No.128 善意ではあっても(ある画家の後援会)

このお話は、フィクションで、似たようなところがありましても、偶然の一致で、実在の人物、実際にあった事柄とは関係ありません。

 

その1

私達一般人は、芸術の世界と言うと、大変高尚なもので、芸術家等と聞くと、俗世の名利(めいり:名誉と利益)とは無関係に ひたすら芸の深奥を求めて暮らしていらっしゃる、崇高な人の姿を想像しがちです。
しかし現実の世界では必ずしもそうではないようでして、 芸術家の集団の中にも派閥もあれば上下関係もあります。
所属する団体内の地位を求めての争いは、下手な政治家顔負けの醜い争いが展開される事も珍しい事ではないとも聞いたことがあります。
芸術院会員等といった社会的な地位に就くためには、関係する各界への、少なからぬ気配りと、運動が必要であるという噂もあります。
又お金の面でも、結構計算高い先生がいらっしゃって、取り扱い画商が大変に苦労しているといったお話も、何処からとなく聞こえてまいります(真偽のほどは不明ですが)。
しかし考えてみれば芸術家といっても、彼らも、この世俗的な現代社会を生きる、普通の人間です。
この世を生きていくためには、食べものも要りますし、着る物も、寝るところも要ります。絵を制作するためには、絵の具だとかキャンバスといった道具もいります。
所属する絵画団体内での権力を手にしたいと思う人がいたり、人に認められたい、お金が欲しい、もっとよい生活がしたいなどと言う、世俗的な思いにかられる人がいたとしても、別に不思議ではありません。
中には、お金を得る為に、いわゆる売り絵と称される作品を濫作したり、画業を生業(なりわい)であると割り切って、自分の作品の価値を高める為、作品の売り込みまで自分のところでプロデューすしたりしている人さえもいらっしゃるという話も聞きます。しかしこれなどもまた、彼らが、この世俗世界の一住人にすぎないと、考えれば納得のいく話です。
実際、人に認められたいだとか、お金をもっと手にいれたい、良い生活ができるようになりたいなどといった、ごく世俗的な動機が、彼らをして、芸術活動へと、駆り立てる、原動力となっている場合も、少なくないように思われます。
そこに芸術家としての表の顔と、生活者としての裏の顔がある訳です。
ただ不思議な事は、その様な人柄が必ずしも、かれらの作品に反映されていない事です。
音楽などでもそうですが、こんな性格の悪い人から どうしてこんなすばらしい 天使のような歌声が出るのだろうとか、どうしてこんな素敵な演奏が出来るのだろうと 思う事がしばしばありますが、絵画の場合でも、そう言った例を、見かける事が少なくありません。
この画家から、どうして、あんな素晴らしい、人の心を打つような絵が、生まれたのだろうと思う場合もあれば、 逆にまったく純粋で、お金には無頓着、名利を求めず、ひたすら自分の芸術の完成に没頭しておられる それこそ教科書に載ってもよいような生活をしておられる芸術家なのに、その作品は今一つといった場合も多々あります。
要するに芸術の世界では、才能と人格は別というわけなのでしょうね。
本当に人間というのは摩訶不思議(まかふしぎ:とてつもなく不思議の意)な生き物です。

 

その2

所で作家の世界は、先程も言いましたように 、必ずしも実力だけの世界ではありません。団体内での政治性、社交性、そして画商だとか、マスコミ、批評家等との付き合い方などといった、いわゆる世渡りの上手下手もまた 作家の評判だとか、作品の価格に反映してまいります。
真偽のほどはわかりませんが、団体の展覧会での入賞などは、師事した先生の その団体の中での力関係とか、その先生の“引き”の強弱といった物も、大きな要素を占めるとも聞いています。
従ってその様な事の苦手な作家は、例え絵がうまくても、人の心を打つ絵を画いても、社会的には なかなか報いられ難い場合が少なくないようです。
私の知っているある先生も、どちらかというとこの後者の部類に属する作家でした。人柄はとても良いのですが、社交下手、人間関係の煩わしさが嫌で、どの団体にも所属せず、一匹狼、好きな物を好きなように画いている事が出来れば、其れで幸せといった人でした。
従って地方におられて、よほどの事がないと、東京までは出ていきません。
其のため 作風から言えば、今風、一般受けのする作品で、・・・わたしがその先生と出会った頃は、まだちょうど、バブル絶頂期の時で、将来有望な作家と言うだけで、さほどうまくもない画家の絵でも、飛ぶように売れていた時代でしたが、・・・もしこの先生が、有力画商に気に入ってもらえて、その流通網に入れてもらうことができたなら、きっと、ほどほどの流行作家となっただろうと思われるような方でした。
にもかかわらず、先ほど申し述べたような事情で、 取り扱ってもらえる画商さんも、自ずと、地元の画商さんに限定されてしまい 、不遇を囲っていました。
でも、その人柄と作風から 、地元にはフアンも少なくなく、個展の時などは、観覧にきてくれる人がとても多く、 絵もそれなりに売れていました。
しかし、そうは申しましても 何分にも地元だけでは、マーケットも限られます。その為、生活はいつも苦しく、ピーピーしていました。
そんな先生をみて、先生のフアンで、且つ地元の文化人と称する人たちが集まった折、「このような良い先生を、このまま埋もれさせてしまっては、勿体ない。皆で応援しようではないか」という話がもちあがりました。
そして、まずその第一歩として、「この会で、カレンダーを作成して売ろうではないか」という話がまとまりました。

 

その3

その時集まったのは、地酒醸造元の若社長さんだとか、茶人、ピアノの先生、踊りの師匠、俳句の師匠、歌人、文化会館の館長さん、そして中小企業の社長婦人、学校の美術系の先生などなどといった、多士済々の顔ぶれで、総勢10人ほどでした。
ある日、その画家の所に、その会の代表と称する人が二人ほどで訪ねてこられました。
「先生の絵をもっと沢山の人に知ってもらって、楽しんでもらいたいと思いますので、今回私達で、“○○先生の絵を愛する会“というのを作り、その会で先生のカレンダーを作って売る事にしました。
先生に、お金の心配はさせませんし、絵も先生のお好きなように描いていただけば結構でございます。ですから、是非ぜひご協力下さい」と言います。
こういった話には、縁遠かった先生にとっては、そんなことは初めての経験でした。
しかし自分の絵画を、認め、そんなにも大切に思ってくださる人がいると言う事は、それだけでも、画家にとってはとても光栄で嬉しい事でした。それがカレンダーまで作って、愛好家を拡げてくれると言うのですから、こんなありがたい話はありません。
特に、その計画が、地元名士の集まりから出たものと聞かされましたから、余計に感激しました。
画家は乗り気になって
「それは、それは、ありがとうございます。是非、是非お願いします」
「つきましてはいつ頃までに、何枚くらいの絵を描いたら良いでしょうか」と聞きました
すると、「本日はお願いに上がっただけでございまして、具体的な事は、まだ、何も決まっておりません。まずは、今日、先生がお引き受け下さった事を、皆さんに報告させていただきます。今後の詳しい事は、その席で、皆さんと相談の上、決める心算でございます。従って、お返事は、それからにさせてください。」と言って、帰っていきました。

 

その4

それからから数日後の事です。
「○○先生カレンダー頒布会の打ち合わせをしますのでお集まりください」と言う通知が舞い込んできました。
彼(画家)、元来、社交下手で、こうした、知らない人との集まりに出るのは苦手でした。
従って、「出来るものなら ご無礼させてもらいたいのだが、どうだろう」と友人に相談しました。
しかし、「いくらあんたが、社交嫌いといっても、貴方のために、わざわざ集まって下さる人々を、無下に放っておいては、失礼だろう、そりゃー、絶対、出なければ駄目だよ。」と言います。

 

その5

出席した会は、もともとは、例の地方文化人達10人ほどが、時々集まって、フランス料理を食べ、上等のワインを楽しみながら、芸術を論じ、その地の文化の興隆を図っていこうと言う趣旨の会でした。
従って、集まってきたみなさん方は、これが初対面という訳ではありません。お互い、知り合同士で、和気藹々と(和気あいあい;和やかなふんいき)話し合っておられます。
しかし、知っている人もおらず、そうかといって、自分から話しかけていくだけの、社交性もない画家にとっては、それは何の意義も持たない、とても長い退屈な時間でした。
元来社交下手で、人見知りの強い彼にとっては、挨拶に来てくれる人にたいしても、挨拶を返すのだけで、精いっぱいでした。気を使って、話しかけてくれる人もたまにはいましたが、緊張している彼は、上手い受け答えの言葉が浮かんできません。だから会話が成り立たちません。
結局、彼は、会場の真ん中に、独りポツンと取り残され、手持無沙汰のまま、間の悪い時間を過ごさねばならない破目になってしまいました。
会としては、こういった一つの文化的事業を手掛けるのは、始めてとみえ、皆興奮気味に「ああでもないこうでもない」といろいろ話あっておられます。みんな楽しそうでした。
しかし、こうした事業をした経験を持った方が、中にいませんでしたから、なかなか話がまとまりません。
結局その日は、「次の会までに、カレンダーの印刷まで持っていくにはどういうことをするか」という行程表を、そう言った事についての知識を多少はもっているとおもわれる二人が、詳しく調べてくる といった程度の話で、散会という事になりました。

 

その6

さてそれから1ヶ月くらい後のことでした。再び案内状がきて、第2回目の打ち合わせ会が開かれました。
今回も、美味しい食事とお酒を楽しみながらの会を兼ねてのお話し合いでした。
まず最初に、前回決まった、今回の会までに調べてくることになっていた、印刷までの行程表が示されました。
その後、何部くらい印刷するか、誰が どういうふうに販売するかといった事が、議題に上がりました。
誰もが全て始めての事ばかりです。
甲論乙駁(こうろんおつばく:あれこれと論じ合うばかりで、議論の決着がつかないこと。)、議論が紛糾して、やはり話はまとまりませんでした。
そこで、こういう事は、あまり沢山の人では、話がまとまり難いので、今出席している人の中から3人ほどを選び、、その人達に代表になってもらい 、そういった事務的な事は、 その人たちにまず大体きめてもらっておいて、それから、それを皆さんに計って、決めるということにしたらどうか という話になりました。
ただ、カレンダーの図案の選択だとか、デザインの選定には、ぜひ自分達も参加させて欲しいという、全員の強い希望で、編集は全員でするという事に決まりました。

 

その7

しばらく後、カレンダー用の絵が出来上がり 、いよいよ編集という事になったのですが、此れが又大変でした。
画家は、最初の約束通り 自分の好きなように画いててきた絵を、 好きなようにデザインして、思い通りに編集する事が出来ると思っていました。
しかし後援会の人たちは、夫々(それぞれ)が、 我こそは 地方文化の保護者であり、文化人であると 自負していますから、そうはまいりません。
皆さん夫々が、夫々の主張をされて、なかなか決まりません。
この絵はカレンダーには向かないとか、この月は、こういった図案の絵の方が良いとか、こういう図柄の絵が欲しいとか 次々に希望が出てまいります。
画家としては自信をもって描いてきた自分の作品が 簡単に退けられるのは、とても耐え難いことでした。しかしそれでも、みなさんが私の為に、こんなに一生懸命になって下さっているのだからと思って我慢しました。
そして、彼らの意向を取りいれた絵を、あと4,5枚、追加して、画いてくる事にしました。

 

その8

こうして わいわいがやがや、学芸会の背景作りのような雰囲気の集まりの中、絵の割付が決まり 表紙のレイアウトも決まりました、
しかし、最後、数字の字体をどうするかという段になって、再び躓(つまづ)いてしまいました。
画家には、カレンダーに使われている、今の数字の字体が、どうしても気に入りません。
他の人から「これで良いんじゃない」と何度も言われますが、どうしても、我慢できません。
この数字の字体では、自分の絵のイメージと合わないように、思えるといいます。
後援会の人達は、カレンダー絵の部分と、数字の部分は別々の物だから、数字の字体まで拘(こだわ)る必要はないという感覚でした。予算の都合もあるのでしょうか、 数字は、普通の活字体で良いのではと何度も言います。
しかし画家の考えでは、数字もカレンダーという作品の一部であるから、自分の絵のイメージに合った字体で無ければ駄目だと言い張ります。
こうしてしばらくはもめておりましたが、結局最後は、画家の主張を通し,数字の字体は画家の言う通りにしようと言う事に決まりました。
こうして、やっとカレンダーの原案が決まり、後援会カレンダー作成事業が、順調に回り始めました。
画家は、此れでやっと、煩わしい雑事から開放される事が出来、自分の創作活動に専念出来る時間が戻ってくるとよろこんでおりました。

 

その9

しかしそうはいきませんでした。
それから少し経ったある午後のことです。突然印刷屋が画家の家を訪ねてきました。
「今度カレンダーを印刷して下さるとの事で、ほんとうに、ありがとうございます。所でお先生とのお取引は、初めての事でもございますから、申し訳ありませんが、印刷を始めるに当たっては、先に、半金をいただきたいのですが」と言います。
画家としては、お金の心配は、全くおかけしませんからといった約束を信じて始めた事業です。それをいまさらそんな事を言われても困ります。
そこで早速、今度の会の代表者という事になっている人に電話をしました。
「印刷屋が、“これこれ”といってきたのですが」といいますと
「分かりました、そういうのは、私どもの所に来るように言って下さい」との返事でした。
「ああ、やはり、あちらに全てをまかせておけばよいのだな。」
「これでもう、煩わしい事に悩まされる事はないだろう」「後はあちらに任せておけば良い。」と思って、安心しました。
それから間もなく、「カレンダー販売についてのご相談がありますので 、お集まり下さい」という 案内状が舞い込んできました。
しかし、お金の事は、「自分には関係ない」とばかり思っている画家は、「もう面倒な事に、巻き込まれるのは御免」と、その会を欠席してしまいました。
ところが、試し刷りを持ってきた、印刷屋さんが変な事を言います。
「先生、一応××さんのお頼みでしたから、印刷代金は後払いという事になっているのですが、もしも販売した代金で、不足分が出た時は どなたから、払っていただいたらよいのでしょうね」と。この言葉を聞いて、画家は再び、不安になりました。
考えてみれば、カレンダー頒布会といっても、何の実体もない会にすぎません。集まっていらっしゃる人々の顔触れを見ても、結局は烏合の衆で、そういった時、きちんと責任をとってくれそうな人は、いらっしゃいません。
なにかがあった時、 最終的には、自分が、責任を取らされるのでは、と言う疑念が生じました。
更に不安に追い討ちをかけるように「会としては、先生にも300部ほど売っていただく事になりましたから」という電話があり、一方的に、300部のカレンダーが送られてきたのです。
画家としては、此れが売れず、今回の件で、もし赤字が出てしまったら、いよいよ自分が責任を取らされると思いましたので、「こういう事は、苦手だから」なんて言っておれません。悲壮な気持ちで、あらゆる伝(つて)を頼って、あちらこちらにお願いし、なんとか300部のカレンダーを売る事には成功しました。
しかし、こういった金銭の絡んだ事で、人に頭を下げるなんて事をした事がなかった画家にとっては、それはとても堪え(こたえ)ることでした。暫くの間、仕事が手に付かないほどに 精神的に草臥れ(くたびれ)てしまいました。

 

その10

さて頒布会の結果は、諸経費をあらかた差し引いて、150万くらいの剰余金が出、 お金の面ではまあまあ上手くいきました。
そこで彼らは自分達だけでなく、その他、町の有力者達も呼んで、○○先生カレンダー出版記念会を、盛大に行いました。会は大成功で、皆が一緒になって 一つの事をやり遂げた満足感と昂揚感で とても盛り上がりました。
そしてその場で、このカレンダーの原画展をやろうという事も決まりました。
更にありがたいことに 原画は、「私はこの絵。 貴方はこの絵をどう」と言った具合に、後援会の皆が、予め(あらかじめ)割り振って予約してくれましたから、展覧会が始まる前に、追加して画いた絵も含めて、あらかた売約済みとなってしまいました。
しかし「好事、魔多し(物事が上手くいっているときほど、意外な所に落とし穴がある、という意味)」とはよくいったものです。その諺の通り、全てがそうはすんなりとはまいりませんでした。
展覧会が終わってしまってから、例の後援会の中の数人の人から、絵を買う事はできないから予約を取り消して欲しいと言ってきました。
その人達は、「私たちは手弁当で参加し、応援したのに、一般の人と同じ価格で買わされるのは納得出来ない」とか、「本来なら、カレンダーを作って、絵の宣伝までしてあげたのだから、原画なんか、只でくれてもいいくらいなのに」と言って、かなりの値引きしてくれなければ,キャンセルとさせて欲しいとを要求してきました。
しかし画家としては、その原画の売上代金が予定通りに入らないと言う事になりますと、今回の事が、何のためにしたのか、分からなくなってしまいます。大変な思いをさせられただけだったという事にもなりかねません。
確かに多少の剰余金は出ております。しかし、その後におこなった出版記念会で、その中の、かなりの金額が使われてしまいました。その上、今回のカレンダー頒布会を企画してくれた、例の文化人たちの集いの方からも、自分達の会の今後の運営資金として、残りの剰余金の一部を、プールさせて欲しいと言って来ています。
その上、原画まで彼らがいうとおり値引きするという事になりますと、今度の事で、画家の懐に、実際にはいってくるお金の総額は、彼がそれまで、自分の作品を画廊で売ってもらった時、画商から渡されていた金額にも満たない額でしかなかった、ということになってしまいます。
その画家、世事に疎く、金銭や名利に恬淡(てんたん;こだわらない、執着しないの意)としている人でしたが、さすがその話を聞かされた時は、納得できかねるものがありました。何か訳の分からない、もやもやしたものが、彼の心の奥底に渦巻いて、そこから吹き上げてくるのが感じられました。
しかし、結局は、お金の問題のような、そんな世俗的な事に、何時までも関わっていたくないと思いましたから、それ以上、なにを言う事もなく、後援会の人が持ってきた金を受け取って、それで全てを収めてしまいました。

 

その11

全てが終わった時、画家は、
「なんだか草臥れたなー。できれば こういう事は、もう二度としたくない。あの種の人達(例の文化人の会の人達)とも、もう近付きたくないなー」と思ったそうです。
この世俗的な世の中を生きていくには、全てを任す事のできるような、信頼できるマネージャーか、絶対的な庇護者でも持たない限り、芸術一筋、ただ絵を描いていれば良いというわけにもまいらないようです。画家も大変ですねー。
私達は、画家の先生が、お金の事をがめつく言われたと聞くと、なんだか、あさましいようで、イメージが壊れるような気がします。しかしこの世知辛い世を、生きていくためには、画家としては、やはりそうせざるを得ないのでしょうねー。
それにしても、この事件、この画家に気の毒な事になりました。
本来、こういった事業は、「遊びやボランティアとしてするのではなく、主体になる一人の人間が(組織という場合もありますが)商業ベースにのっとって企画し、画家ときちんとした契約を結んで ビジネスライクにやる。」といったやり方ですべきではなかったかと思います。
その方が 作家にとっても 煩わしい事もなく、最も良い援助法ではなかったかと思います。
もしも、その後援事業の採算性に不安があり、ビジネスとしては、誰も手を上げてくれそうもないから、ボランティアでやろうとしたのだというのであれば、 お金の面でも、実務的な面でも 最終的に、だれが責任を取るかという事をきちんと決めておき、且つ、一人の人がリーダーシップを取ってその事業の面倒をみるとい言う風にしておくのが ベストではなかったとおもいます。
こういった沢山の人の絡んだ、思いつきによって発案されたような事業は、損を出した時、その責任を誰が取るか、利益が出た時は、その配分をどうするかなどという事を、予め決めておかないと、後々、もめるもとです。そんなやり方では、誰かの為にしてあげるつもりでした事が、却って、その人に迷惑を背負わせてしまったということにもなりかねません。今回のやり方のような、どんぶり勘定で、皆で神輿を担ぐと言うようなやり方は最悪で、助けて貰うことになっていた人にとっては、却って有難迷惑になったということにもなりかねないやり方だったと思います。