No.137 お坊さまと白尾の狐 その8(お婆ちゃんの昔話より)
このお話はフィクションです
その25
お坊さまが部屋にお入りになられてから、随分と時間が経ちました。
部屋の外にあって、心配しながら中の様子を窺って(うかがって)いた者たちは、ぼそぼそとした話し声が途切れ,部屋の灯りが消えたのに気付くと、それを待ちかねていたかのように口々に、
「もう御祈祷は終わりましたでしょうか」
と言いながら、彩乃の部屋へと入っていきました。
いくら彩乃の言い付けであったとはいえ、
部屋の中を、狐を引き連れた怪しげな僧侶と二人きりにしてしまった事が心配でたまらなかったからです。
しかし入ってみると、部屋の中には、あの僧侶の姿も、狐の姿も、もうありませんでした。
そこにみたのは、安らかな顔をして、すやすやと眠っている彩乃の姿だけでした。
僧侶と狐は、立ち去って行った形跡もないのに、まるで煙のように消え去っていました。
安らかな彩乃の寝顔に
「やはりあいつらは“あやかし”(妖怪変化の事)だったに違いない。大奥様のこのお顔は、あやかしに魂を抜きとられてしまったせいではないだろうか」
と多くの人達は思いました。
だけど一方には
「何を心配しているの。
大奥様のあの安らかな寝顔をごらんなさい。とても安らかな顔をしていらっしゃるじゃないの。
あれは、あのお坊さまが、大奥様の長年の苦悩を取り除いてくださったおかげに違いないのに。
あのお方たちこそ、大奥様の長年の信仰に報いて、
その魂を救う為に、阿弥陀如来様がお遣わしくださった、偉いお坊さまだったに違いありませんよ。
ほんにありがたい事で、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
という人達もいました。
彼らは、しばらく小声で言い争っていました。しかし、この場でそれについてどれほど言い争ったとしても、直ぐに埒(らち)があく(かたがつく)話しでない事は、どちらの主張をしている方々もよく分かっております。
ただ、顔色が少し良くなり、安らかな寝息を立てるようになった彩乃の様子をみて、見舞いに来た人達は皆、これなら今夜直ぐにどうこうなるという事はなさそうだと思うようになり、ひとまず、それぞれの家へと引き取って行きました。
その26
お坊様が帰られた後、彩乃は夢を見ました。
長い、長い夢でした。
まず最初に出てきたのは、自分の家の門の前にたたずんでいる掬佐の姿でした。
その姿を見たとたん、彩乃の意識の中に、その時の掬佐が入りこんできて彼女の意識の上に乗っかりました。
掬佐の心の動きも、掬佐の感じる感覚も、そのまま彩乃の意識の中に投影されてくるようになりました。家から出て行った日の掬佐の行動は映画のスクリーンに映し出される場面のように、そのまま彩乃の意識に投影され、そこでの掬佐の思いは、彩乃の思いと重なり、掬佐の苦痛は彩乃の苦痛に、掬佐の悲しみは彩乃の悲しみとして感じるようになりました。
「お継母さん、私が悪うございました。もうしませんから、どうかお赦し下さい」彩乃は何度も何度も門をたたきながら哀願している掬佐を感じました。
しかし門は閉じられたままで、家の方からは何の音も聞こえてきませんでした。
とても寒さの厳しい日でした。容赦なく吹き付ける北の風によって、体温は奪われ、手足は凍え、千切れそうに痛く、身体は冷え切って、今にも、凍ってしまいそうでした。
意識は次第に薄れ、次々と襲ってくる強い眠気によって、立っているのも辛いほどです。
時々身体が地面に崩れ落ちそうになります。
しかし、先ほど継母にぶたれたお尻の痛みが、掬佐を眠らせてはくれませんでした。
身体を動かす度に起こってくる飛び上がるほどの痛みが、掬佐が、眠りの国へと入って行くのを妨いでいました。
身体が地面に崩れ落ち、眠り込んでしまうのを防いでくれました。
しかしそれも長くは続きませんでした。時間と共に、意識はますます遠ざかり、最後は、寒さも、冷たさもあまり感じなくなってきてしまいました。
動く度に痛さを増しては、眠り込むのを防いでいてくれていたお尻の痛みも、
次第に薄れていく意識に連れて、眠り込むのを防ぐ事は出来なくなっていきました。
瞼は意思とは無関係に垂れ下り、身体は、今にも地面に崩れ落ち、眠り込んでしまいそうになってきました。
その時でした。
掬佐は、頭の上や、顔の回りを、4、5匹の黒い奇妙な形をした生きものが、キーキー音を立てながら回っているのを感じました。
目を凝らして見ると、その生き物は、暗い闇よりももっと黒く、ハエのように透き通った翅(はね)を持ち、三角形の顔には、青白い光を放つ、細く釣り上った目と、暗闇でもはっきり見える、顔の後ろまで引き裂かれたような、真っ赤で、大きな口、そして頭の上にまで飛び出している、とんがった大きな三角形の耳を持っておりました。
一尺(約30センチ)にも満たないような黒くて細い身体は、お腹だけが異常に膨れ、そのお尻からは、短い豚の尻尾のようなしっぽがぶら下がっております。
空中を飛びながら細かく震わす手足は、まるで網にかかった獲物にとびかかっていく蜘蛛の足のようです。
掬佐は、前からその生き物を感じ、知っていた様子で、
そいつらが現れたからと言って特に驚きもしなければ、気味悪がるような様子もありませんでした。
しかし初めて見た掬佐の意識と同調している彩乃にとっては、それは驚きであり、ぞっとするほど気味の悪い存在でした。
そいつらは掬佐の回りを、くるくる回りながら、掬佐の耳元近くに来ると、
例のガラス板を、釘の頭でこする時のような音で、
口々に歌うように節をつけながら、囁いていきます。
「眠っちゃ駄目。眠っちゃ駄目。こんなところで眠っちゃー、だーめ」
「眠ったら最後、お前を待つのは地獄のお釜。眠っちゃ駄目、駄目、だーめ、駄目」
「お前をこんな酷い目に、遭わせたやつは誰なんだ」
「そいつは継母、継母だ」
「お前が悪かったからだろか」
「違う、違う悪くない、お前はちっとも悪くない」
「お尻が、こんなになるほどに、ぶたれるほどの罪だったろか」
「違う、違うそんな事ない。お腹がすいて、たまらなくなりゃー、飯を盗んで、何故悪い。お前が謝る事はない」
「悪いのは、あいつ。あいつだ、あいつ、継母だ。
飯をケチった、あいつが悪い」
「そんなの赦して良いのだろか」
「駄目、駄目、だーめ、許しちゃー。仕返し、しなくちゃー駄目でしょう」
「怒れ、呪え、もっと怒れ。呪いの炎で、焼きつくせ」
「お前を、こんな寒い目に、遭わせているやつだーれだ」
「そいつは継母、継母だ。ろくな着る物くれなんだ」
「それでもお前は赦せるか。そんなの赦して良いだろか」
「駄目、駄目、だ―め。そんな奴、赦しちゃー駄目だ、憎まなきゃー」
「憎め、憎め、もっと憎め。あいつの心が凍てついて(いてついて)、恐怖の氷のその中に、閉じ込められてしまうほど」
「そもそもお前は、あの家の、一体全体なんだろう」
「そうだよ。お前は嫡男(ちゃくなん)(あとつぎ)だ、あそこの家の嫡男だ。大事な、大事な跡取り息子」
「それがどうしておまえだけ、藁の布団で、寝なきゃならん。他の皆は、絹布団。そこでぬくぬく寝てるのに」
「そりゃあんまりだ、おかしいぞ」
「誰だ、誰だ、そんな風に、お前に差別をしたやつは」
「そいつもやっぱり、継母だ」
「恨め、恨め、もっと恨め。お前の恨みであの女、
奈落の底の地獄まで、落としてしまえ。永遠に。地獄の業火(ごうか:罪人を苦しめる猛火)で焼き尽くせ」
「やれ行け、それ行け、歩きだせ。ここにおったら凍り死に」
「さもなきゃ、おっか(継母)に殺される。
最後に見せた、おっかの鬼の形相思い出せ」
「それでも良けりゃ、此処で寝な。
そんな意気地のないやつは、これから生きてく価値がない」
「思いだしなよ、あの時の、おっかの顔と、その言葉。
『出ていけ。戻るな。お前なんか。二度と見たくはないんだから』とほざいたあいつのその言葉」
「それでもお前は、この場所で、
おっか(継母)の赦しを、乞い続けるか」
「逃げろ、逃げろ、歩きだせ。少しも早くこの場から、離れて、難をのがれなよ」
「さあ、さあ行こうよ、歩こうぜ。
我らの仲間になる為に。怒り、恨み、憎しみの、悪意渦巻くその世界、それは我らの天国だ。そこを根城(ねじろ:本拠とする城)に暴れよう。この世の奴らを懲らしめて、恐怖に凍り付くほどに」
その27
奇妙な生き物たちの囁いていく声を聞いているうちに、掬佐の心に変化が生じてきました。それまで、それほどでなかった、継母に対する憎しみや、怒りが、もくもくと湧き起こってまいりました。
教えられて見れば、あまりにも不条理な仕打ちの数々。
幼心にも、それはあまりにも理不尽で、酷過ぎる(むごすぎる)仕打ちだったとしか思えませんでした。
動けないほどに腫れあがったお尻の痛みが、彼の恨みを一層強めました。
奇妙な生き物のささやきが惹(ひ)き起した、恨みや、怒り、憎しみ、そして恐怖といった、いろいろな感情の複合は、それまで防ぎようのないほどに強かった眠りへの誘惑を、どこかへふっ飛ばしてしまいました。
眠気が吹っ飛ぶと同時に、自分を追い出した時の継母の、あの権幕(けんまく:怒って興奮している様子)とあの形相が、はっきり浮かんでまいりました。
思いだすとそれはゾッとするほど惨忍な顔です。
こんなところでぐずぐずしていたら、今度は殺されるに違いないと思えました。
「なにはともあれ、ともかくここから逃げなければ」
と思った掬佐は、お尻の痛みを堪えながら、足を引きずるようにして歩き始めました。
奇妙な生きもの達も、彼の動きに合わせて、彼の回りを、前に後ろにと飛び交いながら進んでいきます。
掬佐はそれらに導かれるかのように、よろよろと、よろめきながら、ゆっくり、ゆっくり門から離れていきました。
その28
それからどれほど時間が立った事でしょう。掬佐はやっと自分の家が見えないところまでたどり着くことができました。
所がその頃になると、彼の回りを飛んでいるのは、黒い奇妙な生き物だけではなくなりました。
どこからか,青白く光る沢山の光の玉が、彼の回りを包み込むようにして飛んでいるようになりました。
よくみるとそれは、背丈が、5寸(15センチ)ほどの、人間の子供のような姿をした小人達です。
その背中には蝶々のような翅を持ち、軽やかに、そしてすばやく飛び回っております。
身体も翅も半透明の彼らは、普段は、回りの環境の中に溶け込んでしまっていて、特別な人以外には、殆ど気づかれないような存在です。
しかしその夜の彼らは違っていました。
全身から、彼らが興奮した時に発する青白色の光を放ち、銀の鈴が鳴るような声を張り上げ、掬佐に訴えるような口調で、盛んに話しかけながら飛び交っていました。
彩乃にとってのそれは、始めて見る姿でしたから、最初は驚きました。しかしその可愛いらしい姿とその愛苦しい仕草に、心が休まり、次第に憎しみや怒りの心が薄らいでいきました。
掬佐にとっての彼らは、生まれて間もないころから自分の所へ訪れてくれていた、妖精の仲間達である事が分かっていましたから、別に驚きもしませんでした。
彩乃には銀の鈴の鳴るように聞こえるその音も、掬佐の意識を通して聴くと、盛んに話しかけているのがわかります。
「あいつらに、ついていっては、だ―め、駄目」
「ついていったら、貴方には、妖怪達の住むという、真っ暗な闇の世界しか、
待っていません。待ってません。
入ったら最後その世界、未来永劫抜け出せない。そこから抜け出す道はない。
仲間は同時に敵である、怒り、憎しみ、悲しみと、悪意に満ちたその世界、
たった一人で、永遠に、彷徨い(さまよい)続ける事になる」
「それでもよいの、いやでしょう」
「怒り、恨み、憎しみの悪意は貴方をあいつらより、もっと醜い姿にします。
それでもやはりあいつらに、ついて、あちらへ行きますか」
「駄目、駄目、駄目です、お止めなさい。あちらへ行ってはなりません。
貴方を待つのは別の道。貴方が歩んでいく先は、もっと光に満ちた国」
「今は修行のど真ん中、因果の世界で作られた、過去の因縁打ちこわし、仏になる道、選びましょう。
この世の苦行乗り越えて、始めて入れる仏道(ほとけみち)」
「あなたが行くのは仏道、仏の道への先達を、勤める事こそ貴方の使命」
「怒りや、恨み、憎しみの、一時の感情に打ち負けて、道を誤る事なかれ」
「後の後悔、先に立たず。決して誤ってはなりません」
「貴方を待つのは仏道。仏の道のその先の、仏の座へと座る人。
貴方は力を持った人。
道を誤り妖怪の、世界へ入れば(はいれば)、人の世に、不幸もたらし、生き地獄、この世に再現出来る人。
罪咎(ざいきゅう:罪科)もない人々を、不幸蠢く(うごめく)闇の世に、突き落としても良いだろか。
それで貴方は満足か、後々(のちのち)苦しむ事ないか」
「貴方は、もともと善の人。人を不幸のどん底に、落として嬉しいはずがない」
「決して決して妖怪の、甘い言葉に乗るなかれ。乗れば苦しい悔恨の、渦潮の中、永遠に、もがき続ける事になる。
一緒に歩もう私等と。
光り輝くこの道を。
途中の修行は厳しくも、先に待ってる仏の座。それを見据えて私等の、勧める善なるこの道を、どうか選んでくださいな」
しばらくの間、よろめき、よろめき歩いていく掬佐を中心に、妖精達の張り上げる鈴の音を鳴らすような澄んだ声と、聞いているだけで気分が悪くなりそうな、妖怪達の出すキーキー声とが、
そして妖精たちの発する青白い光と、妖怪達の作る闇より黒い影とが、入り乱れ、もつれ合いながら、道を進んでいきました。
掬佐の心はまだ揺れ動いておりました。
妖怪達の声が耳に入ってくる時は、きゃつら(あいつら)の唆し(そそのかす)にのって、酷い(ひどい)継母や、冷たかった世間の奴らになんとか仕返しをしてやりたいと思い、妖怪の世界へと心が傾きます。
しかし妖精たちの諭す言葉や、呼びかける声が、耳を占めるようになった時は、恨みや、憎しみといった一時的な感情に駆られて、復讐に走る事の虚しさが理解でき、妖精たちの勧める明るい光の世界へと心が傾きます。
妖怪達の世界に引きずり込まれたら最後、生まれて間もなくから親しくしてくれていた妖精さんたちと、永遠にお別れしなければならなくなる事も、妖怪の世界の方へ、足を向けることを躊躇わせる(ためらわせる)ものでありました。
次回年末号へ続く