No.149 ある文化人の転落の軌跡 その2

このお話はフィクションです似たような事件、地名、人物が出てきたとしても、偶然の一致で、実際の事件人物とは全く関係ありません。

 

その3

バブル時代に地方に林立した、こういったテーマパークの例にもれず、訪ねて行った美術館の設置されている「まほろば」は、殆ど人影もなく、静まり返っておりました。
広いテーマパークの中に点在する、いろいろな国の建築の様式を模してつくられている食事館も、今も営業しているのは、韓国焼肉料理のお店と、飛騨地方の川魚と山菜を売りにする和食のお店くらいで、後は、ほとんどの店が閉じられたままとなっております。
僅かに残っている2軒のお店も、お店の入り口を彩っている赤白の提灯は古び、看板は埃にまみれ、黒ずみ、辛うじてお店をやっているだけといった感じです。
お客を一人でも逃すまいと、店の軒先一杯に貼りつけられたサービスメニューの価格表が一部がはがれ、風にはためいている光景は、悲しくなるほどうらびれた感じです。
“花咲かおる”の美術館はそのテーマパークの一番奥まった所、地元高山の酒造メーカがやっている地元物産館兼お土産館のすぐ隣にありました。
故宮博物館を模して造られたその建物は、開館当時は、アジア工芸博物館として、アンコールワットの仏像だとか、秦代の兵馬俑(へいばろう:墓に埋葬する際の人や馬の形をした葬具のこと)、唐代から清までの中国古陶等が展示されていたという事です。
所が、アンコールワットの仏像も、秦の兵馬俑も贋物だったとかで、その博物館はしばらくして閉鎖されてしまいました。
その博物館の後を継いだのが、この花咲かおる挿絵美術館でした。
今、館長となっていらっしゃる、井田任風(いだにんぷう:俳名)氏達が、花咲かおる挿絵美術館設立運動をしていらっしゃった時、それを聞きつけた、「まほろば」の運営員の一人から、その博物館の後を使って、その美術館をやったらどうだろうというお話があったのだそうです。

 

その4

浅茅さんが訪ねて言った時も、美術館の中には、観客は一人もいませんでした。
人っこ一人いない広い館内には、それでも、数多くの照明が、灯されていて、館内を煌々(こうこう)と照らし出しておりました。しかし静かな広い空間の中に、照明だけが煌々と輝いているその有様は、華やかと言うよりは、どちらかと言うと異次元の世界に迷い込んだ時のような異様ささえ感じさせられる光景です。
だだっ広いその美術館の中には、ボランティアで受付をやっていらっしゃるという男性が一人、手持ち無沙汰そうに、ぽつんと留守番をしていらっしゃいました。
館長は生憎、所用で、出かけていて留守でした。
しかしその男性に連絡を取ってもらった所、正確にはいえないが、夕方までには戻ってこられるとの事でした。
浅茅さんとしては、折角ここまで訪ねてきたのに、館長の顔も見ないで帰る訳に参りません。
そこで、何時に戻ってくのか分からない館長を捉まえる為に、受付近くの応接セットに座って、待たせてもらう事にしました。
美術館は、燃料代を節約する為か、それとも払えない為か、真冬と言うのに、暖房は全館切られていました。
代わりに、館内には何十台ものガスストーブが付け放しになっておりましたが、だだっ広い上に、吹き抜けになっていて、天井の高い空間の中では、殆ど効いておりません。
その為、館長の帰りを待っている浅茅さんには、オーバーを着たままでも寒く、絶えず垂れ下がってこようとする水洟(みずばな)を、堪える(こらえる)のに困るほどでした。
お昼を過ぎて大分経っても、館長は戻ってきませんでした。
浅茅さんは、こんなこともあろうかと、予め用意してきたパンを取りだし、昼食がわりに、それを食べ始めました。
それを見た、受付の男性が、インスタントコーヒーを出してくれました。
お昼ごはんも食べず、受付に座っていらっしゃる彼の事が気の毒になった浅茅さんは、
「お宅も、お食事未だでしょう。どうです、どうせお客さんも、いらっしゃらない事ですし、こんなものでよろしかったら、一緒に食べませんか」といって持ってきたパンを差し出しました。
彼は「よろしいんですか。私、お客様がいらっしゃる以上、外へ買い物にでるわけにもまいらず、お昼をどうしたものかと考えていた所です。
ありがとうございます。
それじゃ遠慮なく頂かせてもらいます」と嬉しそうに言うと、自分も、インスタントコーヒーをいれて、私の横に座りました。
男性はメールでやり取りして居た時に、想像していたのとは、全く違っていて、とても気さくで、人の良さそうな男性でした。
浅茅さんとその男性とは食事をしている間に、いろいろなお話をしました。その中で、彼は、この美術館と館長に関する、いろいろな情報を問わず語りに語ってくれました。

 

その5

館長の井田任風氏は、父親が、吉城郡の県会議員をしていらっしゃったという旧家の出で、地元の高校を出られた後、早稲田大学に学び、その後高校の国語教師として長らく教職にあり、教頭を最後に退職され方でした。
教師在職時代から、既に狂俳の宗匠として飛騨地方では名のある方で、高山の自宅に狂俳の句会所を持って活躍しておられました。
定年退職後は、自分のいる飛騨地方のみならず、岐阜周辺の狂俳の宗匠達とも交流を図り、広く合同句会を催し、郷土の文芸である狂俳の発展流布につとめてこられた方です。
註)狂俳・・・岐阜地方を発祥の地とされている、戯れとか、滑稽味を主とする、冠付けの雑俳の一種。「落ち葉」だとか、「紅葉」、「村時雨」等といった冠つけの言葉に続いて7、5調の句をつけるもの。
例えば、「焼き芋」という冠がつけられますと、それに続いて「唾飲むだけで,手をだせず」 などといった7、5調の句をつけるものをいいます。

しかし彼の活動はそう言った狂俳の分野だけに留まってはいませんでした。
教職に在った時代の広い顔を利用して、飛騨地方の文化の振興だとか、飛騨地方に伝わる文化遺産の保全などの運動にも、力を尽していました。
この為、挿絵画家花咲かおる先生の挿絵本の原画が、そっくり遺されている事が、見つかった時、それらをどうするかについて、真っ先に彼の所に相談が持ち込まれました。
井田氏は、さっそく日頃から交遊のある、高山市近郊に居住する、絵画、工芸、音楽、文学などといった芸術運動に理解のある、いわゆる文化人達に集まってもらって、それをどうするか相談しました。
すると「郷土の誇りともいうべき、花咲先生の資料を絶対に散逸、消失させてはならない。ここに集まったもの皆で協力し、なんとか纏めて(まとめて)保存できるように努力しようではないか」と言う話に纏まりました。
最初は花咲かおる挿絵原画保存会として発足したその会は、皆で集まって飲食しながら「ワイワイ、ガヤガヤ」話し合っている間に、やがて花咲かおる挿絵原画美術館設立運動に、さらには、美術館設立準備委員会へと発展し、井田氏をその代表者として、活動を始めることになりました。
その運動に賛同して参加してくれたのは、井田氏を筆頭に、市の商工会議所の会頭だとか、地元の、料理旅館や、酒造会社、お土産物屋さん等の経営者、日本舞踊や、お琴、三味線、お茶、お花、バレー等の先生達、中学、高校等の学校の図工や、国語の教師、学習塾の経営者、歌人、俳諧師などなど、多士済々でした。
その為、多方面に顔が利き、その伝手(つて)で、準備会発足間もなく、美術館の設置場所も『テーマパーク、「まほろば」の中にある、アジア工芸博物館が撤退した後の建物と決まりました。
話を持ってきてくれた「まほろば」運営責任者からは、
「『まほろば』の入場者は一日平均、平日で約500人、日祭、祝日は大体700人から1000人ほどあります。そのうち3割が美術館に入り、美術館に入ってくれる人間の3分の一が子供であったと仮定しますと、入館料として、一人、300円、子供はその半額の150円いただきますと、月平均240から250万円ほどの売り上げが見込めます。他にも絵ハガキや、原画のコピーなどの美術館関連グッズの売り上げが見込まれますし、お隣の遊園地と提携して、そこに美術館の割引入館券を置かせてもらうようにすれば、そちらからの入園者も見込む事が出来ます。
従って、建物の賃貸料、これは私どもでは1カ月25万円をお願いしたいと思っていますが、それに従業員の給与、冷暖房にかかる費用、水道代金、お遺族の方からの原画の借り賃などといった諸経費を差し引いたとしても、随分あまりがあり、館長となる人はいうまでもなく、この美術館の設立運営に協力してくださった運営委員の先生方にも、充分金銭的に報いる事が出来るはずである」と聞かされました。

 

その6

場所も決まり、いよいよ運営方針の決定だとか、資金集めと言う風に話が具体的になってまいりますと、それに連れ、主導権争いだとか、運営方針の違い、資金集めをめぐっての考え方の違いなどによる、トラブルなどなどが起こってまいりました。
この為、最初、美術館の設立運動にかかわっていた人達の殆どが、一人去り、二人去りと次第に離れて行ってしまって、結局最後に残ったのは、花咲かおる先生の昔の教え子で、今は塾の先生をしている男性と、先生の絵のフアンと言う琴の先生をしている女性、同じく子供時代から花咲かおる絵本の愛読者で大フアンという、定年退職後の男性(この方は現在ボランティアで、受付を手伝っています)そして現館長である井田任風(いだにんぷう)氏の、4人だけとなってしまいました。
美術館設立の為の基金も、思ったほど集まりませんでした。
一番当てにしていた市の補助金は、「高山市内での会館ならまだしも、そんな高山から離れた場所での美術館に、お金を出す事は出来ない」とすげなく断られてしまって、一円も入ってきませんでした。
献金も、設立準備委員会に集まった人たちですら、殆どの人が、お義理で、最低単位の献金である一口か二口、すなわち1,2万円出してくれた程度でした。まして最初から関係のない企業や、一般の人からの協力等、望むべくもありませんでした。
皆で飲み食いしながら、ワイワイ騒いでいた間は良かったのですが、いざ設立資金集めという話に移ったとたん、皆、口が重くなり、財布の口の締りは堅くなって、この時点で少なからぬ人が、まず離れていきました。
時期も悪かったようです。ちょうどバブルがはじけた後で、それまで浮かれきっていた世間は、企業も、個人も急に財布のひもを堅く締めはじめてしまった時期でした。
この為,それまで威勢の良い事を言っていらっしゃった企業の経営者達も、急に渋くなってしまいました。どこもが、お金を生まない文化事業などに、お金を回している余裕など無くなってしまっていました。
お勤めや、個人事業をしていらっしゃった準備委員会に集まった人たちも、事情は同じでした。給与は下がり、時間外手当はつかなくなって、収入が少なくなった上、そのお勤めそのものが、いつまで続けておられるのか分からないというような先の見えない不安定な時代の到来です。
どこの家でも、文化事業に寄付しているような、気分的な余裕がなくなってしまいました。まして「花咲かおる」の名前すら知らない、一般の人達からの寄付など、殆どありませんでした。

続く