No.108 球体の一方から見ての右も、反対側から見れば左です

今でも12月が近づいてまいりますと、例年、忠臣蔵の話題が、チョクチョク耳に入いるようになってまいります。父親の年齢の人達にとって、赤穂浪士の討ち入り話は、血沸き、肉踊るお話のようで、そのような番組をやっている時は テレビの画面に釘付けになる人も多いようです。
しかし考えてみますと、このお話変だと思いませんか。徒党を組んでの討ち入りのような私的な闘争は、時の政府であった幕府が、厳禁していた事でした。
勅使接待場所での刃傷事件に対する、幕府の裁きの不平等さに対する不満から、大衆の同情は、確かに浪士側に集まっていたかもしれませんが、
時の法令に背いて、飛び道具まで持ちだし、しかも集団で 他人の屋敷に押し入るなどという事が、許されて良い事かどうかは、冷静にかつ第三者的に考えてみれば、大いに疑問が有るところだと思います。
討ち入られた吉良家側にとっては、とんでもない話であったでしょうし、為政者としての幕府にとっても、社会秩序を破壊するものとして、絶対に容認できないことであった筈です。
もしもこのような事が許されるなら、際限のない報復と予防殺人の連鎖を呼び、社会は大いなる混乱の渦中に巻き込まれてしまうでしょう。
また今日、貴方方の隣家で、こんな事件、今風に言えば、マシンガンやピストルで武装した集団が、隣家に押し入り、撃ち合いの末、親分の敵の命を奪ったなどという、やくざのドンパチまがいの事件が起こったとしたら、皆さんはどう思います。
街中でそんな事をするのはとても許されことではないでしょう。きっと非難の集中砲火を浴びせられるのではないでしょうか。
それは今の言葉で言うなら、テロに他ならないからです。
ペルーの日本大使館占拠事件にしても、ゲリラ側からすれば 弱者即ち少数の者に対する社会正義が行われないから 非常手段に訴えるのだという理屈があります。
しかしペルー政府や日本側からみれば 其の行為は 法規にそむき、社会を撹乱させる、テロ其の物ということになります。
アフガニスタンのタリバンにしてもアルカイダにしても、アメリカは今でこそ目の敵にしていますが、最初の頃は、対ソ・ゲリラ戦用のレジスタントの戦士として それを支援し武器援助もおこなってきたのです(それはソ連政府にとってはテロだったにもかかわらずです)。
イラク戦争以前にイラクに対しても、正面攻撃とは別に、フセイン政権打倒の為のゲリラ組織を作り、それを支援しようという動きも有りました。
しかしそれが本当に行われていたなら、それはフセイン、イラク政府にとってはテロだったはずです。にもかかわらずアメリカにとっては、それも正義だったのです。
パレスチナ紛争なども、イスラエルの政府にとっては生存権をかけての戦いであり、パレスチナを占拠しての無差別攻撃も、ゲリラが、正規軍のように一般人と区別がつかない以上、やむをえない事なのだと主張し、且つ反撃してくるものをテロ行為として、此れを排斥します。
しかしパレスチナ側にとっては、占領されている自分の国土の中で、正当な主権と領土を回復する為の、正義の戦いだといえます。
正規軍で対等に戦う力を持っていないパレスチナ人にとっては、テロのような手段も、レジスタンスの一つの戦術としてやむをえないことだと言う訳です。
ユダヤの人々は、かってナチスが自分達に対して行った非道を 声高に非難します。しかしパレスチナの非戦闘員に対しての無差別攻撃や虐殺疑惑に対しては 何の返答も反省の言葉もありません。
まさしく戦争の狂気です。昔から泥棒にも三分の理という諺が有りますが、立場が変われば主張される正義はころころ変わるという事です。
特に政府、御用学者などのように、時の権力の側に立った、歴史の記述などには、この傾向が顕著で、全く信用できません。
所で、敗戦後、長い間 反省と謝罪を強いられてきた日本人の中からも、それに倦(う)んで、そろそろ日韓併合、中国侵略、世界大戦参戦の歴史的観点や、そこで行った非人道的行為を、見直したり 正当化したり 無かった事として歴史から抹消しようとしたりする動きが出てきております。
例えば 新しい歴史教科書を作る会の人々による歴史教科書改変の動きとか、其の採択を決定した、1~2教育委員会の人々の動き、太平洋戦争での、A級戦犯も合祀してある靖国神社への、時の総理大臣小泉氏の公式参拝と、それに賛同する一部国民の動きなどは、その一つの現れです。
そしてそれに対し反発を示す、韓国や中国の動きに対し、内政干渉だと嫌悪感を表す日本人も少なくありません。
しかし、韓国や中国の人々の側からみれば、それはとても容認できないことです。
日韓併合による屈辱感、そしてそれによって受けた韓国の人々の物心両面から受けた被害は、植民地となった国民にしか分からない悲痛なものであっただろうとおもわれます。
日中戦争に巻き込まれて、家を焼かれ、殺され、或いは死んでいった中国民間人が、どれほどたくさんいたことでしょう。もし逆の立場で、貴方か貴女の身内が、そういう目に、遭わされていたとしたら、恐らく今も恨んでおられる事でしょう。
それを日本人が今になって、
当時の事情としては 日本民族が生き残る為のやむを得ない選択だったとか、
当時は 欧米列国だって、植民地主義的拡張政策をとっていたじゃないかとか、
韓国に関しては、放っておけば、清国の属国となる可能性があったので、救ってやったのだとか、
自国の権益を守るために、清に先んじて行った、やむをえない行為だったとか、
虐待、無差別攻撃は、戦争の時は何処の国もやっている事で、それは戦争という行為その物の持つ野蛮さ残虐さによるものではないかとか、
(事実あれだけ人権尊重とか、戦争犯罪を声高に指弾してきたアメリカ人達にしても、自国の事となると現時点でも アルカイダやタリバンの捕虜に対する拷問や、虐待も平然と黙認しています)
占領下においては、(民衆そのものがゲリラに替わり、)戦闘員と非戦闘員とは厳密に区別できないのだから、自分たちの命を守るためには、占領地の民間人にたいする、無差別的集団虐殺や、拷問もやむをえない事だったなどと主張したとしても、
それは日本側の論理であって、中国や韓国に対して、日本の国がした事は、結果においてはその国の人にとっては侵略行為にほかならず、捕虜への虐待や非戦闘員の殺害は、非人道的な、野蛮極まりない残虐行為として映っている事には、変わりないからです。
こういった事実を隠蔽(いんぺい)し、日本側の言い分や都合のよいことだけを美化し掲載しようとする、日本の歴史教科書の改竄(かいざん)の動きに、中国や韓国の人々が、強い警戒感と反発を示すのも、又当然の事です。
暴力は振るった側は忘れても、振るわれた側は、いつまでも覚えているものですから。
しかしながら、何処の国の歴史教科書も又 その時の国家や為政者の都合よって、書き換えられ、歪曲され、自国に都合の悪いことは、載せられていないものです。
日本のことをとやかく言う中国だって、チベットへの侵攻を侵略とは書いていません。彼らにとっては、チベットは本来自国の領土だと考えているからです。
しかしチベットのダライ・ラマたちにとっては、彼らの領土であり、中国軍の侵攻は、主権国家であったチベットへの侵略であったのは間違いない事実です。
球体のこちら側から見ての右は 反対側から見れば左なのです。そして最初に立った時の側面に立ってみれば それは前なのです。しかし其の球体を上から見てくるくる回転させたとしたら何と表現したらいいのでしょう。
偉人たちの伝記にしても、その殆どが、ある作為をもって(悪気のあるなしは別として,ある立場に立って描かれておりますから)歪曲されたり、美化されたりしている部分があるのが殆どです。
従って、歴史に関連した書物の中から、中立的な立場にたった真実を見つけ出してくることは、容易な事ではありません。
反体制に属する人々や、権力から遠い、弱い立場の人々の、残されている、埋もれた記録や記述を丹念に拾っていき、総合的に判断することによってのみ、初めて真実の姿(全体としての球の姿を)捉える事が出来るのですが、その肝心の資料が、時の権力者によって、抹消されたり、時の経過と共に紛失したり、消失したりしてしまっているものが多いからです。
一般に、何が正しく、何が正しくないかを判断し、為すべき事を決めていく事も、容易な事ではありません。上記のように私たちは、球の一方の側といった偏った視野と立場によって、物事を判断している事が多いからです。
従って、正義は立場によって異なり、またその人の中に形成されている規範によって異なってしまいます。
考えてみれば、本来、宇宙的観点に立って考えるなら、絶対的な正義などと言うものは、存在しません。
何故なら正義とは、人間が社会を形成し、言語が発達し、考える存在となってきた時、初めて形作られてきた、人間社会の中の観念的な存在でしかないわけですから。
だから人により、社会により、時代によって、正しいと認識されるものの中身に、多少の違いが出てまいります。しかし、それを(正しいという観念を)、人がその歴史の中で、長い時間をかけて形成してきた、(人間の)社会が、円滑、円満に運営されていくための知恵として、社会的な規範の中から生まれ出てきた観念と考えるなら、個人的経験の違いや、時代によって、或いは形成されている社会の発展、膨張によって(交通と通信の発達によって、最近の人間社会は、全地球規模にまで拡大されてきています)、多少の変遷はあったとしても、しかしそこには、長い時間をかけて積み上げられてきた、基準となる大枠は存在しています。
それにもかかわらず、それと無関係な、一つの方面から意図的に流される、「為にする」ための情報のみに従って、正しいと信じる行動規範を形成していった場合は、その人の本来の思いとは別の、とんでもない間違った方向に引っ張られていってしまっている可能性があります。
オウム真理教など怪しげな新興宗教において、こんな人がと思われる高学歴の人が、とんでもない事件を引き起こしたり、北朝鮮のような独裁国家の国民が、我々周辺国から見た時、常軌を外れているとしか思えないような独裁者の行動を、支持し、容認したりしているのは、その良い例です。
大局的に見たとき、地球という宇宙船の中での、社会の構成員の一人として、誤りのない行動をするためには、何事も先ず疑う事です。
そして相手の立場、思考、そして今後の長い歴史の流れの中での評価も考慮の上、 総合的、且つ多面的観点に立って、何が正しいか、何をなすべきかについての、自分考えを纏める事、それが最も肝要な事のような気がいたします。
行動を起こすにあたっても、 自分とは違った考えや立場の人間の存在は無論のこと、地球上には、命を紡いでいる他の生物も存在していることも念頭において、 地球規模の発想、即ち、球体を高い所から眺めるような大きな視野のもと、判断し、向かう方向をきめていく事が、必要なのではないでしょうか。
なおこのようなものの見方、考え方は、美術品の見方、美術品のコレクションの際にも通じるところがあるように思います。
物の見方にも絶対はありません。

終わり