No.115 お稲荷狐、みけつね様物語その3

その10

こうした作業を根気良く続けているうちに、一時半(3時間)も経ったときのことでございましょうか。手を伸ばせば、やっと穴の奥にあるものに触れるようになってまいりました。触ってみると、それは佐助さんの予想通り、毛皮のような手触りです。しかしそれは既に硬く冷たくなっていて、触っても身動きもしません。
悪い予感に震えながら、夢中になって、引っ張り出した佐助さんが見たものは、やはりあの狐の冷たくなった姿でした。狐はどす黒く固まった血のなかに、頭を埋めるようにして息絶えていました。腹の下に、一匹の子狐を守るように抱きかかえ、いかにも心残りがありそうに、僅かに目を見開いたまま、冷たく固まっておりました。
母親が死んでいるのも知らない子狐は、それでもなお、一生懸命母狐の乳首にしがみ付いております。母狐の言っていたとおり、時々咳き込むのですが、その後又、乳首にしがみ付いていきます。
しかしもう、かなり弱ってきているのか、鳴き声にも咳にも力がありませんでした。佐助さんは自分のした罪の重さに、愕然(がくぜん)としました。
その哀れな姿を見ると、涙がとまらなくなりました。
「何処の親も子供の病気は、身が切られるように辛うございますから。」と言っていた、あの母狐の、その時の表情と言葉が思い出されてなりません。
「ごめんなさい。ごめんなさい。本当に私が馬鹿でした。どうぞお許し下さい。」と号泣しながら謝りますが、死んだ狐から返事が返ってくるはずもありません。
そんなに大怪我をさせられながらも、子供を守らなければと必死に子供のところに戻ってきた母狐の心を思うと、可哀想で、自分のしたことが責められてなりません。
「生き物の命に上下はないのだよ。親子、兄弟の情愛だって、人だって、ほかの生き物だって、変わりがないんだから、狐だからといって、(多分やっていないとは思うけど、例え本当にやっていたとしても)ちょっとした悪戯程度の事にすぎないのに、それを理由に、退治してしまおうなどと考える事は、とんでもない話で、そんなのは人間の思い上がりだと思わないかい。」といって狐退治を、固く止めた(佐助の)母親の言葉も、いまさらながら、思い出されます。
しばらく狐の遺骸(なきがら)の前で泣いていた佐助さんは、やがて諦めたように立ち上がると、お稲荷様の祠の周りに穴を掘って、親狐を丁重に葬りました。そしてその上に小さな石をおいて塚を作ると、「とてもお許し下さらないとは思いますが、せめてもの償いに、この子は、私の身に替えても、立派に育てて見せます。どうかここで見守っていてやってください。」と誓った後、祠の下の洞穴の口を閉じ、子狐を連れて帰っていきました。

 

その11

丸々一日以上も乳を飲んでいなかった子狐は、その上病気も患っておりましたから、とても弱っておりました。
佐助さんと、そのお母さんは(その当時の佐助さんはまだ独身で、お母さんと二人で暮らしておりました。)必死になって子狐の面倒を見ました。お母さんは息子にたたりが来ない事を祈り、子供は自分の罪がすこしでも償われる事を願いながら。
しかし、子狐の弱り方は酷く(ひどく)、助けるのは、なかなか難しそうにみえました。それだけに、二人は必死になって子狐を助けるために奔走(ほんそう*はしりまわること)しました。
佐助さんの母親は、子狐のためにと、最近、子供に死なれた母親のところへ行って、(自分の身内に乳の出が悪くて困っている子がいるからと嘘を言って)、搾った乳を貰ってきては与えました。佐助さんは、佐助さんで、豆乳とか、重湯、そして魚粉粥、果汁、卵などといったものを、いろいろな割合で混ぜ合わせ、或いは単独に、栄養的にも、健康面からも、そして(子狐の)好みの上からも、(狐の)母乳に代わる食べものを探してきては、与えました。
ここで、佐助さん親子に幸いしたことは、この子狐、生まれてから既に日がかなり経っていて、身体もかなり成長してきており、抵抗力がかなりついてきていたこと、そして食事のほうも、既に母乳だけでなく、いろいろな食べ物を食べ始めていたらしいことでした。こうして、二人の努力のおかげで、子狐は次第に食事も進むようになり、元気になってまいりました。
あれほど咳き込んでいた咳の方も、与えた人間の咳止めが、大変に良く効いたのか、一週間くらいの間に、すっかり治まってしまいました。

 

その12

あれから一年、子狐はもう立派な大人の狐になっていました。薄茶色の毛皮をした、とても美しい、雌狐でした。
しかし彼女は、大きくなってもまだ佐助さんのところに止まっていました。まるで子供のように、跳んだり撥ねたり、前に行ったり、後ろに付いたりと、嬉しそうに 佐助さんの行く所、何時でも、何処にでも付いて歩いていました。
そんな子狐が佐助さんは、可愛くて仕方がありませんでした。佐助さんは、この子狐をコンコと名付けました。しかしコンコが懐いてくれるにつれ、それを見る佐助さんの心には、時々、チクッとした痛みが走ります。
やがて来る別れの辛さへの想いと、母狐に対して行った自分の残虐な行為への自責の念が、そうさせるのでした。そして、あのときの母狐との約束通り、なるべく早く、野生に、狐本来の生活に、戻してやらねばと誓うのでした。
佐助さんは、死んだ母狐に代わって、四季折々、コンコに野生での生き方を教えました。野鼠、蛙、蛇、鴨、魚など、といった生き物の獲り方や、野苺や、野葡萄、野生の柿、栗、椎の実、山芋、鳥の卵など、といった野原の中にあるものからの、食べ物の集め方などや、危険な物の見分け方など、自然の中で生きていく上での、いろいろな知識を教え込んでいきました。
そのさい、佐助さんの最も力を入れたことは、人間の恐ろしさを教える事でした。人間の作ったもの、人間の臭いのするものには、絶対に近づかないように教えました。特に火縄銃とか、弓矢、礫(つぶて)、鉄罠(わな)など、人間の作った道具の恐ろしさについては、徹底的に頭にいれておかせました。
コンコはとても頭が良い狐でした。言葉が理解できているのかどうか、分かりませんが、彼の言うことをじっと聞いています。
佐助さんのする事もいつも注意深く、じっと観ています。そのためか、二歳を過ぎた夏のおわり頃になりますと、餌の集め方にしても、危険の避け方にしても、佐助さんのやり方に、狐本来のやり方を加えて、教えた佐助さんがびっくりするほど、上手くやるようになりました。

 

その13

中秋の満月の日、佐助さんはこの夜をコンコとの別れの時と決めていました。その夜、何も知らないコンコを連れて、お宮さんの境内にある。例の、お稲荷様の祠の前にやってきました。
そしてコンコと一緒に、祠の前にたつと、「お稲荷様、これで完全に、償いが出来たとは思いませんが、一まずこの子を、此処まで大きく育てることが出来ました。これからも、お稲荷様のお使いを、粗末にするような事はしませんから、どうかお許し下さい。」とお祈りしました。
次に、祠の傍に作った母狐の塚の前にコンコを連れて行き、コンコに向って、コンコの母狐に対して、自分のした事を、正直に話しました。
そして心から謝りました。コンコは、佐助さんの話が、理解出来ているかのように、じっとその話に耳を傾けていましたが、やがて話が終ると、黙って、森の奥へと去って行きました。
それはあっけない別れでした。もっと離れるのを嫌がるかと思っていましたのに、佐助さんのほうを振り向きもせず、鳴くようなこともなく、一瞬の内に、草むらの中に消えていってしまいました。
佐助さんはとても寂しい思いをしましたが、これも自分のした事に対する報いだからと思い、涙を堪え(こらえ)ながら、コンコの去っていった辺りを、いつまでも、いつまでも、眺めておりました。
しかしコンコが二度と佐助さんの前に姿を現すことはありませんでした。
やがて気を取り直した佐助さんは、母狐の塚の前に座ると、子狐が立派に育ち、今故郷へと旅立っていった事を報告し、自分の罪を詫び、もう一度お許しを願ってから、家へと帰っていきました。

次回に続く