No.88 生きる事、競う事

このお話はフィクションで実在の人物、実際の事件、出来事とは関係ありません

約二ヶ月前位より台所に鼠が出るようになりました。最初のうちは朝起きて台所に立った時 何となく何かが進入したといった気配を感じさせる程度で、別に何か悪い事をするわけでもなく,調理台の周辺が少しだけ汚れているのが気になるといった程度でした。こんな大都会の鉄筋コンクリートの家に ネズミが入ってくるなどという事は 考えも及ばない事でしたから、 始めのうちは半信半疑でした。従ってこちらも「ま いいか あちらさんだって生きていかねばならないだろうから」とおうように構えて黙認しておりました。ところがそうこうして三週間も経ってまいりますと、あちらさんもこの部屋に慣れてきたとみえて、どんどん厚かましくなってまいりました。夜間、外に食べ物を出して置こうものなら、パンであれ果物であれ、必ずといって良いほど、少しだけ、かじってあります。その上 私が床に就くと、それを見計らっていたかのように 何処からか、カリカリ、カリカリと物をかじる音を立て始めます。起きて電灯を点けるとぴたりと止み、ベッドに入るとまた カリカリ、カリカリを始めます。こうなりますと、「鼠さんだって・・・」等とのんびり構えているわけにはまいりません。食べ物などは ほんの僅かかじられただけでも、気持ちが悪くて、 捨てざるを得ません。カリカリ、カリカリとる物をかじる物音も、何がかじられているのか解らないだけに 気になります。万一大切なものをかじられていたらと思うと気が気でなくなりました。そこで、本格的に鼠退治に 取り組む事にしました。ところが敵もさるもの、普通にやっていたのでは、中々鼠捕りにかかってくれません。手を変え、品を変えいろいろやってみるのですが、捕まってくれません。こうして本気で鼠と知恵比べすること三週間、ある朝起きて台所を覗いてみますと とうとう鼠が捕まっていました。体長十数cm、二十日鼠くらいの大きさの鼠でした。其れが粘着テープの上に横たわって死んでいました。もがき苦しんだであろうと思われる、歯をむき出して、死んでいる姿をみますと 如何にも哀れでした。一瞬、悪い事をしたなという気持ちに襲われました。こちらは自分の家だから 自分の領域と思っていますが、鼠達にすれば 彼らが住み着いた場所は 彼らの領分だったはずです。生きていく為に、彼らがそこで餌を漁り、また子孫繁栄の為にそこで巣作りをしたとしても、彼らにとっては、ごく当然のことをしていただけでしょうからね。
考えてみると、生きていくという事は残酷な事です。私ども生き物は 自分の命を保つ為に、どれだけ沢山の命を頂いてきたことでしょう。又自分達が快適に過ごすため、どれだけ多くの命を犠牲にしてきた事でしょう。更には、自分のテリトリーを守る為に どれだけ多くの争いをしてきたことか、又現在もしている事でしょう。悲しいことに、こういうことは生き物が生きていく上で、避けて通れない道なのです。
当然のことながらどんな商いの道にも又、このような戦いはついて回っております。ちょっと気を許せば付け込まれ、知識が不足していれば騙されて、相手に叩き潰されてしまいます。遠慮をしてばかりいれば 追いやられて居る場所がなくなります。そうかといって、あまり人のテリトリーを荒らせば、例え知らないでやったことでも、相手から、手ひどいしっぺ返しを受ける可能性だってあります。生きていくには、実に厳しい世界です。実際、私が美術商になってからだけでも、数え切れない程の業者が、新たに参入してこられましたが、その殆どが、消えていってしまわれました。この道で生きぬいていくのも大変なのです。しかし、足を踏み入れた以上、泣き言を言ったり、躊躇したりしていても始まりません。隙を見せないように心がけながら、知恵を絞り、勇気を奮って、私の理想とする所を目指して、この世界を泳ぎ抜いていこうと、固く決心しております。
註 : ネズミ退治の専門家の話によりますと、このネズミはクマネズミと言う種類の鼠で、最近、都会で非常に殖え、困っているネズミだそうです。又、とても頭が良いネズミで、通常の鼠取りには殆どかからず、ネズミ退治の薬もなかなか食べてくれないので、それの駆除には、その道の専門業者でも手を焼くほどだと聞いております。