No.131 お坊さまと白尾の狐 その2(お婆ちゃんの昔話より)
このお話はフィクションです似たような点がありましても、実際の事件、実在の人物とは、全く関係ありません。
その1
これは、もうずいぶん昔、お婆ちゃんのそのまたお婆ちゃん(=大婆ちゃん)がまだ12,3歳の子供だった頃のお話です。その頃は、まだ徳川様から、天子様に変わったばかりの時代で、今、お婆ちゃんが(=大婆ちゃん)、(註:お婆ちゃんのお婆ちゃん即ち、大婆ちゃんがしてくれたお話ですから、ここから後は、大婆ちゃんの事を、単にお婆ちゃんと呼ぶ事にします)住んでいる、この辺りも、昔はね、沼地ばかりの、一面芦原で、その中の、やや小高い所に、木々の茂る森があり、その森に守られているように、10軒くらいの家が建っているといった程度の寂しい場所だったんだよ。
その頃、お婆ちゃん(=大婆ちゃん)の家には、毎月の祥月命日(一周忌が過ぎてから、故人が死んだ当月当日にお行われる、故人を祀る仏事)になると、故人の供養の為に来て下さっていたお坊さんがいらっしゃいました。このお坊さん、もう百歳以上には、なっていらっしゃるという噂でしたが、見た所はそんなお年とは見えないという、不思議な方でした。
そのお坊様は、病人の身体にとりついて、色々な災厄や病を齎して(もたらして)いる、妖怪変化だとか、怨霊(おんりょう)などの類を取り除いてくださったり、そいつらがもたらす、いろいろな災厄から、身を守る法を授けて下さったりする、不思議な力を、備えていらっしゃいました。
またそのお坊様から、因果の理(ことわり)に則って(のっとって)話される、お話を、聴かせていただくと、全ての人が、この世の悩みから解放され、心安らかに、成仏できるとも言われておりました。
所でこのお坊さん、どういう訳か、何処へお出かけになる際も、一匹の老狐を、連れていらっしゃいました。
その狐は、もうずいぶん年をとっていたようで、抜け毛、白髪が目立ち、歩くのも辛そうなほどに、よぼよぼでした。尻尾の毛も殆どが抜け落ちて薄くなり、とても貧弱な感じです。しかし、よく見ますと、残った尻尾の毛は、素晴らしい銀白色をしていて、この狐がまだ若くて、毛がフサフサしていた頃は、銀白色の尻尾をもった、素晴らしい雌狐であったに違いないと、想わせる所がありました。
そのお坊さん、その狐を、とても大切にしていらっしゃいました。その様子は、可愛がっておられるというよりも、どちらかというと、何かから、守っておられるといったご様子でした。
何処の家を訪れられる時でも、必ずといっていいほど、いつも一緒でした。お座敷にお通しする時も、必ず「その狐も一緒に」と申されました。
そして片時も離れることなく、その狐の傍におられました。
でも、この狐、別に何をするわけでもありませんでした。お坊さんが、お経を、あげていらっしゃる間中、お坊さんの後ろで、こっくり、こっくり居眠りしているだけでした。
だから、私から見れば、しょぼくれた、ただの老いぼれ狐にしか、みえませんでした。しかしお婆ちゃんの家の者を始め、どの檀家の人々も、お坊さんと同じように、その老狐のことをとても大切にしているのでした。
物心つくようになってからの私は(=大婆ちゃん)、それが不思議でたまりませんでした。
そこであちらこちらで、理由を聞いてみるのですが、誰もきちんとした理由を、教えてくれませんでした。
遊び仲間にも、聞いてみましたが、ガキ仲間どもにも、その理由を、知っている子はいないようで、誰に聞いても、「さあ」と言って、首を傾げるだけでした。
それ以上聞こうとしても、どの子らも、「それ以上は聞かない方がいいよ」と言わんばかりに、閉じた唇の前に、人差し指を当て、首を振るばかりです。
好奇心に耐えかねた私(=大婆ちゃんの事)は、ある時、お婆ちゃん(註:=大大婆ちゃん=大婆ちゃんのそのまたお婆ちゃん、)を捉まえて(つかまえる)、その訳をきいてみました。
するとお婆ちゃん(=大大婆ちゃんは)しばらく考えていましたが、「あの狐の話かい、その話は、私ら限られた数人の人間以外には、本当の事は知らされていない秘密なんだよ。もしも悪い奴等に、あのお狐様の話が、変に間違って伝えられると、あのお狐様に迷惑をかける心配があるからね。
だから、一般の人達には、『あの狐の話はしてはならない、その話には、触れただけで祟りがあるから』という言い伝えになっているんだよ。
いくらお前の頼みでも、こればかりは、話す訳にはいかないね。
でもお前は、不思議な力を持った子のようだと、かねがね和尚さんが、おっしゃっていらっしゃったから、ひょっとすると、お前も、あの狐を守っていく者達の、仲間の一人かもしれないね。
もしそうだったら、訳を話しても良いというお許しが出るだろうから、一度聞いておいてあげようね」といってくれました。
その2
遊び盛りの私は、遊びに感けて(かまける:一つの事に心を奪われ、他の事を疎か[おろそか]にする、の意)、その後、お婆ちゃん(=大大婆ちゃん)に頼んでいた事を、いつの間にか、すっかり忘れてしまっていました。
所がある日、「房乃や(註:大婆ちゃんの名前)、和尚さんからお許しが出たから、あの話、教えてやってもよいよ。だがこの話、許されているもの以外には、絶対に、誰にも話してはいけないと言う事になっているのだけれど、お前、誰にも話さないと、約束が出来るかい。秘密をもつというのはなー、とっても辛い事だよ。お前、其れでも知りたいか。もし、おまえがこの話を人に漏らしたことによって、万一あの「もみじ尼様」(註:白尾の狐の名前)に、害が及ぶような事にでもなろうものなら、お前だけではすまないのだよ。お婆ちゃんは言うまでもなく、お前のおじいちゃん、お父さん、お母さん、さらには、おじさん、おばさん、お前の、兄弟たちにまで、仏罰の累が及ぶかもしれないというんだけど。お前、本当に秘密を守れるかい」とお婆ちゃん(=大大婆ちゃん)。
「仏罰って、どんな事が起こるの」と私(=大婆ちゃん)。
「さあー、お婆ちゃんに(=大大婆ちゃん)も分からない。ただ仏罰が下るときいているだけだから」
「仏罰ときくとやはり、怖くなってしまってね、お婆ちゃん(=大婆ちゃん)、聞くのを止そうかなと一瞬、迷ったもんだよ。
でもね、どちらかというとお婆ちゃん(=大婆ちゃん)好奇心が強い方でしょ。だから秘密と言われると余計に聞きたくなってしまってね」
その3
大婆ちゃん、仏罰と聞いて、一瞬、躊躇い(ためらう)ました。しかしやはり怖いもの見たさ、ここまで聞かされて途中で止められては、たまらないとおもいました。
その時の私(=大婆ちゃんのこと)としては、約束した以上、秘密は絶対に漏らさないつもりではありました。
ただ人間のする事でしょ。自分に、その気がなくても、話の都合で、秘密の一端を、ついつい口を滑らしてしまう可能性だって、絶対ないとは、言い切れないでしょ。
それだけに悩んだもんだよ。
でも好奇心にはかてなかったね。
結局、「やっぱお話しして。どうしても聞きたいから」と言ってしまったんだよ。
その4
大婆ちゃんが、大大婆ちゃんから聞いたお話(=お婆ちゃんの、お婆ちゃんのお婆ちゃん、すなわち大大婆ちゃんがしてくれた話)
もうだいぶ前の事だけど、あの和尚さんは、幼名は掬佐(きくすけ)といい、この村の隣の輪中の大庄屋様の家の長男として生まれました。
(註:輪中・・水害から守る為に、一個もしくは数個の村落を堤防で囲み、形成していた水防共同体)
所が運の悪い事に、お母さんは、掬佐を生む時、難産だったために、それがもとで、子供を産んだ後、直ぐに亡くなってしまいました。
その為、掬佐は生まれるとすぐに、母無し子となり、乳母のもとで、育てられる事になってしまいました。
掬佐くらいの家でしたら、乳母を雇って、生家で、そだてられるのが普通でした。
なんらかの事情があって、乳母の所に、預けられるにしても、ある程度の家柄もあり、教養もある、女の家に預けられるのが普通でした。
所が、掬佐の場合は、そういう事に、煩いであろう、祖父母共に、早世(そうせい:若死にの意)して、既にこの世におりませんでした。
その上、父親は、地主と川船運送業をしておりましたから,その方が忙しくて、そんな事まで気を遣っている余裕がありませんでした。
その為、家の事は、どうしても、ベテランの女中頭まかせと、なっておりました。
この女中頭、仕事はよく出来、金銭的にもとても堅く、信用できる女でした。しかし、その生まれが、もともと貧しい家の出でしたから、何事にも、実利本位の考え方しかできない人でした。
そこで、乳母選びも、子を生んで間もない女で、乳の出が良い女というのを、第一条件に、後は実直で、子育てが上手ければ良いという考えのもと、されました。
それに一日も早く決めなければとならないという事情も重なりましたから、深く吟味する事もなく、結局、母親の死後、臨時に乳を与えてくれていた、小作の女房が、そのまま、乳母と決まり、その家に、預けられることになってしまいました。
この女はその時、5人の子持ちでした。5人目の子供を生んで、まだ5カ月余り、乳の出はとてもよく、二人の赤ん坊に与えても、まだ余るほどでした。その点では、充分資格を備えておりました。
しかし、彼女の家が作っている小作地はとても狭く、親子7人が食べていくのがやっとやっとの家で、普通に考えれば、お金持ちのお坊ちゃまを、安心して預けられるような、環境ではありませんでした。
その5
掬佐は、2歳半ば頃までその乳母の家で育てられました。
着るものだとか、寝具類等は親の元から運んできた物を使っていましたから、他の子供たちと違った、極上のものが与えられておりました。
しかし他は、特に気を遣ってくれるような事もありませんでした。
離乳が終わってからの食事も、掬佐の家から、食い扶持として、十分すぎるくらいの、お米とか、お金が、送られていたはずですが、それらは全て、乳母の一家を、養う食費として消え、掬佐が特別扱いを、受ける事はありませんでした。
食事として与えられていたものと言えば、ほかの子供達と同じ、全く粗末なものでしかありませんでした。
育て方も、地主の家のお坊ちゃまだからといって、特に気を遣ってくれている様子はありませんでした。
他人の前では、世間体を気にして、いかにも大切にしているように、みせてはおりました。しかし、人目のない所では、年上の子供達に、見張りを、させてはおきましたが、いつも一人で寝かせつけたままにして、放りっぱなしでした。
自分の子供たちの世話と、日々の生活に、手一杯で、掬佐に細やかな愛情を注いでやる余裕がなかったというのも、あったかもしれません。(良い方に解釈すればの、話ですが)
しかし、もともと彼女、それほど子供好きではなかったのです。自分の子供5人の子育てをしてきただけで、もう子供なんか、うんざりと思っていたところでした。
そこにもう一人、他人の子供を引き受けてきたわけですから、そんな子供に、愛情を注ぐ気持ちなんか、湧いてきませんでした。
彼女は、仕事として、乳を与え、離乳期以後は、食事の世話をし、身の回りの面倒をみていただけでした。
そこには、愛情の欠片も、見当たりませんでした。
掬佐を、可愛いと思った事など、一度もありませんでした。
彼女の家の子供達も、掬佐の事を、大切な家の、預かり子という事は、母親に強く言われ、良く知っておりました。
彼女の子供達、中でも年長の子供達は、もしもこの子に、怪我でもさせようものなら、地主さんを怒らせてしまって、自分の家が、明日の生活にも困るようになる事を、知っていました。
だから、とても気をつけて見張っていてはくれました。しかしそれだけです。
弟として、親しみをもって、接してくれたわけではありません。あやしたり、話しかけたりなんか、無論、してはくれませんでした。
成長した後も、一緒に遊んでくれるようなことは、全くありませんでした。
あくまで、大切な預かりものとして、怪我をしないように、病気になったりしないよう、見張ってくれていただけでした。
この為、掬佐は本当の意味での母親の愛はいうまでもなく、人の情さえも知らずに育ちました。
しかも、一人、放りっぱなしにされたまま、他の子供達との子供らしい交流もなしに育ちましたから、言葉の発達は遅く、人とは馴染めない、警戒心だけが強い、捨て猫のような子になってしまいました。
次回へ続く