このお話はフィクションです
その29
どちらとも決めかねたまま、よろめき、よろめき歩いているうちに、掬佐は村の外れにある、別れ道の所までやってきてしまいました。
そこまで来ますと、この先、二つの道の内、どちらの道を進むか、いよいよ、決めなければなりません。
一つの道は、妖怪達が引っ張りこもうと画策している道で、
それは、お嫁入りしてきて間もない女が、姑のいじめと、夫の不実に耐えかねて、身を投げて死んだといわれている、井戸に通じている道です。
その井戸のあった家は、その事件以後、一家死に絶えてしまって、いまでは誰も住んでいません。
従って、屋敷は荒れるにまかされ、家は壊れ、土台の石が残っているだけです。
女が入水した井戸も、今では半分壊れ、生い茂った灌木と、草の中に埋もれてしまっていて、外からは分かり難くなっています。
もう一方の道は、妖精たちが勧める道で、掬佐は知りませんでしたが、
そこは、掬佐のご先祖さまが、自分のご先祖様の供養と、子孫の繁栄を願って建てられた、お堂のある場所の方向です。
幼い子供の足取りで、しかも、足を引き摺り(ひきずり)、引き摺り歩いてきた道程です。
掬佐がこの分かれ道の所まできた頃には、東の空が、もう微かな(かすかな)白みを帯び始めておりました。
夜しか活躍出来ない黒い妖怪達にとっては、自分達の場所へ戻るべき時間が迫ってきていました。
しかし掬佐の心はまだ定まりませんでした。
何としても、自分達の仲間として引っ張り込みたい妖怪達は、力ずくで、掬佐を妖怪世界への入り口がある、その古井戸の方向へと引っ張っていこうとし始めました。
妖怪達の説得の言葉は、益々熱を帯び、掬佐の周りを飛び回る妖怪達の翅(はね)の音はより高く、井戸に通じる道の方へ押し出そうとして、背中に突き当たって来る力も強くなってまいりました。
妖精達も妖怪達のする事を、大人しく指をくわえて見ていたわけではありません。
そうはさせまいと、妖精達もまた身を呈して、掬佐が妖怪達に連れ去られるのを防ごうとします。
明け始めた冬空の下、妖精達と妖怪達との激しい争いが、しばらくの間、その場所で続きました。
妖精達の青白い光は、彼等の興奮によって益々強くなり、応援に駆け付けた妖精達によって、その数も又どんどん増え、掬佐の身体が、青白い光の玉の中に包み込まれてしまったような形になりました。
掬佐を妖怪達から守ろうとする、妖精達が発する声は、一段と強く、且つ高く、妖怪達のあの気味の悪い音をかき消してしまうほどでした。
昼も夜も関係のなく活躍できる妖精達にとっては、この一時を凌げば、掬佐を妖怪達の誘惑の手から守り切る事が出来ます。
妖精たちはここを先途(せんど:運命の大事な分かれ目のこと)と、掬佐の回りを二重三重にとり囲み、掬佐が間違った道を選択するのを防ごうとしました。
そうこうしているうちに、東の空はどんどん明るみを増し、朝日が今にも顔を覗かせようとする時刻となってまいりました。
もはや妖怪達の時間は終わりです。
妖怪達は悔しそうな顔を残して、古井戸のある方向へと飛び去って行きました。
その30
妖怪達が去っていくのと同時に、継母に対する恨みや憎しみの感情が次第にかき消されていきました。
そしてそれと比例するかのように、安らぎの心が戻ってまいりました。
怒り、憎しみ、恨みといった、一時の興奮が収まってゆくにつれ、
猛烈な眠気が再び戻ってまいりました。
立っている事が出来ないほどの眠気でした。
もうどこでもよいから、横になって休みたいと思うようになりました。
ちょうどその時、妖怪達が去っていったのと反対側の道の先に、小さなお堂が建っているのが掬佐の目に入ってまいりました。
そのお堂の屋根の上には、この勝負の行方を心配そうに見守っていた精霊達も加わり、盛んに手招きしております。
妖精達の翅からは、青白い色はすっかり消え失せ、元の半透明な存在へと変わっていきました。
従って彩乃としての目を通しての光景の中には、彼らの姿は全くみえなくなってしまいました。
しかし、掬佐の心を通して見た光景の中には、彼らの姿が、はっきり映っているのを感じました。
掬佐はそのお堂の下に潜り込むと、すぐさま泥のように眠り込みました。
※泥のように眠り込む:正体もなく眠り込む様のこと。
その31
その日の夕刻近くになって、掬佐は目覚めました。
いつの間にか、藁布団の上に寝ていました。
眠りから覚めたばかりで、まだぼんやりしている頭には、昨晩以来何が起こったのか、きちんと理解できていません。彼は戸惑っていました。
自分の家にいた時と同じように、藁の布団の上で寝ているのには変わりありませんが、その感触は違っていました。
その寝床は明らかに使い古されていて柔らかく、何か他の動物が使っていたと想われる異臭がします。
不思議な事に、お尻の腫れはすっかり消え失せ、痛みも殆ど感じられなくなっていました。
不思議に思って触ったお尻から、誰かがそこに貼ってくれたと思われる、噛み砕かれた青い葉屑がぼろぼろと落ちてきました。
何者かが手当てをしてくれたに違いありません。
あらためて辺りを見回してみますと、天井は低く、掬佐のように小さな子でも、立って歩く事は出来ない高さです。
辺り一円薄暗く、夕陽の薄明かりの下、目に入ってくるのは、土の床の上に、規則正しく配置されている石と、その上に建てられている柱群だけです。
それ以外、何もありません。
どうも何かの建物の床下のようです。
「そう言えば、夕べ、お堂のような建物の床下に潜り込んだのだった」
辺りを見回しているうちに、掬佐は思い出してきました。
だだ広い(だだっぴろい)床下の、その真ん中あたりには、ちょうど人、一人が入るくらいの広さの、浅く窪んでいる所が作られています。
そしてそこに、藁が敷かれておりました。
掬佐には記憶が定かではありませんでしたが、いつの間にかそこで夜を過ごしたようでした。
そばには、「どうかお食べください」と言わんばかりに、栗の実だとか、柿、椎の実等が並べられておりました。
誰の為のものか分かりませんが、そういうものがある以上、この寝床は、何物かの寝所であったに違いありません。
この寝床の本来の持ち主である、怖い獣が、今にも怒って襲いかかってくるのではないかと思うと、恐ろしさがこみあげてまいりました。
でも、その時はまだ、頭がぼんやりしていて、昨夜来の出来事が、現実のものであるという事を十分理解出来てはいませんでした。
なんだか悪い夢の続きの中にいるような感じでした。
しかし、次第に目が覚めてくるにつれ、それが現実に起こっている事柄である事を認識せざるを得なくなってきました。
昨夜、継母に怒られ、家を追い出されてしまった事も、思い出されてまいりました。
急に心細くてたまらなくなりました。でもどうしたら良いか見当がつきません。ただ途方にくれているだけでした。
「今夜から、何処に寝たらよいのだろう。これからどうやって食べていったらよいのだろう」
「この場所だって、いつ本当の持ち主が現れるか分かったものじゃないから、早く出ていかなければならないだろうし」
彼はぐずぐずと思い悩んでおりました
今後の事を思うにつれ、昨夜来の継母の仕打ちに対する強い憤りが、再び、戻ってまいりました。このままでは済まされないという思いが頭を擡げて(もたげて)来て、頭の中から離れなくなってまいりました。
昨晩来、何も入っていない胃袋は「グー、グー」と鳴って、食べ物を催促して止みません。それが一層母親に対する憎しみの心を煽り(あおり)ます。
妖怪達の誘いにのって、あいつらの世界へ行った方が良いのだろうか。
あいつらの言ったとおり、継母だとか、使用人達などなど、自分に冷たかった連中を、酷い目にあわせてやれたら、どんなに気持ちいいだろうという思いが、再び、頭を擡げてきました。
しかし未だ寝足りなかった上に、弱っている身体が、彼がそう言った行動に直ぐに走る事を赦しませんでした。
彼は再び眠りに落ちていきました。
その32
掬佐は夢を見ておりました。
誰かに、抱きかかえられている夢でした。
抱きしめてくれている腕はとても温く、母親というものを知らない掬佐でしたが、なんだか母親の腕の中に抱かれ、厚い布団にくるまって寝ているように感じられました。
とても心地の良い眠りでした。
なんだか遠い、遠い昔、自分がまだ母親のお腹の中にいた時に戻ったように思われる、懐かしい安らかさでした。
「お母さん」掬佐は夢の中で呼びかけました。すると、そのものが、一瞬、抱きしめてくれている腕に力を加えてくれたように感じました。
急に、理由もなく、掬佐の目から涙がこぼれ始めました。
それ迄、泣くという事を知らなかった掬佐でしたが、彼の目からは、それまで止めていた、涙腺の堤防が決壊してしまったかのように、次から次へと、涙がとめどもなく流れ落ちました。
彼は、「お母さん、お母さん」と泣き声で呼びかけながら、自分を抱きしめてくれているものに、しがみ付いて行きました。
そのものは、そんな掬佐の姿を、何とも言えない悲しげな表情を浮かべながらしばらく眺めていましたが、やがて、流れ出る涙を、熱心に舐めてくれ始めました。
それはとても心地よく、その一舐め一舐めが、彼の荒んだ心の傷を癒していきました。
とんがった心は安らかさを取り戻していきました。
継母に対する憎しみや、恨みも、冷たかった世間の目に対する憤りも、全てが春の雪のように解け去っていくように感じられました。
彼はもう一度、深い眠りの中に陥って(おちいって)いきました。
空腹を忘れ、夢も見ないほどの深い、深い眠りの中に落ちていきました。
その33
「さあ、もう出かける時間だよ。目をお覚まし」掬佐は、頭の中に直接働きかけてきたこの言葉に目を覚ましました。
気付いてみると、何か犬のような動物に抱かれて寝ていました。頭の方からは、芳しい、御飯の薫り(かおり)が漂って(ただよって)まいります。
眠気眼(ねむけまなこ)をこすり、こすり眺めた掬佐の目に、
紙の上に並べられた、お握りと、油揚げが入ってきました。
「さあ早くそれをお食べ。それを食べてお腹が満ちたら、すぐ出発するからね」とそのものが言います。
起こされたばかりで、まだ目が覚めきっていなかった掬佐には、何が、どうなっているのか、すぐには理解できてはいませんでした。
しかしお腹が空いていましたから、勧められるままに、ともかくお握りにかぶりつきました。
しかし食べながら、「こいつ一体、何者なんだろう。
昨夜、抱いて温めていてくれていたのは、こいつだったのだろうか。
だったらこんな獣(けだもの)が、どうして自分にこんなに親切にしてくれるのだろう。さっき旅立つと言っていたけど、どこへ連れて行こうとしているんだろう。何処かへ連れて行って、そこで自分を食ってしまおうというのではないだろうか」などなど思い巡らせました。
すると掬佐の、その心を見透かしているかのように、そのものが、彼の頭の中に、直接語りかけてきました。(註:テレパシーでの会話)
「心配しなくてもいいのよ。お前をどうこうしようなんて考えてはいませんからね。
私は狐。
でも普通の狐じゃないのよ。私はね、ここからずっと、ずっと東、豊川という所にある妙厳寺というお寺の境内に祀られている、鎮守の神、荼枳尼真天(ダキニシンテン)様にお仕えしていた、白狐の子孫、紅葉尼(こうように)と申すものです。
私もまた、仏の教えを広め、この世の苦の中で苦しんでいる人々を救いあげようとしている仏の弟子達にお仕えする者です。
お前のように、この現世での修行を重ねているうちに、その修行の厳しさから、つい迷いの道へ、道を逸れよう(それる)としている者が出てきた時、その魂が、正しい道へと進んでいけるように、手助けする仕事をしています。
お前にしても、お前の継母の彩乃にしても、輪廻転生を繰り返しての娑婆における、これまでの修行によって、魂の浄化は殆ど終わっているのです。
所があまりに強い悪縁によって結ばれている為に、仏の世界に入る前の最後の修行の場として与えられた現世において、二人はまた出会ってしまったのです。
そして前世で遺して(のこして)きた怨念に突き動かされて、ぶつかり、傷つけあい、苦しめ合うことになってしまったのです。」
何とも因果な話です。
続く