その5
「もし、ちょっとお尋ねいたしますが、あなた様はこちらの村のお方でしょうか。私、隣村の庄屋の所に嫁いでまいりましたものでございますが、最近、私どもの娘が、咳が出て、止まらなくなって、困っております。この村には、なんでも咳によく効く飴を、作っていらっしゃるお宅があると、伺っておりますが、もしや、ご存知ないでしょうか。」と聞きます。確かにその村には、昔から笹に包んだ痰きり笹飴として有名な、咳止め飴がありました。
「そういった飴を作っていらっしゃる家はありますが、こんな夜中ですから、もう訪ねていかれても、誰も出てきてくれませんよ。今日はお諦めになって、日を改めて、昼間にいらっしゃったほうがよろしいのでは。」と佐助が言いますと、「さようでございますか。しかし私どもでは、姑がうるそうございまして、昼間に出歩くわけには参らないのでございます。私、明日の晩、もう一度取りに参りますから、あなた様が代わりに、買って置いてくださるという訳には、参らないでしょうか。」とその女は、泣きそうな顔をしながら申します。
佐助さんは最初から、「この化け狐めが」と思っていますから、女がどんな顔をしても、心を動かされる事はありません。又「人を誑かそう(たぶらかそう)として」と、憎憎しく思っただけです。しかし今のところ女は、一間半くらい先にいて、懲らしめてやろうと思っても、棒の届かない所にいます。もし此処で殴りかかっていっても、逃げられてしまう事は間違いなさそうです。
そこで佐助さんは、さも同情しているような顔をしながら「それはお困りでしょう。いいですよ。私が代わりに買い求めておいて差し上げましょう。しかし私も、見知らぬお方のお頼みでございますから、お足(お金)だけは先に頂いておきたいのですが。確か一袋、三十文だったとおもいますよ。」と言いながら、お金を受け取るためという様子で、左手を差し出しながら近付いていきました。
女は本当に嬉しそうに、「ありがとうございます。これで家の子供が助かります。どなた様の所も、同じでございましょうが、親というものは、子供の病気で苦しむのを見ているのは、身を切られるより辛いものでございます。本当にありがとうございます。ご面倒をお掛けしますが、どうぞよろしくお願いします。」と何度も、何度も頭を下げながら、巾着からお金を取り出し、数え始めました。その隙を見て佐助さんは、さっと女に近寄ると、右手に隠し持っていた棍棒で、思い切り狐の頭に殴りつけました。ゴンという鈍い音、ギャーツという悲鳴に続いて、バサッと倒れる音。下を見るとそこには、女が頭から血を流しながら、血まみれになって倒れておりました。
姿はまだ女の形をしておりますが、苦しいのか、女のお尻からは既に、尻尾が現れ始めておりました。「ざま―みろ。人間様を化かそうなどという、身の程知らずの事を考えるから、こんな目に会うんだ。これに懲りて(こりて)、これからは絶対に人を誑かそう(たぶらかそう)というような、大それた考えはおこしなさんな。」と棄て台詞を残すと、血まみれの女の身体を思いっきり蹴飛ばし、そのまま立ち去って行こうとしました。
所がその時、蹴られたことによって気がついたのか、ぐったりとして、横になっていた女が起き上がりました。恨めしそうな目を佐助さんに向けると、「どうしてこんな酷い(ひどい)事をなさるのですか。私らお稲荷狐の眷属(けんぞく)は、お稲荷様のお言いつけに従って、人手が足りない家に、お手伝いに行ったり、お金がなくて困っていらっしゃる人のところへ、(お稲荷様に、上げられていたお賽銭の中から、)お金を持って行ってあげたり、病気で困っている人のところへ、薬草を摘んで持って行ったりと、ずいぶん人様の為に尽くしてまいりましたのに。」と苦しそうに、肩で息をしながら、言ったかと思うと、パーッと狐の姿に戻り、よろよろと、よろめきながら、逃げ去っていきました。
その6
佐助さんは、「何を言っとるか。お前に騙されて、酷い目にあった奴が、どれほどおったか分からんのに。」とぶつぶつ言いながら、家へ帰ってきましたが、どうも気分がすっきりしません。
考えてみれば、あの狐、人を化かすような狐としては、あまりにも人間に対して無警戒すぎます。こちらの言う事をあまりにも簡単に信じ過ぎます。
「飴を代わりに買っておいてあげる。」と言った時のあの喜びようも、とてもお芝居とは思えない真実味がありました。あの狐の言うとおり、狐が人間を誑かした話などというものは、本当は、村人達の与太話に過ぎなかったかもしれません。又、他のもの、例えば妖怪だとか、あるいは狸の仕業だったかもしれませんし、酔っ払いの戯言(ざれごと)だったかもしれません。それを、きちんと真相を、確かめもしないで、あの狐に酷い仕打ちをしてしまった事が、気が咎めて(とがめて)なりませんでした。
その夜、佐助さんは、気になって眠れませんでした。まんじりともせず、夜を明かした佐助さんは、夜が明けるのを待って、早速、女が差し出したお金を、確かめてみました。しかしそれは木の葉にも、小石にも変わっていませんでした。れっきとしたお金のままでした。お稲荷狐がいっていたのは、本当だったのかもしれないのです。
ますます気になりだした佐助さんは、みけつね様に騙されたと言っている人たちの所へ、本当の所を聞きにいきました。するとどうでしょう。狐に化かされたというお話の殆どが、与太話(でたらめなたわいのない話)に過ぎなさそうだという事が、分かってきました。
小さな嘘が、皆が面白がっているうちに、だんだん話が膨らんで、大げさになっていっていただけのようでした。
佐助さんは後悔しました。と同時に、あれほど強く殴りつけてしまったみけつね様が、その後、どうなったのかも、心配になってきました。又、その時、咳が止まらないといっていた、子狐の病気の事も心配でした。
その7
その夜、女が咳止め飴を受け取りに来るといっていた場所に、念のために行ってみましたが、無論、女がきているはずがありません。
佐助さんは恐ろしいのを我慢して、お稲荷様の祠(ほこら)の下にあると噂されている、みけつね様の洞穴へと向かいました。お宮様の境内は、昼間でも薄暗い所ですから、夜は一層暗く、ほんの少し先でさえも見えないくらいです。その中を飛び交う蝙蝠(こうもり)の羽音、闇の中を走る、夜行性動物の光る目、時々森を震わす、鳥か動物かの「ギャー。」という不気味な鳴き声、がさがさと何かが草むらを駆け抜けていく音、それらはまるで妖怪の森に紛れ込んでしまったかのような恐ろしさです。
昨日の狐が、顎まで引き裂けているような大きな口を開けて、「昨日の仇。たたりじゃー」と言って、今にも飛び掛ってきそうな気がいたします。佐助さんは、怖くなって、直ぐにでも、逃げ帰りたくなりました。
その時でした。佐助さんの耳に、「我が使い“みけつね”に、とんでもない仕打ちをなしたのは、汝か。汝のなした罪は、汝がこれを確かめ、償うべし(つぐなうべし)」と言う陰々(いんいん)たる声が森の奥から、響いてまいりました。
佐助さんは震え上がりました。このまま逃げ帰ったら、この後、お稲荷様から、どんな神罰を受けるか分からないと思うと、帰るわけにもまいらなくなりました。
やむなく、佐助さんは、怖さに震えながらも、森を突っ切り、境内の一番奥にある、お稲荷様の祀って(まつって)ある、祠の所までやって参りました。
祠の前はシーンと静まり返っておりました。その静けさゆえに、今にも妖怪に化けた、狐の大きな口が、噛み付いてきそうな無気味さです。祠の前に座り込んだ佐助さんは、一生懸命お稲荷様に謝りました。みけつね様にもお許しを、乞いました。
「どうか私の浅はかな行いをお許し下さい。それによってご迷惑をお掛けしました、みけつね様にも、私の罪をお許しくださるよう、御取り成し下さい」「みけつね様、知らない事とはいえ、昨日はとんでもない事をしてしまい、申し訳ありませんでした。代わりにどんな事でもさせていただきますから、どうか今回のことはお許しください」と。しかしお稲荷様の祠からは、何の返事もありませんでした。祠の前は、ただただ、恐ろしいほどの静寂が支配しているだけでした。佐助さんは長い間一心に、お願いし続けました。
その8
すると祠の下から、微かな音が聞こえてくるのに気付きました。それは洞穴の中に、口籠っているような(くごもる:言葉が口の中にこもって、もごもごしてはっきりしない状態)、微かな音でした。しかしよく聞いていますと、苦しそうな、咳くような、鳴くような音です。
「やはりみけつね様の言っていらっしゃった事は本当だったのだ。病気の子供を思う一心で、危険を冒してまで、飴を求めにやってこられたものを、あんなだまし討ちのような方法で、酷い目に遭わせてしまって。みけつね様は、その後どうなさっていらっしゃるだろう。」と思うと、もうじっとしておれません。佐助さんは、恐ろしいのも忘れ、洞穴の中を覗いてみました。洞穴は子供の頭がやっと通るくらいの広さしかありませんでした。中は深く、真っ暗で、殆ど何も見えません。しかしじっと目を凝らしてみていると、奥の方に、何か白い塊のような者があり、その傍で、小さな物が、動いているような気配があります。
先ほど聞いた音はそれから出ているようでした。甘えたような、途方にくれたような、弱々しい鳴き声に混じって、時々咳き込むような音がしてまいります。
「みけつね様、ごめんなさい。貴方様がおっしゃっていた通り、私が間違っておりました。お詫びに、何でもさせていただきますから、何なりとお言いつけ下さい。なおあなた様がおっしゃっていらっしゃった、痰きり笹飴はここに置いておきます。どうかお受け取り下さい。」と言いながら、笹飴を洞穴の入り口に置きましたが、洞穴の中からは、あの弱々しい、鳴き声が微かに聞こえてくる以外に、何の音もしません。しばらく待っても、何の応答も返ってきません。
「あー、まだ怒っていらっしゃるから、お返事を下さらないのだなー。」と思った佐助さんは、
「お返事がないようでございますから、本日はこれで失礼させていただきます。又後日、日を改めて、来させていただきますので、その時は、よろしくお願いします。本日は、お騒がせして本当にすみませんでした。」と丁寧にご挨拶をして帰って行きました。
その9
翌朝、明るくなるのを待ちかねたように、佐助さんは、あのお稲荷様の祠の所にやってきました。しかし洞穴の入り口には、昨日置いておいた、痰きり笹飴がそのまま置かれており、誰かが手をつけたようすもありません。子供の泣き声も咳も、昨日より心もち、弱々しくなっているようです。
「あれほど子供のためにと欲しがっていた飴が、子供が今でもあんなに咳きこんでいるのに、そのまま抛(なげう)ってあるのはおかしい。」と思った佐助さんは、「もしかしたら。」と思いましたが、念のためにと、小枝を拾ってきて、穴の中をつついて見ました。
しかし小枝の先に、何かが当たるような、手ごたえはあるのですが、何の応答もありませんでした。
「これは、とんでもない事をしでかしてしまったに違いない。」と覚った佐助さんは、祠の下に、頭を突っ込むと、一心に、洞穴の周りの土を掻きとり,穴の口を広げていきました。
次号に続く