでまいります。
こういった修繕費については、一般的に、建物の構造的部分の修繕費は家主がもってくれる契約になっていますが、建物の内部については、借主の責任でしなければなりません。
しかしテーマパーク「まほろば」のほうも、その頃は経営が一杯一杯で、苦しくなって来ていましたから、いくら申し出ても、殆ど修繕してくれません。そうなりますと、雨漏りだとかトイレの修理のような、美術館をやっていくための最低限度の修理は、身銭を切ってでもやらざるをえませんでした。)
最初、集めた基金は、美術館の改修費だとか、補修費だとかに、とっくの昔に消えてしまっており、残っておりません。
設立運動に加わった仲間たちもあらかた離れてしまい、残ってくれている三人は、お金とはまったく無縁の人達でした。
従って足りない費用の調達は、全て井田氏一人の肩に掛かってまいります。最初のうちは自分の貯えを崩したお金だとか、家を担保にして借りたお金だとかで、なんとか凌いでおりましたが、個人の資力では限りがあります。
そんなお金は直ぐに底をついてしまいました。
井田氏は、この美術館の存続意義を説明して必死に金策に走りまわりましたが、既に設立に際して、ある程度協力してくれた企業や個人は、もはや、話をきいてもくれません。
知人友人を頼って、それ以外の企業や、有力者の所も回りましたが、何しろ「花咲かおる」と言う挿絵画家の名前すら知らない人が殆どで、そんな人達に、美術館の意議を知ってもらうのは、とても難しく、当てに出来るほどの寄付金を集める事はできませんでした。
それどころか、詐欺師か押し売りででもあるかのように、追い返されてしまう場合も少なくありませんでした。
悪い事に、そうしている間にも、バブル崩壊の影響は、次第に末端にまで浸透してまいりました。
それにつれ、テーマパークを訪れる人はどんどん減っていきました。
有名シェフだとか、有名料理店の名を冠した、いろいろな国の食事館も、次々と撤退していってしまいました。
それと共に、美術館への入館者も激減し、開館して一年も経たないうちに、入館者は、一日10人にも満たないようになってしまっていました。

 

その9

井田氏の奥さんは、美術館の設立に、始めから、あまり賛成ではありませんでした。
彼女は、どちらかと言うと、冷徹な現実主義者でした。
従って「美術館なんか、よくよく話題になるような作品を沢山抱えていて、その上、財政的に、よほどしっかりした基盤をもっていない限り、経営が成り立つはずがない。まして花咲かおる等と言う、殆ど人に知られていないような作家の個人美術館なんか、やっていけっこないにきまっている」
「主人は、『“花咲かおる”の絵本を、見て育った世代の人間が、全国的に散らばって存在していて、美術館ができたと聞けば、そう言った人達が、懐かしがって見に来るようになる違いない』と考えているようだけど、そんな事起こるはずがありません。
子供達って、絵本を読む時,その絵本の作家が誰だったかなんて、気にかけていませんから。
私の場合、子供時代に読んだ絵本の事なんか、話のあらすじは覚えているけど、その時の、絵本の絵がどんな絵だったかと言う事すら記憶が無いくらいです。だから、そんな美術館ができたとしても、ついでの時があれば、一度くらいは、覗いてみるかもしれないけれど、わざわざ交通機関を使ってまでして、そんな所へ行く気にはなりませんもの」
「だからそんな美術館は、うまくいかないに決まっていますから、お止めなさいよ」といと言って、強く反対しました。
それ故、井田氏が、美術館の為に、夫婦で貯めてきた貯えも、井田氏の教職員時代の退職金もつぎ込もうとした時、既に必死にとめました。しかし、それにもかかわらず、それをつぎ込んだだけでは足りず、更に自分と共同名義の家を担保にしてお金を借り、それを美術館運営に注ぎこもうというのですから、たまりません。
「このまま放っておいいたら、何もかにも、すべてを無くしてしまったあげく、最後は、借金まみれになって、社会的な信用までも失い、路頭に迷う事になるに違いない」と思いました。
従って、もし家を担保にお金を借りてまで、それにつぎこむというなら、「私は別れさせていただきますから」と離婚をちらつかせてまでして必死に止めようとしました。
しかし、それにもかかわらず、長年教職にあって、世の中の動きや、時の経済状況に、やや疎い(うとい)ところのあった井田氏は、聞きいれませんでした。
「大丈夫だよ。絶対に降り止まない雨の日が無いように、晴間のこない不景気はないのですから。
美術館も、今はこんな状態で経営が苦しいけど、このような不入りだって、一時的な物にすぎないに決まっています。
好景気の波が、一度(ひとたび)戻ってくれば、テーマパークの入場者なんか直ぐに昔のように回復してくるでしょう。そうなれば、美術館への入館者もまた増えてくるに違いありません。
それに、今はまだ、花咲先生の絵の素晴らしさが、広く知られていないから、入館者も少ないけど、この美術館を続けていくことによって、広く、その存在が知られるようになりさえすれば、花咲先生の絵が育んでくれた、少年時代の夢を、もう一度ここで見たいと懐かしがって観にきてくれる人が、日本の中にはワンサカいるはずです。
だから、そうなるまで我慢しさえすれば、景気、不景気の波なんか関係なく、コンスタントに、この美術館を訪れてくれる人がいるようになり、経営も安定します。
さらにそうなりますと、この美術館の存続意義も、広く一般に理解してもらえるようなり、美術館を支えようという企業スポンサーも出てくるに違いありません。
それまでの辛抱です。もう少しだけ黙って見ていてください。
今ここでわたしが放り出してしまったら、今までの苦労が水の泡になってしまい、折角揃っている花咲かおる先生の画業の集大成ともいうべき資料が散逸してしまう事になりますから」と言って聞き入れません。
何しろ、「“花咲かおる“の遺品である、彼の挿絵原画の全てを散逸させることなく守り抜き、次の世代に引き継ぐことこそ、天から与えられた自分の晩年の使命である」とまで思い詰めている井田氏には、誰が、何を言っても、それを聞き入れる余地が無くなっておりました。
そのため、奥さんや子供たちの(註:井田氏には二人の男の子がおり、二人とも、お父さんと同じ教職の道を歩んでおりました)必死の制止にもかかわらず、熱に浮かされたように金策に走り回り、集めたお金は、それが家を担保にして借りたお金であれ、知人から借りてきたお金であれ、それらを次から次へとつぎ込み、留まる所がありません。
こうして美術館運営費に追われる井田氏は、最後は、自分の家の生活費に充てる(あてる)べき、教職員共済年金の全てをつぎ込むようになっただけでなく、さらには、奥さんの貰っている、年金にまで手をつけようとし始めました。
ここまで来ますと奥さんも、もう我慢の限界でした。
奥さんは、先ほど述べたように、美術館の運営に関与する事には最初から反対でした。
しかし口では強い反対を唱えておりましたが、夫のそう言った一本木な稚気(ちき=子供っぽさ)を愛し、損得を離れて、 飛騨地方の文化の振興と保存運動の一翼として、挿絵画家“花咲かおる”の生涯の作品資料の保存に心血を注ぎ、孤軍奔走している夫の姿勢に、ある種の尊敬と同情の念さえも抱いておりました。
だから、これまでは、夫のする事を事後黙認と言う形で認めてきました。
しかし自分の年金にまで手を付けられそうになった時、もう黙っている訳にはまいりません。
本当に路頭に迷わなければならない危険性を感じた奥さんは、自分達の生活を守るために、ある日突然、荷物をまとめて、家から出て行ってしまいました。

 

その10

美術館の経営は苦しくなる一方でした。
なんとかしようと井田氏も必死でした。経費を引き締める為に、受付兼事務をしてもらっていた3人の女性職員も全て辞めてもらいました。
更に冷暖房費を節約するために、全館冷暖房は中止し、夏は冷房なし、冬はガスストーブで代用するようにしました。
また建物についても、展観してある資料に支障をきたすほどの故障以外は、手をかけず、修繕、補修費も一切使わないようにしました。
収入を少しでも増やそうと、人から勧められるままに、“花咲かおる”の原画から版を起こした絵ハガキだとか、コピー画の販売を手掛けたりもしました。
しかし何しろ一日10人もいないような入館者では、どうにもなりません。
そんな売り上げは微々たるもので、却ってそれを作ったコストが又、借金として積み上がっただけでした。
契約時の家賃も半分にしてもらいましたが、それでも、家賃は支払えない月が多く、美術館を借りる時に差し入れた保証金も月々の家賃支払いに充当するために、次第に取り崩されていきました。
累積赤字は溜まる一方でした。
親戚、友人を始め、井田氏の顔で借りられる所は、全て借り尽しました。
寄付金も頼れる所は、全て頼みにいって、集められる所は全て、集め尽してしまいました。
その為、このころになりますと、友人、知人、親戚の誰もが、彼が訪ねて行くのを快く思わなくなってしまいました。
何度働きかけをしても、市の方の援助もありませんでした。