No.83 箱を持たない(裸の)抹茶茶碗の嘆き(落語の熊さん、八さん的、茶道具評価論)

以前テレビをみていましたら、所ジョージさんが自分のコレクションについてのお話をされているのを見たことがあります。彼は陶器のコレクションをされているのですが、その蒐集の仕方は特有で、金額、時代、窯、作家名などとは関係なく、自分の心にピンと響いてくる物を集めているとおっしゃっていました。さすが一芸に秀でている人は目の付け所が違いますね。彼は自分の集めている物の美に対して、特有なセンスを持っていらっしゃるようです。テレビの画面で拝見した限りでは、現在の既存の価値観からすれば、たいした品物ではないかもしれません。又価格的に考えても、今それが売りに出された場合、買った値段の何分の一かになってしまう可能性がある品でしかないかもしれません。しかしそれはあくまで今まで構築されてきた既存の美の基準に沿っての話です。もし将来、彼の持っている美にたいする基準が、社会に理解され、認知されるようになるような事が出てくれば、これらの品々は、所ジョージコレクションとして、特別の価値が出てくる可能性も否定できません(彼の美の基準が、普遍的な物指しとして認知されるためには、認めてもらえるように、積極的に社会へ働きかけていくという事が必要ですが)。無論、所さんのコレクションにたいする姿勢は、そのような社会的ないしは金銭的な価値などということには無関係で、彼の関心はもっぱら自分自身の琴線に触れるもの、自分の美の基準にあった物を集める事にあるようにみえましたが。本当に立派だと思います。なかなかこのようにコレクション対する純粋な姿勢はとりにくいものです(美術品以外のコレクターの中には時々みかけます)。
考えて見ますと、美術商を含め(私も含めての話しですが)、コレクター、評論家などなどといった美術品にかかわる者のうち、自分の美の価値観、即ち美にたいする自分流の物差しをもって、それに忠実に品物をお客様に勧めたり、蒐集したりしている人間が、どれだけいることでしょう。多くの人々は、既存の価値観に沿った物差しによって、美術品の価値を測り、取り扱ったり、蒐集したりしているにすぎないように思えます。これはコレクターや、美術商の中に、美に対する眼、即ち自分流の物指しを持っている人が少ない、自信を持って自分の美の基準を主張できる人間が少ないという事に起因している面が大きいと思います。しかし同時に、経済的な動機がそのような独自の価値観を曇らせている要素になっている事も否定できません。
仮にある美術商が、自分の物差しを持っていたとしましても、将来の換金価値や、現在の美術市場での価格動向を考えないで、自分の価値観だけでもって、お客様に美術品の購入は勧めることは、できにくいところがあります。コレクターの側の方でも、所さんのように自分の物差しだけで、物を集めるというには、自分の選択に自信がなさすぎます。大切なお金を投ずる時、殆どの人は、将来の金銭的な価値とか、世間的な評価を気に掛けます。このため、いろいろな人に聞いたり、美術館や展覧会に行ったり、本を読んだりして勉強します。しかしこうしているうちに、その人の鑑賞眼は既存の物差しに組み込まれてしまい、無難な基準、先人達の物指しにそってのコレクションという事になってしまいがちです。
凡百の評論家の意見のあてにならない事は、野球評論家や経済評論家、政治評論家などといった人たちを見ていれば解るとおりです。彼等は熊さん八さんのようなものです。野次馬よりは、多少沢山の美術品についての知識を持ってはいますが、美の基準という事になりますと、既存の観念から離れ、特有な先進的な価値観もって論じ得る人は、あまりいらっしゃらないようです。こうして美術の評価の世界では、天才的な誰かによってつくられ、追随する人達によって権威付けられていった価値観がまかり通り、多くの評価は、それをする人が意識しているか、していないかは別として、その物差し、即ち先人達によって形作られている物差し、それがその人の美術品を見るときの物指しとして使われ、それに添って市場も動き、コレクションもされているのが普通です。
その極端なのが日本の古美術の世界、中でも茶道具の世界です。この世界では箱、箱書き、書付、伝世といった既存の価値観で決められた美の物指しが、最も重要視されております。その為、この世界に関係している人々の独自の鑑賞眼は、不用性萎縮(退化すること)を起し、曇ってしまっています。たとえばどんなに素晴らしい茶碗であっても(既存の価値観に基づく素晴らしいという意味ですが)、きちんとした箱書きの付いた箱をなくしてしまったような茶碗、茶席の参加者の名前や伝世といった曰くをご披露できないような茶碗は、その美術品に相応しい価値を認めてもらえません。ただ実際には長い時間の経過の中で、よい物(既成の価値観に添っての良いという意味ですが)は誰かに認められそれに相応する仕覆(ぬの)に包まれ、それに相応する箱の中に納まっているのが殆どです。 (骨董に知識のない子孫が継承し箱が古くて壊れたからといって棄ててしまったもの、或いは外国に一度出て行ったものなどは箱が失われていることもあります。また贋物を本物の箱に入れ、仕覆に包み、本物の方は別の新しい箱に入れるなどにより時代にあった箱をもっていないといった物もあります)。大茶会には使ってもらえません。そうなると市場での価格、即ち経済的価値も、そのものの本来評価されてしかるべき価値よりも、著しく低くしかみてもらえません。茶碗だけでなく、茶筅にしても、花入れにしても、茶掛けにしても、茶席に用いるその他諸々の物全てで、箱書きとか由来が、名前が重要視されます。利休の見立てとか、著名な誰々の作とか、お茶の宗家の箱書き、誰それ家(大名とか、お家元、有名な好事家など)の伝世という証拠があれば、それだけで無条件にありがたがられる傾向にあります。しかしよく考えてみれば、それは(その箱書きが本物として)あくまで箱書きを書いた人、或いはそれを持っていた人など、その美を見出した人達の物指しによった評価であって(秀吉などといった歴史上の人物の所有物であった場合はその上に歴史の重みも付加されてきますが)、必ずしも絶対的(美の基準に絶対的などというものはないかもしれませんが)、或いは普遍的基準による美を示しているものではないはずです。それにもかかわらず茶道では、箱書きによるお道具の評価が(その箱書きが信用出来る物であった場合ですが)、絶対的な価値としてまかり通り、疑う人もいないのは不思議です。利休は朝鮮の雑器に過ぎなかった茶碗に、美的な価値を見出し、侘び、寂と云った、当時の華やかな美術とは対極にある、独自の美の世界を構築していったはずです。それに対して、既存の美の物指しの呪縛の中、それを金科玉条のように大切にし、箱書きに頼り、旧い仕来りによる美の基準から逃れられない、今の茶道界の人々の、美に対する感覚というのは、いったいどうなっているのでしょう。あんなにも先進的で、独創的な物の見方で、独自の美的な価値を器物に付与し、侘び、寂の茶道を体系化した利休に対して、保守的過ぎると思いませんか。
陶器の例をとって考えてみましても、中国陶器と比べたとき、日本の陶器の評価の仕方、中でも茶道に使う陶器の評価はあまりにも特殊です。中国陶器などの鑑賞陶器では、その美術品の制作年代、芸術性、そして希少性などが、評価のひいては価格決定のメカニズムとして働いており、箱書きなどといったものは日本で伝世されているもので、日本の中で評価される時以外、あまり重要視されていません(無論誰もが真贋を、自信を持って鑑別できるわけではありませんから、有名機関ないしは、有名な鑑定家の鑑定書といった類のものが附いているものは尊重されます。又歴史的に有名な人が所有していたとか、著名なコレクターの所有していた物は、その歴史の重みのゆえに、又はそれを蒐集したコレクターの眼力を尊重しての故に、市場で高く評価される傾向にありますが)。そこにはその品物を蒐集するに当たっての、コレクター自身の美的センス、選択眼が働く余地が充分にあります。中国陶器などの鑑賞陶器の場合は、たとえ箱などなくても時代があってさえいれば、その芸術性、希少性、市場の人気度によって、それに相応しい評価を受けます。これに対して茶道の茶碗などは、コレクターの評価ひいては市場での価格は、もっぱら箱書きないしは伝世に頼っております。これは茶道具における美の基準が、侘び(作意がなく、ひっそり落ち着いた感じがあり、目立たず、渋い感じ)、寂(けばけばしさや、晴れがましいものがなく、ひっそりして閑寂で、枯淡なたたずまい)、品(姿形が整い、これ見よがしでなく、しっとりとして、落ち着いた気品がある)、量(実在感、ボリューム感)、力(躍動感、ダイナミックさ)、浄(清浄さ、清清しさ)と言った、村田珠光、武野紹鴎、千利休以来口伝として伝えられてきているそれが(美の物指しが)、あまりにも抽象的で、一人よがり的というか、美を見出した人個人の、感覚的評価に偏りすぎて難しいことに原因があります。この為、一般の人の感覚との間にズレが生じ、一般の人には、鑑賞の物指しとして、俄かには共感しがたいということです。ここに評価を箱書きに頼らざるを得ない最も大きな原因があるように思います。このような傾向は古田織部好みの、非対称の形態の美、ゆがみの美についても同じことが言えます(織部の場合は外の茶碗に比べれば、まだ模様とか色、茶碗の形などに、個人の好みがはいる余地はあります)。その上、茶の世界では、茶道具の評価の物指しそのものが、秘伝とか、口伝、奥義、極意などなどとして、勿体付けられ、一般の人には長い間近寄りがたいものとされてきました。茶道具の良し悪しは、永らく修行していれば、自ずから心で知るようになれるものだとか、茶道の精神を理解し、五感で感じるものだなどといわれましても、私達のような部外者には、そのような抽象的な表現では、何がなんだかわかりません。しかし最近のように、解説として、言葉で表現されるようになりましても、その言葉からその茶道具の具体的な美の基準を理解するのは困難です。
例えばある有名な大名物の井戸茶碗は解説で、「姿が堂々としていて、量感のあるその姿は、全体として調和が取れ、溢れるような美しさを湛えている。やや深めでゆったりした見込みは轆轤目(ろくろのめ)も美しく、その胴回りの枇杷色の肌色とともに格別の趣があります。高台はすっきりしたつくりで削り目も素晴らしく、そこに散っているカイラギの美しさは心憎いばかりです。」というように説明されたとします。この表現で、この茶碗の美しさが具体的に想像できますか。他の茶碗と違った、独特の美しさを感じることができますか。たとえ多少茶碗の各部の名称を知っていたとしても、この表現している所のものでもって、具体的な美しさを、頭の中に思い描く事は難しいと思います。私達門外漢では、お茶の道具を見た場合(ここでは主として茶碗について述べています)、独自の美を見つけ出すどころか、茶道の伝統的な見方に添って評価を下すことすら難しく、箱書き、伝世、書付などといったものと、それに基づく解説に頼ってわけもわからず、「ふん、ふん、ふん。こういうのを、素晴らしい茶碗というんだな」と頷いてくるだけです。茶道の先達(せんだつ)の美の基準を、その感覚を無批判に、そのまま受け入れてくるだけです。だって「作行(さくゆき)は気宇雄大でとか、豪壮の気風を高く矜持して」といわれましても(喜左衛門井戸茶碗についてのある人の解説)チンプンカンプン、それがどんな状態か解らないですものね。作行の気宇雄大とか、茶碗の豪壮な気風など、それが茶碗のどういう状態を示すのか、皆さん具体的に理解できますか。こういっては失礼ですが、茶道の従事者、美術商、茶道具コレクターと称する好事家達にしましても、その殆どの人は、箱書きを頼りに、既に評価の定まっている類似の道具の評価に準じて、茶道の先達達の鑑識眼を借りて、その美を評価し、経済的な価値も決めているに過ぎないのではないかとおもえます。そこに、個人的な美の物指し、センスが働いてくる余地、言葉を変えて言えば、鑑賞に当たっての、観る人の自由裁量の余地は、非常にすくないと言わざるをえないのではないでしょうか。大変な目利きといわれてる人の鑑賞眼にしましても、前述の秘伝などとして伝えられてきた、既存の見方の呪縛から逃れることはできません。彼等にしましても、その見方に、独自性はなく、その道具に(お茶の)いわれてきた既存の見方に盲従し、その道具の価値を認めているだけです。この為、茶会でのお道具拝見にしましても、箱書に囚われ、拝見は形だけに流れ、そのお道具の本当の美しさを、自分自身の五感で感じ、心で味わって楽しんでくるという、肝心なものを失ってしまっているように思いますが、これは部外者の妄言でしょうか。こういった状態ですから、お茶道具の世界では、箱書きや伝世を示す書付が非常に重要視されています。名刺代わりに、身分証明書かわりに、履歴書ないしは家系図代わりに(その来歴を示しているといった意味で)などなどといった役割をはたしています。これはお茶道具をあつかう美術商にとっては、とても便利な制度です。真贋を見分ける上で参考になりますし、(箱そのものの品格、時代性、箱書きや書付ならびにそれをした人の信頼性、そして箱と中の美術品との整合性などなど、真贋を見る上での資料として、とても参考になります)お客様に売り込むときの材料にもなります。一方それを購入し、使用する茶道界の人やコレクターにとっては、箱や箱書きはその品物を保証してくれる物です(これが必ずしも信用がおけるとは限らないのですが、ここではそれはさておきます)。これが付いていれば安心ですし、お茶会などで人に披露するときの権威付けにもなります。従って経済的な効率性からいえば、売る方にも買うほうにも、とても便利な制度です。しかしそれが、茶道具をお茶の道具として考え、その用の美としての価値付けとか、茶道という身内だけの限られた世界の中だけでの、美の評価の物指しとしてということでしたら、確かに便利で良い制度です。しかしお茶の道具に形の美を見出し、より普遍化した、芸術的な価値の認知を世間に求めるのであれば、今の箱書き依存、旧い既存の価値観の呪縛から逃れられない評価方法には疑問を呈せざるを得ません。美の基準はもっと多様で自由であるべきだからです。
茶道の歴史を遡ってみた時、利休の高弟山上宗二が遺した秘伝「山上宗二記」によりますと、初期の頃は、「茶碗は形さえ良ければ大概は茶道具として良い」といわれていたようです(やきもの入門:カラーブックス刊:田賀井秀夫著より)もっと自由に美を選択できたようなのです。これにたいし、今の茶道の道具の見方はあまりにも型に填めようとしすぎ、押し付けがましいと思います。箱書き、書付から離れ、もっと自由な発想による見方で、素直に物を観、美を発見出来ても、いいのではないかと思うのです。箱などなくても、美しいものは美しいし、良いものは良いのですから、その美に相応した価値が認められるようになるべきではないかと思います。その結果として、それらの(茶碗、茶杓、水差し、茶掛けなどなどの)美の認知がより普遍化し、そしてそれらの意見の集約された結果としての、経済的な価値、即ち市場的な評価が行われるようになっていくのが、最も望ましい事ではないでしょうか。そうなれば茶道具にも、もっと多くの人が興味を抱くようになり、嘗ては見捨てられていたような、古い茶碗の中から、新たに美術品としての価値が見出される物がでてきたり、また新しく、現在に生きる人々の共感を呼ぶような(茶碗が)造られてくるようになったりするようになるのではないかと思います。大体茶道にしましても、いつまでも畳み生活が中心だった旧い時代の形式に縛られているのでなく、新しい生活様式と、生活空間に沿って変化していくべきだったのです。それが家元を中心とする(お茶の先生、道具屋、茶道具の製造元などで形成する、)一大シンジケートのゆえに、変革が難しく、今日に至っているだけです。しかしあの華道界の変化を眺めるとき、茶道もまた早晩、変革は避けられないではないかと思います。(もしそれが出来なければ、今の中年世代がこの世から消え去った後は、古典芸能の一つとして、或いは、教養をひけらかす道具の一つとして、細々と命を繋いでいるといった状態で、生き延びていくより仕方がなくなっているだろうと思われます)。そしてその新しい茶道の中から、新たに美を見出された、新しい形の茶道具が出てくるのではないかと期待されます。無論この場合でも茶道には、茶道としての伝統的な制約が有り、茶道具にはその上に、茶道具としての用の美による制約も受けるであろう事はいうまでもありません。しかしその制約の中、伝統を重んじながらも、現在の生活様式に、より合った茶道が生まれ、そしてそれに用いられる茶道具にも、個人の自由な選択の下、新しい感覚により選ばれた、より今日的な美しさを持つ、茶道具も使われるようになってもいいのではないかと、考えるものです。(註:部外者故の見当違いもあるかもしれませんが、その節は、失礼の段、お許しください。

参考注意:軸物にしましても、茶道具にしましても、江戸時代の物のような古いものは、箱が虫に侵されたり、木が古びたり、箱を作るときの膠などが古くなったりして、ぼろぼろに壊れ始めてきているものが多くなっています。その為、箱と中身を違えたり、箱を棄ててしまったりされる人がいますが、上に申しましたように、古美術の世界では、その品物の評価に箱が大変に重要な役割を果たしています。くれぐれも簡単に棄てたり、燃やしたりしないでください。後で後悔しないよう念のため。表装をしなおす場合なども、一度信用のできる古美術商と相談してから始められた方が無難です。こうした事をしたために、せっかくの名品も無価値とされてしまう可能性があるからです。上の主張と違うように感じられるかもしれませんが、これが現実的な対処法です。