No.138 お坊さまと白尾の狐 その9(お婆ちゃんの昔話より)

このお話はフィクションです

 

その29

どちらとも決めかねたまま、よろめき、よろめき歩いているうちに、掬佐は村の外れにある、別れ道の所までやってきてしまいました。
そこまで来ますと、この先、二つの道の内、どちらの道を進むか、いよいよ、決めなければなりません。
一つの道は、妖怪達が引っ張りこもうと画策している道で、
それは、お嫁入りしてきて間もない女が、姑のいじめと、夫の不実に耐えかねて、身を投げて死んだといわれている、井戸に通じている道です。
その井戸のあった家は、その事件以後、一家死に絶えてしまって、いまでは誰も住んでいません。
従って、屋敷は荒れるにまかされ、家は壊れ、土台の石が残っているだけです。
女が入水した井戸も、今では半分壊れ、生い茂った灌木と、草の中に埋もれてしまっていて、外からは分かり難くなっています。
もう一方の道は、妖精たちが勧める道で、掬佐は知りませんでしたが、
そこは、掬佐のご先祖さまが、自分のご先祖様の供養と、子孫の繁栄を願って建てられた、お堂のある場所の方向です。
幼い子供の足取りで、しかも、足を引き摺り(ひきずり)、引き摺り歩いてきた道程です。
掬佐がこの分かれ道の所まできた頃には、東の空が、もう微かな(かすかな)白みを帯び始めておりました。
夜しか活躍出来ない黒い妖怪達にとっては、自分達の場所へ戻るべき時間が迫ってきていました。
しかし掬佐の心はまだ定まりませんでした。
何としても、自分達の仲間として引っ張り込みたい妖怪達は、力ずくで、掬佐を妖怪世界への入り口がある、その古井戸の方向へと引っ張っていこうとし始めました。
妖怪達の説得の言葉は、益々熱を帯び、掬佐の周りを飛び回る妖怪達の翅(はね)の音はより高く、井戸に通じる道の方へ押し出そうとして、背中に突き当たって来る力も強くなってまいりました。
妖精達も妖怪達のする事を、大人しく指をくわえて見ていたわけではありません。
そうはさせまいと、妖精達もまた身を呈して、掬佐が妖怪達に連れ去られるのを防ごうとします。
明け始めた冬空の下、妖精達と妖怪達との激しい争いが、しばらくの間、その場所で続きました。
妖精達の青白い光は、彼等の興奮によって益々強くなり、応援に駆け付けた妖精達によって、その数も又どんどん増え、掬佐の身体が、青白い光の玉の中に包み込まれてしまったような形になりました。
掬佐を妖怪達から守ろうとする、妖精達が発する声は、一段と強く、且つ高く、妖怪達のあの気味の悪い音をかき消してしまうほどでした。
昼も夜も関係のなく活躍できる妖精達にとっては、この一時を凌げば、掬佐を妖怪達の誘惑の手から守り切る事が出来ます。
妖精たちはここを先途(せんど:運命の大事な分かれ目のこと)と、掬佐の回りを二重三重にとり囲み、掬佐が間違った道を選択するのを防ごうとしました。
そうこうしているうちに、東の空はどんどん明るみを増し、朝日が今にも顔を覗かせようとする時刻となってまいりました。
もはや妖怪達の時間は終わりです。
妖怪達は悔しそうな顔を残して、古井戸のある方向へと飛び去って行きました。

 

その30

妖怪達が去っていくのと同時に、継母に対する恨みや憎しみの感情が次第にかき消されていきました。
そしてそれと比例するかのように、安らぎの心が戻ってまいりました。
怒り、憎しみ、恨みといった、一時の興奮が収まってゆくにつれ、
猛烈な眠気が再び戻ってまいりました。
立っている事が出来ないほどの眠気でした。
もうどこでもよいから、横になって休みたいと思うようになりました。
ちょうどその時、妖怪達が去っていったのと反対側の道の先に、小さなお堂が建っているのが掬佐の目に入ってまいりました。
そのお堂の屋根の上には、この勝負の行方を心配そうに見守っていた精霊達も加わり、盛んに手招きしております。
妖精達の翅からは、青白い色はすっかり消え失せ、元の半透明な存在へと変わっていきました。
従って彩乃としての目を通しての光景の中には、彼らの姿は全くみえなくなってしまいました。
しかし、掬佐の心を通して見た光景の中には、彼らの姿が、はっきり映っているのを感じました。
掬佐はそのお堂の下に潜り込むと、すぐさま泥のように眠り込みました。
※泥のように眠り込む:正体もなく眠り込む様のこと。

 

その31

その日の夕刻近くになって、掬佐は目覚めました。
いつの間にか、藁布団の上に寝ていました。
眠りから覚めたばかりで、まだぼんやりしている頭には、昨晩以来何が起こったのか、きちんと理解できていません。彼は戸惑っていました。
自分の家にいた時と同じように、藁の布団の上で寝ているのには変わりありませんが、その感触は違っていました。
その寝床は明らかに使い古されていて柔らかく、何か他の動物が使っていたと想われる異臭がします。
不思議な事に、お尻の腫れはすっかり消え失せ、痛みも殆ど感じられなくなっていました。
不思議に思って触ったお尻から、誰かがそこに貼ってくれたと思われる、噛み砕かれた青い葉屑がぼろぼろと落ちてきました。
何者かが手当てをしてくれたに違いありません。
あらためて辺りを見回してみますと、天井は低く、掬佐のように小さな子でも、立って歩く事は出来ない高さです。
辺り一円薄暗く、夕陽の薄明かりの下、目に入ってくるのは、土の床の上に、規則正しく配置されている石と、その上に建てられている柱群だけです。
それ以外、何もありません。
どうも何かの建物の床下のようです。
「そう言えば、夕べ、お堂のような建物の床下に潜り込んだのだった」
辺りを見回しているうちに、掬佐は思い出してきました。
だだ広い(だだっぴろい)床下の、その真ん中あたりには、ちょうど人、一人が入るくらいの広さの、浅く窪んでいる所が作られています。
そしてそこに、藁が敷かれておりました。
掬佐には記憶が定かではありませんでしたが、いつの間にかそこで夜を過ごしたようでした。
そばには、「どうかお食べください」と言わんばかりに、栗の実だとか、柿、椎の実等が並べられておりました。
誰の為のものか分かりませんが、そういうものがある以上、この寝床は、何物かの寝所であったに違いありません。
この寝床の本来の持ち主である、怖い獣が、今にも怒って襲いかかってくるのではないかと思うと、恐ろしさがこみあげてまいりました。
でも、その時はまだ、頭がぼんやりしていて、昨夜来の出来事が、現実のものであるという事を十分理解出来てはいませんでした。
なんだか悪い夢の続きの中にいるような感じでした。
しかし、次第に目が覚めてくるにつれ、それが現実に起こっている事柄である事を認識せざるを得なくなってきました。
昨夜、継母に怒られ、家を追い出されてしまった事も、思い出されてまいりました。
急に心細くてたまらなくなりました。でもどうしたら良いか見当がつきません。ただ途方にくれているだけでした。
「今夜から、何処に寝たらよいのだろう。これからどうやって食べていったらよいのだろう」
「この場所だって、いつ本当の持ち主が現れるか分かったものじゃないから、早く出ていかなければならないだろうし」
彼はぐずぐずと思い悩んでおりました
今後の事を思うにつれ、昨夜来の継母の仕打ちに対する強い憤りが、再び、戻ってまいりました。このままでは済まされないという思いが頭を擡げて(もたげて)来て、頭の中から離れなくなってまいりました。
昨晩来、何も入っていない胃袋は「グー、グー」と鳴って、食べ物を催促して止みません。それが一層母親に対する憎しみの心を煽り(あおり)ます。
妖怪達の誘いにのって、あいつらの世界へ行った方が良いのだろうか。
あいつらの言ったとおり、継母だとか、使用人達などなど、自分に冷たかった連中を、酷い目にあわせてやれたら、どんなに気持ちいいだろうという思いが、再び、頭を擡げてきました。
しかし未だ寝足りなかった上に、弱っている身体が、彼がそう言った行動に直ぐに走る事を赦しませんでした。
彼は再び眠りに落ちていきました。

 

その32

掬佐は夢を見ておりました。
誰かに、抱きかかえられている夢でした。
抱きしめてくれている腕はとても温く、母親というものを知らない掬佐でしたが、なんだか母親の腕の中に抱かれ、厚い布団にくるまって寝ているように感じられました。
とても心地の良い眠りでした。
なんだか遠い、遠い昔、自分がまだ母親のお腹の中にいた時に戻ったように思われる、懐かしい安らかさでした。
「お母さん」掬佐は夢の中で呼びかけました。すると、そのものが、一瞬、抱きしめてくれている腕に力を加えてくれたように感じました。
急に、理由もなく、掬佐の目から涙がこぼれ始めました。
それ迄、泣くという事を知らなかった掬佐でしたが、彼の目からは、それまで止めていた、涙腺の堤防が決壊してしまったかのように、次から次へと、涙がとめどもなく流れ落ちました。
彼は、「お母さん、お母さん」と泣き声で呼びかけながら、自分を抱きしめてくれているものに、しがみ付いて行きました。
そのものは、そんな掬佐の姿を、何とも言えない悲しげな表情を浮かべながらしばらく眺めていましたが、やがて、流れ出る涙を、熱心に舐めてくれ始めました。
それはとても心地よく、その一舐め一舐めが、彼の荒んだ心の傷を癒していきました。
とんがった心は安らかさを取り戻していきました。
継母に対する憎しみや、恨みも、冷たかった世間の目に対する憤りも、全てが春の雪のように解け去っていくように感じられました。
彼はもう一度、深い眠りの中に陥って(おちいって)いきました。
空腹を忘れ、夢も見ないほどの深い、深い眠りの中に落ちていきました。

 

その33

「さあ、もう出かける時間だよ。目をお覚まし」掬佐は、頭の中に直接働きかけてきたこの言葉に目を覚ましました。
気付いてみると、何か犬のような動物に抱かれて寝ていました。頭の方からは、芳しい、御飯の薫り(かおり)が漂って(ただよって)まいります。
眠気眼(ねむけまなこ)をこすり、こすり眺めた掬佐の目に、
紙の上に並べられた、お握りと、油揚げが入ってきました。
「さあ早くそれをお食べ。それを食べてお腹が満ちたら、すぐ出発するからね」とそのものが言います。
起こされたばかりで、まだ目が覚めきっていなかった掬佐には、何が、どうなっているのか、すぐには理解できてはいませんでした。
しかしお腹が空いていましたから、勧められるままに、ともかくお握りにかぶりつきました。
しかし食べながら、「こいつ一体、何者なんだろう。
昨夜、抱いて温めていてくれていたのは、こいつだったのだろうか。
だったらこんな獣(けだもの)が、どうして自分にこんなに親切にしてくれるのだろう。さっき旅立つと言っていたけど、どこへ連れて行こうとしているんだろう。何処かへ連れて行って、そこで自分を食ってしまおうというのではないだろうか」などなど思い巡らせました。
すると掬佐の、その心を見透かしているかのように、そのものが、彼の頭の中に、直接語りかけてきました。(註:テレパシーでの会話)
「心配しなくてもいいのよ。お前をどうこうしようなんて考えてはいませんからね。
私は狐。
でも普通の狐じゃないのよ。私はね、ここからずっと、ずっと東、豊川という所にある妙厳寺というお寺の境内に祀られている、鎮守の神、荼枳尼真天(ダキニシンテン)様にお仕えしていた、白狐の子孫、紅葉尼(こうように)と申すものです。
私もまた、仏の教えを広め、この世の苦の中で苦しんでいる人々を救いあげようとしている仏の弟子達にお仕えする者です。
お前のように、この現世での修行を重ねているうちに、その修行の厳しさから、つい迷いの道へ、道を逸れよう(それる)としている者が出てきた時、その魂が、正しい道へと進んでいけるように、手助けする仕事をしています。
お前にしても、お前の継母の彩乃にしても、輪廻転生を繰り返しての娑婆における、これまでの修行によって、魂の浄化は殆ど終わっているのです。
所があまりに強い悪縁によって結ばれている為に、仏の世界に入る前の最後の修行の場として与えられた現世において、二人はまた出会ってしまったのです。
そして前世で遺して(のこして)きた怨念に突き動かされて、ぶつかり、傷つけあい、苦しめ合うことになってしまったのです。」
何とも因果な話です。

続く

No.137 お坊さまと白尾の狐 その8(お婆ちゃんの昔話より)

このお話はフィクションです

 

その25

お坊さまが部屋にお入りになられてから、随分と時間が経ちました。
部屋の外にあって、心配しながら中の様子を窺って(うかがって)いた者たちは、ぼそぼそとした話し声が途切れ,部屋の灯りが消えたのに気付くと、それを待ちかねていたかのように口々に、
「もう御祈祷は終わりましたでしょうか」
と言いながら、彩乃の部屋へと入っていきました。
いくら彩乃の言い付けであったとはいえ、
部屋の中を、狐を引き連れた怪しげな僧侶と二人きりにしてしまった事が心配でたまらなかったからです。
しかし入ってみると、部屋の中には、あの僧侶の姿も、狐の姿も、もうありませんでした。
そこにみたのは、安らかな顔をして、すやすやと眠っている彩乃の姿だけでした。
僧侶と狐は、立ち去って行った形跡もないのに、まるで煙のように消え去っていました。
安らかな彩乃の寝顔に
「やはりあいつらは“あやかし”(妖怪変化の事)だったに違いない。大奥様のこのお顔は、あやかしに魂を抜きとられてしまったせいではないだろうか」
と多くの人達は思いました。
だけど一方には
「何を心配しているの。
大奥様のあの安らかな寝顔をごらんなさい。とても安らかな顔をしていらっしゃるじゃないの。
あれは、あのお坊さまが、大奥様の長年の苦悩を取り除いてくださったおかげに違いないのに。
あのお方たちこそ、大奥様の長年の信仰に報いて、
その魂を救う為に、阿弥陀如来様がお遣わしくださった、偉いお坊さまだったに違いありませんよ。
ほんにありがたい事で、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
という人達もいました。
彼らは、しばらく小声で言い争っていました。しかし、この場でそれについてどれほど言い争ったとしても、直ぐに埒(らち)があく(かたがつく)話しでない事は、どちらの主張をしている方々もよく分かっております。
ただ、顔色が少し良くなり、安らかな寝息を立てるようになった彩乃の様子をみて、見舞いに来た人達は皆、これなら今夜直ぐにどうこうなるという事はなさそうだと思うようになり、ひとまず、それぞれの家へと引き取って行きました。

 

その26

お坊様が帰られた後、彩乃は夢を見ました。
長い、長い夢でした。
まず最初に出てきたのは、自分の家の門の前にたたずんでいる掬佐の姿でした。
その姿を見たとたん、彩乃の意識の中に、その時の掬佐が入りこんできて彼女の意識の上に乗っかりました。
掬佐の心の動きも、掬佐の感じる感覚も、そのまま彩乃の意識の中に投影されてくるようになりました。家から出て行った日の掬佐の行動は映画のスクリーンに映し出される場面のように、そのまま彩乃の意識に投影され、そこでの掬佐の思いは、彩乃の思いと重なり、掬佐の苦痛は彩乃の苦痛に、掬佐の悲しみは彩乃の悲しみとして感じるようになりました。
「お継母さん、私が悪うございました。もうしませんから、どうかお赦し下さい」彩乃は何度も何度も門をたたきながら哀願している掬佐を感じました。
しかし門は閉じられたままで、家の方からは何の音も聞こえてきませんでした。
とても寒さの厳しい日でした。容赦なく吹き付ける北の風によって、体温は奪われ、手足は凍え、千切れそうに痛く、身体は冷え切って、今にも、凍ってしまいそうでした。
意識は次第に薄れ、次々と襲ってくる強い眠気によって、立っているのも辛いほどです。
時々身体が地面に崩れ落ちそうになります。
しかし、先ほど継母にぶたれたお尻の痛みが、掬佐を眠らせてはくれませんでした。
身体を動かす度に起こってくる飛び上がるほどの痛みが、掬佐が、眠りの国へと入って行くのを妨いでいました。
身体が地面に崩れ落ち、眠り込んでしまうのを防いでくれました。
しかしそれも長くは続きませんでした。時間と共に、意識はますます遠ざかり、最後は、寒さも、冷たさもあまり感じなくなってきてしまいました。
動く度に痛さを増しては、眠り込むのを防いでいてくれていたお尻の痛みも、
次第に薄れていく意識に連れて、眠り込むのを防ぐ事は出来なくなっていきました。
瞼は意思とは無関係に垂れ下り、身体は、今にも地面に崩れ落ち、眠り込んでしまいそうになってきました。
その時でした。
掬佐は、頭の上や、顔の回りを、4、5匹の黒い奇妙な形をした生きものが、キーキー音を立てながら回っているのを感じました。
目を凝らして見ると、その生き物は、暗い闇よりももっと黒く、ハエのように透き通った翅(はね)を持ち、三角形の顔には、青白い光を放つ、細く釣り上った目と、暗闇でもはっきり見える、顔の後ろまで引き裂かれたような、真っ赤で、大きな口、そして頭の上にまで飛び出している、とんがった大きな三角形の耳を持っておりました。
一尺(約30センチ)にも満たないような黒くて細い身体は、お腹だけが異常に膨れ、そのお尻からは、短い豚の尻尾のようなしっぽがぶら下がっております。
空中を飛びながら細かく震わす手足は、まるで網にかかった獲物にとびかかっていく蜘蛛の足のようです。
掬佐は、前からその生き物を感じ、知っていた様子で、
そいつらが現れたからと言って特に驚きもしなければ、気味悪がるような様子もありませんでした。
しかし初めて見た掬佐の意識と同調している彩乃にとっては、それは驚きであり、ぞっとするほど気味の悪い存在でした。
そいつらは掬佐の回りを、くるくる回りながら、掬佐の耳元近くに来ると、
例のガラス板を、釘の頭でこする時のような音で、
口々に歌うように節をつけながら、囁いていきます。
「眠っちゃ駄目。眠っちゃ駄目。こんなところで眠っちゃー、だーめ」
「眠ったら最後、お前を待つのは地獄のお釜。眠っちゃ駄目、駄目、だーめ、駄目」
「お前をこんな酷い目に、遭わせたやつは誰なんだ」
「そいつは継母、継母だ」
「お前が悪かったからだろか」
「違う、違う悪くない、お前はちっとも悪くない」
「お尻が、こんなになるほどに、ぶたれるほどの罪だったろか」
「違う、違うそんな事ない。お腹がすいて、たまらなくなりゃー、飯を盗んで、何故悪い。お前が謝る事はない」
「悪いのは、あいつ。あいつだ、あいつ、継母だ。
飯をケチった、あいつが悪い」
「そんなの赦して良いのだろか」
「駄目、駄目、だーめ、許しちゃー。仕返し、しなくちゃー駄目でしょう」
「怒れ、呪え、もっと怒れ。呪いの炎で、焼きつくせ」
「お前を、こんな寒い目に、遭わせているやつだーれだ」
「そいつは継母、継母だ。ろくな着る物くれなんだ」
「それでもお前は赦せるか。そんなの赦して良いだろか」
「駄目、駄目、だ―め。そんな奴、赦しちゃー駄目だ、憎まなきゃー」
「憎め、憎め、もっと憎め。あいつの心が凍てついて(いてついて)、恐怖の氷のその中に、閉じ込められてしまうほど」
「そもそもお前は、あの家の、一体全体なんだろう」
「そうだよ。お前は嫡男(ちゃくなん)(あとつぎ)だ、あそこの家の嫡男だ。大事な、大事な跡取り息子」
「それがどうしておまえだけ、藁の布団で、寝なきゃならん。他の皆は、絹布団。そこでぬくぬく寝てるのに」
「そりゃあんまりだ、おかしいぞ」
「誰だ、誰だ、そんな風に、お前に差別をしたやつは」
「そいつもやっぱり、継母だ」
「恨め、恨め、もっと恨め。お前の恨みであの女、
奈落の底の地獄まで、落としてしまえ。永遠に。地獄の業火(ごうか:罪人を苦しめる猛火)で焼き尽くせ」
「やれ行け、それ行け、歩きだせ。ここにおったら凍り死に」
「さもなきゃ、おっか(継母)に殺される。
最後に見せた、おっかの鬼の形相思い出せ」
「それでも良けりゃ、此処で寝な。
そんな意気地のないやつは、これから生きてく価値がない」
「思いだしなよ、あの時の、おっかの顔と、その言葉。
『出ていけ。戻るな。お前なんか。二度と見たくはないんだから』とほざいたあいつのその言葉」
「それでもお前は、この場所で、
おっか(継母)の赦しを、乞い続けるか」
「逃げろ、逃げろ、歩きだせ。少しも早くこの場から、離れて、難をのがれなよ」
「さあ、さあ行こうよ、歩こうぜ。
我らの仲間になる為に。怒り、恨み、憎しみの、悪意渦巻くその世界、それは我らの天国だ。そこを根城(ねじろ:本拠とする城)に暴れよう。この世の奴らを懲らしめて、恐怖に凍り付くほどに」

 

その27

奇妙な生き物たちの囁いていく声を聞いているうちに、掬佐の心に変化が生じてきました。それまで、それほどでなかった、継母に対する憎しみや、怒りが、もくもくと湧き起こってまいりました。
教えられて見れば、あまりにも不条理な仕打ちの数々。
幼心にも、それはあまりにも理不尽で、酷過ぎる(むごすぎる)仕打ちだったとしか思えませんでした。
動けないほどに腫れあがったお尻の痛みが、彼の恨みを一層強めました。
奇妙な生き物のささやきが惹(ひ)き起した、恨みや、怒り、憎しみ、そして恐怖といった、いろいろな感情の複合は、それまで防ぎようのないほどに強かった眠りへの誘惑を、どこかへふっ飛ばしてしまいました。
眠気が吹っ飛ぶと同時に、自分を追い出した時の継母の、あの権幕(けんまく:怒って興奮している様子)とあの形相が、はっきり浮かんでまいりました。
思いだすとそれはゾッとするほど惨忍な顔です。
こんなところでぐずぐずしていたら、今度は殺されるに違いないと思えました。
「なにはともあれ、ともかくここから逃げなければ」
と思った掬佐は、お尻の痛みを堪えながら、足を引きずるようにして歩き始めました。
奇妙な生きもの達も、彼の動きに合わせて、彼の回りを、前に後ろにと飛び交いながら進んでいきます。
掬佐はそれらに導かれるかのように、よろよろと、よろめきながら、ゆっくり、ゆっくり門から離れていきました。

 

その28

それからどれほど時間が立った事でしょう。掬佐はやっと自分の家が見えないところまでたどり着くことができました。
所がその頃になると、彼の回りを飛んでいるのは、黒い奇妙な生き物だけではなくなりました。
どこからか,青白く光る沢山の光の玉が、彼の回りを包み込むようにして飛んでいるようになりました。
よくみるとそれは、背丈が、5寸(15センチ)ほどの、人間の子供のような姿をした小人達です。
その背中には蝶々のような翅を持ち、軽やかに、そしてすばやく飛び回っております。
身体も翅も半透明の彼らは、普段は、回りの環境の中に溶け込んでしまっていて、特別な人以外には、殆ど気づかれないような存在です。
しかしその夜の彼らは違っていました。
全身から、彼らが興奮した時に発する青白色の光を放ち、銀の鈴が鳴るような声を張り上げ、掬佐に訴えるような口調で、盛んに話しかけながら飛び交っていました。
彩乃にとってのそれは、始めて見る姿でしたから、最初は驚きました。しかしその可愛いらしい姿とその愛苦しい仕草に、心が休まり、次第に憎しみや怒りの心が薄らいでいきました。
掬佐にとっての彼らは、生まれて間もないころから自分の所へ訪れてくれていた、妖精の仲間達である事が分かっていましたから、別に驚きもしませんでした。
彩乃には銀の鈴の鳴るように聞こえるその音も、掬佐の意識を通して聴くと、盛んに話しかけているのがわかります。
「あいつらに、ついていっては、だ―め、駄目」
「ついていったら、貴方には、妖怪達の住むという、真っ暗な闇の世界しか、
待っていません。待ってません。
入ったら最後その世界、未来永劫抜け出せない。そこから抜け出す道はない。
仲間は同時に敵である、怒り、憎しみ、悲しみと、悪意に満ちたその世界、
たった一人で、永遠に、彷徨い(さまよい)続ける事になる」
「それでもよいの、いやでしょう」
「怒り、恨み、憎しみの悪意は貴方をあいつらより、もっと醜い姿にします。
それでもやはりあいつらに、ついて、あちらへ行きますか」
「駄目、駄目、駄目です、お止めなさい。あちらへ行ってはなりません。
貴方を待つのは別の道。貴方が歩んでいく先は、もっと光に満ちた国」
「今は修行のど真ん中、因果の世界で作られた、過去の因縁打ちこわし、仏になる道、選びましょう。
この世の苦行乗り越えて、始めて入れる仏道(ほとけみち)」
「あなたが行くのは仏道、仏の道への先達を、勤める事こそ貴方の使命」
「怒りや、恨み、憎しみの、一時の感情に打ち負けて、道を誤る事なかれ」
「後の後悔、先に立たず。決して誤ってはなりません」
「貴方を待つのは仏道。仏の道のその先の、仏の座へと座る人。
貴方は力を持った人。
道を誤り妖怪の、世界へ入れば(はいれば)、人の世に、不幸もたらし、生き地獄、この世に再現出来る人。
罪咎(ざいきゅう:罪科)もない人々を、不幸蠢く(うごめく)闇の世に、突き落としても良いだろか。
それで貴方は満足か、後々(のちのち)苦しむ事ないか」
「貴方は、もともと善の人。人を不幸のどん底に、落として嬉しいはずがない」
「決して決して妖怪の、甘い言葉に乗るなかれ。乗れば苦しい悔恨の、渦潮の中、永遠に、もがき続ける事になる。
一緒に歩もう私等と。
光り輝くこの道を。
途中の修行は厳しくも、先に待ってる仏の座。それを見据えて私等の、勧める善なるこの道を、どうか選んでくださいな」
しばらくの間、よろめき、よろめき歩いていく掬佐を中心に、妖精達の張り上げる鈴の音を鳴らすような澄んだ声と、聞いているだけで気分が悪くなりそうな、妖怪達の出すキーキー声とが、
そして妖精たちの発する青白い光と、妖怪達の作る闇より黒い影とが、入り乱れ、もつれ合いながら、道を進んでいきました。
掬佐の心はまだ揺れ動いておりました。
妖怪達の声が耳に入ってくる時は、きゃつら(あいつら)の唆し(そそのかす)にのって、酷い(ひどい)継母や、冷たかった世間の奴らになんとか仕返しをしてやりたいと思い、妖怪の世界へと心が傾きます。
しかし妖精たちの諭す言葉や、呼びかける声が、耳を占めるようになった時は、恨みや、憎しみといった一時的な感情に駆られて、復讐に走る事の虚しさが理解でき、妖精たちの勧める明るい光の世界へと心が傾きます。
妖怪達の世界に引きずり込まれたら最後、生まれて間もなくから親しくしてくれていた妖精さんたちと、永遠にお別れしなければならなくなる事も、妖怪の世界の方へ、足を向けることを躊躇わせる(ためらわせる)ものでありました。

次回年末号へ続く