No.79 母親の遺した珍言、迷言(後編)

その4 お母さんの物はお母さんの物、お父さんの物も、お母さんの物の巻

母は働き者でした。朝は私たちを送り出すために5時には起きだして弁当の準備をし、家の中の掃除、洗濯を片付け、子供たちに朝食を摂らせ、6時半に子供たちを学校に送り出すと、次は父が医者だったものですから、医院の入院患者さんの朝食を作り、配膳を済ませます。患者さんたちの朝食後の後片付けを済ませると、次は病室のお掃除、そしてその頃出勤してきた、看護婦さんたちの朝の点呼と言った具合に、一日中こまねずみのように働いていました。お手伝いの小母さんが一人いるのですが、もう60歳過ぎで、それほど身体を動かされない人でしたから、母親一人に負担が懸かってきていたようです。母は良く「私はこの医院の掃除婦兼、事務長兼、炊事婦兼下宿屋の女将さんみたいな者よ。」(当時家には若い看護婦さんや見習いの看護婦さんがたくさん、下宿していて、その食事の世話までしていました。)
一方父のほうはといいますと、結構評判の良い医師でしたが、何しろ面倒臭いがり屋さんでしたから、診療の事以外は、何もタッチしたがらず、全て母任せといった人でした。したがって家の経済的な実権は主として母親が握っていて、父親は外出時など、母が適当に見繕ってだしてくれるお金を、黙って受け取って持っていくといった状態でした。その為、使ってきた費用は一目瞭然、お付き合いで、飲み屋さんなどで、沢山にお金を使ってきたときなどでも、直ぐに分ってしまいます。すると母親は、「もったいないねー。そんな沢山にお金使ってきて。これだけのお金があれば、うちのカーテンが新調できたのに。」とか「そんな女の子と飲んで、何が楽しいの。お尻撫でたければ、私のお尻なら、いくらでも撫でさせてあげたのに。格安にしとくからどう。」などと、さらりと嫌味を言います。こんなとき「そんな事いってもなー。」とぼそぼそと言うだけで、あまり強く言い返そうとしない父親のことが可哀想で、ある時母に言った事がありました。「稼いでいるのはお父さんでしょ。それなのに、そんな細かいところ迄、一々チェックされては、お父さんが可哀想。だってうちのお金って、お父さんのものでしょ。それを使うたびにぶつぶつ言われて、お父さん、ちょっと可哀想すぎない。よく怒らないねー。」と言いますと、「何、言っているの。家はねー、お母さんの物は、お母さんの物、お父さんの物もお母さんの物ということになっているの。お父さんがそれで良いといっているのだからこれで良いのよ。」と言います。
本当かなと思って父親に或る時、聞いてみたことがあります。そうしましたら、「そうだなー、お父さんは残りのお金を心配しながら、お金を使ったりするの、苦手だから、今のようにお母さん任せの方が、楽でいいのだよ。」「それにねー。此処だけの話だけど、お母さんの言うとおりに“お父さんのお金はお母さんの物”と全部がなっているわけではないのだよ。心配してくれなくても、へそくりという手が、あるからね。お母さんに言いたくないお金を使った時は、そこから出しておけばいいわけだから。貴方達のお洋服買った時のお金だって、へそくりからでも出してなきゃ、あんな高い服買ったのだとお母さんに知れたら、今頃大騒動になっていたと思うよ。」と返ってきました。なるほど夫婦は狐と狸、虚々実々、外からは計り知れない所があるなと思いました。

 

その5 お父さんなんて、私の掌の上で動き回っているだけの巻

私と父親はとても仲がよく、大学に行ってからも、何かと父親とつるんで歩いていたほどの仲で、先ほども申しましたように、父も私には気を許し、母に内緒の事などもそっと打ち明けてくれたりした事も、しばしばありました。しかしそうは申しましても、母親との仲は又格別でして、女同士としての、格別の親近感があります。隠し事なく何でもはなしてしまいます。したがって、折角隠している父の内緒事なども、私を通して、いつのまにか母に漏れてしまっているということも少なからずありました。
父のへそくりの話の時もそうでした。そんな話を聞くと、片時も、私の胸の中に留めておく事が出来ず、直ぐに母に告げ口してしまいました。「お母さんこの間お父さんの物も、お母さんの物って言っていたよね。でもお父さんの物が全部、お母さんの物とは限らないわよ。だってお父さん秘密のお金持っているといっていたもの。」「そんな事、とっくの昔から知っているわよ。実家に持っていくのだって、表向き以外にもずいぶん出しているみたいだし、あんた達のお洋服だって、随分高い服、買ってきているもの。」「でもねー、変な女にお金を使っているわけじゃなし、それくらいの自由は与えておかないとねー。何でもかんでも取り上げ、あまり束縛してしまうと、反乱を起こしてしまわれかねないからね。大丈夫よ。へそくりが出来る金なんて、その出所、しっかり握っているから。どちらにしても医院の売り上げをごまかしているわけじゃなし、その額は知れたものよ。なんだか私に内緒に、自由にごそごそ動き回っておれるというのが、嬉しいみたいだから、そうさせているのよ。」「お父さんが何をしていたって,所詮、孫悟空みたいなもの。お母さんの掌の上で、動き回っているだけだから。」と自信たっぷりの母の言葉。それにしても結婚うん十年にもなると、主婦は肝っ玉が据わってくるものですね。

 

その6 此処は私と朱美の家だから、文句があるならあんたが、出ていきゃーの巻

強くなったという言葉で思い出しましたが、父から聞いた話によりますと、母は新婚当初はとても大人しくて、父に逆らったり、言い返したりするなんてことを、したことがなかった女(ひと)だったそうです。何でも父の言うとおりで、何時も控えめで、父の後をついて歩くような感じの、とても可愛く、しおらしい人だったそうです。ですから夫婦の間で言い争いが起こるようになるなんて、全く考えられなかったといいます。所が、最初の出産後即ち、私が生まれてから後、母は突然に変わったといいます。
それは出産してから一ヶ月ぐらい後の事でした。産後の回復も順調で、それまで静養していた実家から、赤ん坊であった私を抱えて、父の所に帰ってきた、その日の事でした。初めて近くで見る私のことが、珍しくてたまらなかったらしい父は、母の周りをうろうろと纏わりつきながら、母乳を飲んでいる私に、何かとちょっかいを出し、邪魔したのだそうです。ホッペをつついてみたり、頭を小突いたり、そして母乳を与えている母ごと抱きしめてみたりと。そうでなくても環境が変わって、神経質になり、乳の吸い付きの悪くなっていた私は、そんな父の動作にすっかり飲む気をなくして愚図り出し、終には、火のついたように泣き出してしまいました。それまで「だめよ。いやー。止めて。ばーかー。くすぐったい。」などと冗談っぽくたしなめるだけで、懸命に慣れない乳を飲ませていた母は、ここに到って、とうとう堪忍袋の尾が切らしてしまいました。そして「お父さん、もう周りをうろうろするの、止めてくれない。そんな風に乳をやっているときに邪魔されると、落ち着きのない子になってしまって、教育上良くないんだって。」ときつい口調でたしなめました。母からそんな風に言われたことのなかった父はびっくりしました。それだけに突然の反撃にむっとした父が「なにー、帰ってくる早々、つまんないなー。そんな風にいうのなら、しばらく帰ってこなくてもよかったのに。」と言い返したのだそうです。すると母は、「そんなー、いけないお父ちゃんねー。この家は、私と、この子の家だもんね。文句ある。文句があるのなら、今日からは多数決だからね。はい、喧嘩したとき、お父ちゃんが出て行くのに賛成の人。はい、はい(一方は母の、もう一方は朱美の手を振りながら)、それごらん。こちらは私と朱美ちゃんの二票。あんたのほうはあなたの一票だけ。多数決で私の勝ち。出て行くのは、お父さんで決まり。」と言われてしまったそうです。その時以後、主客転倒、母はどんどん強くなっていき、父はどんどん頭が上がらなくなって行ってしまったと言います。「女は怖い。子供が出来ると、ころっと、変わるからなー。」と言うのが父の口癖です。でも考えてみると、お母さんってうまいなー。

 

その7 あんたも一緒に、やりゃーよの巻

女って一般にそういう所がある動物かもしれませんが、母もその例に洩れずで、自分の都合のいい時は、一人でさっさと行動していますが、なんか困った時や、苦しい事にぶつかると、父に頼り、助けてもらったり、一緒に行動したりしてもらいたがります。
私が高校3年生の頃の事でした。40歳過ぎから、肥りはじめ、下腹が出てきだしたのを気にするようになった母は、毎日夜になると、テレビの前で、腹筋運動を始めました。所が、一人でそれをやっていても、直ぐに飽きてきてしまいます。すると一日の仕事が終って、ほっとして、テレビにかじりついている父に向かって、「あんたもやりゃー。私だけにやらせといて、可哀想だと思わんの。ねー、一緒にやってよ。」と強引に父を腹筋運動に誘いこもうとします。「だって、俺、草臥れているもん。」と言う父に対して、何言っとるの。夫婦は一心同体でしょ。苦楽は共にしましょうよ。ね、ね、いいでしょ。あんたのためにもなるんだから。」と言いながら、強引に腹筋運動に誘い込んでしまいます。しぶしぶ付き合っていた父の苦笑が、今でも思い出されます。父に言わせると、「でも、お母さんはねー、何時も何でも、誰かと一緒にしていないと、寂しくて嫌だという人だから、仕方がないんだよなー。それが可愛くて結婚したんだから、今更、嫌だと言い難くて。」だそうです。なるほど、なるほど、男を手玉に取るのには、そういう手もあるんですねー。やっぱお母さん、天才。

No.78 母親の遺した珍言、迷言(前編)

始めに

母親が亡くなってから、もう20年近くになります。私にとって、母親は、とても大きな存在でした。いつも陰口を利いたり、反発したりしてはいましたが、それは、母親というか、大人というものの存在を大きく見すぎていた事への反動としての行為に過ぎなかったように思います。お母さんのような大人だって間違えるくせにとか、お母さんのような大人が間違えるなんて考えられないという気持ちがさせる、小さな反抗でした。しかし、今こうして母親の亡くなった年に近づいて見ますに、年は取りましても、至らぬ所ばかり、間違いばかりしています。大人といっても、子供とたいして変わりないのですね。いたずらに年を重ねてきたというだけです。当時は立派な大人としてみていたお母さんも、実際は、その程度だったのだなと思える年になってみますと、お母さんって、結構面白くて、可愛い女の人だったなーと、今、懐かしくその言動を思い返しています。

 

その1 平均値を下げなきゃーの巻

今から20年近くも前、母親、私、私の友人の三人で香港旅行に行った時のお話です。当時の香港はブランド物のバッグとか、宝石、衣類、化粧品などが国内に比べるとまだ、とても廉い時代で、殆どの人の香港旅行のお目当ては、買い物か、グルメだったといったような時代でした。母親はその時が最初の外国旅行だったと思いますが、当時の一般ツアー客の例に漏れず、香港に到着するやいなや、旅行会社の人の案内で、免税店に直行しました。そしてそこに陳列されている、ブランド物の衣類やバッグなどの値段に目が点になってしまい、撒き餌に集まった魚のように買い物に夢中になってしまいました。今はどうか知りませんが、当時は免税店といえども、結構小切れば値引きしてくれていたものでした。その駆け引きの面白さも、旅行者達の楽しみの一つだったのではないかと思います。
母親も店内のあちらの店、こちらの店へと顔を出し、見比べたり,値段交渉したりして楽しんでいましたが、やがてバッグを二点ほどと、ネッカチーフ、化粧品などを山ほど買うと、もう大満足、「今度の旅行はこれで終わったわ。後は、美味しいものをどっさり食べたいわねー。」「じゃー、お友達へのお土産品見てくるわね。」と言い残して、お土産用の雑貨売り場の方へと歩いていってしまいました。買い物に夢中で、私たちも、何か買ってもらいたがっている事に気付くどころか、私たちの存在すら念頭から消えてしまっているといった感じです。
しばらく後のことです。私たちは私たちで宝石売り場にいて、いろいろと選り好みをしていた時のことでした。「朱美ちゃん。朱美ちゃん、ちょっと来て。」という母の声。「こんな所にきてまで大声出して、もう嫌だわ。」と思いながら、母のところへ行きますと、「朱美ちゃんこれ見て、このレースのテーブル掛けが、三枚買うと、たったの○○円にしてくれるんだって。これ日本で買うとその三倍以上もしている物よ。こんな値段と誰も想像もつかないと思わない。お土産、これに決めようと思うけど、どう思う。」といいます。テーブルクロスの値段など、知るはずもない私は、「いいんじゃない。」と気のない返事をすると、直ぐにまた友達の待っている、前の宝石売り場に戻ってきてしまいました。やがてツアーガイドさんが指定していた、時間がきましたので、皆それぞれに、バスの所に集まってきましたが、女性達の顔はどの顔も満足げな笑顔で溢れ、手は、どの手も買い物袋で塞がっています。無論母も両手一杯に買い物袋を下げ、笑顔がこぼれ落ちんばかりです。「で、どうだった。あのテーブルクロス買った。」と聞きますと、「無論買ったわよ。三枚で○○円といっていたのを、六枚で○○円にしてくれたのよ。これで買わなきゃ、女が廃ると思わない。」とたいした鼻息です。
さてその夜の事です。街に散策に出た私たちは、ある一軒の小さなお店に、今日買ったのと全く同じ、レースのテーブルクロスが売られているのを見つけました。値段を聞くと,免税店で買った値段より三割くらい廉くなっています。しばらく悔しそうな顔をして、じっとそれを眺めていた母は、江戸の敵は長崎でとばかり値切り始めました。前に香港ツアーにいった人から、「香港の街中でのお買い物は、先ず、売値の半分以下に値切ったほうがいいよ。」と聞いていました。そこで母も、「もう少し廉くならない。」と切り出しました。するとそこのご主人は、あっさりと、「それなら、10枚まとめて買ってくださるのなら、半額にしておきますがどうでしょう。」と言います。「もう既に6枚も買ってあるのに、それ以上に買ってどうするのよ。配る先のあてもないでしょ。いくら廉くても、止めた方が良いと思うよ。」と止める私に向って、母は「朱美ちゃんは、そんな事言うけど、先の店で、悔しい事に、高く買わされてしまったから、ここで買値の平均値を下げとかなきゃー。」と言いながら、ご主人と延々と値段交渉を続けます。ご主人も、最後は折れて、最初の言い値の3分の1にまでしてくれました。
それにしてもこのテーブルクロスの値段、本当の値段はいくらのものだったのでしょう。最初に免税店で1/2になり、次の店では、最初つけてあった売値が既に、免税店で買った値段の7割、値切った値段はその1/3という事は、免税店の最初の売り値の大体1/10ちょっとくらいで買えたことになります。確かに計16枚分の買値の平均値は一枚当たり、4割くらいまで、安くなった事になりますが、でも同じテーブルクロスばかり、そんなに買ってもねー。はたして得だったのか、損だったのか、お母さんの損得勘定はどうもよく分からないところがあります。

 

その2 ちょうばっているの巻

私がまだ子供の自分は、祖母が同居しておりました。祖母は不平も愚痴も決して言わない人で、何をしてもらっても、ただ「ありがとう、ありがとう」と感謝している人でしたから、母親とはとてもうまくやっていました。ところが、小姑というのでしょうかねー。伯母達が来るとその後、母親が荒れることがしばしばありました。伯母達は何の気なしに言っていく一言なのですが、母親にとってはカチンと来る事が多かったようです。当時の伯母達(戦前の封建的家族思想がしみついている人々でした)にとっては、本家の嫁である母親が、祖母の面倒を見るのは当たり前という感覚でしたから、弟である父に言っていく感覚で、「こうしてやって。」と何気なく指図していくだけで、悪気があったわけではありません。ところがもう戦後育ちだった母親には、それが気に入りません。本来は平等に親の面倒を看るべきところを、兄弟に代わって面倒を見てやっているという気持ちがありますから、自分たちは何もしないで、たまに顔をだして、あれこれ指図だけして、帰っていかれる伯母達の言動には、腹に据えかねる時があったようです。こんなに一生懸命にしているのだから、少しくらい感謝してくれてもいいのにという思いもあります。それなのに、何の感謝の言葉もなく、たまたまその時、充分してなかった所ばかりを目に付けて、指摘されていかれると、なんだか何時も、責められてばかりいるようで、どうにもやりきれなくなる時があったようです。本当の姉妹でしたら、はっきり言い返せますから、腹が膨れる事もなかったでしょうが、やはり嫁と小姑、義理の中です。はっきり言い返せないだけに、余計に腹に溜まっていくようでした。
ある日の事です。一番上の伯母さんが帰られた後、母はよほど腹に据えかねた事があったようで、私を捉まえて愚痴り始めました。いつもは機嫌が悪い事はあっても、私たちを捉まえて、愚痴を言ったり、悪口を言ったりした事まではあまりなかっただけに、少し驚きながら聞いていました。
「大体お義姉さんたちは“ちょうばっとりすぎだわ”。一体、何様と思っとるの。文句ばかり言って。ご飯だってさー、硬いご飯は、お母さんの身体に悪いと言われたから、柔らかいご飯にして、家中我慢しているのに、それを柔らかすぎるといわれるなんて。まだついこの間、お母さんの歯、総入れ歯で、あまり硬いご飯は消化に悪いから、少し柔らかめにしたって、と言っていかれたばかりなのにね。一体全体、どうせいと言うの。自分等は何にもしないくせに、口だけ出されても困るよねー。ほんとにもう、“ちょうばらんとおいて。”」といかにも腹立たしげです。でも私には“ちょうばる”なんていう言葉なんか始めて聞く言葉でしたから、
「で、お母さん。お取り込み中でなんだけど、“ちょうばっとる”ってどういう意味。」と恐る恐る聞いてみました。すると、
「何、知らんの。調子に乗って、威張っとるという意味だがね。それつめると“ちょうばっとる”となるでしょ。」と言う返事です。
どうも母親の造語らしいのですが、そんな造語、突然言われましてもねー。

 

その3 結婚するなら他所見をするなの巻

父親と母親は、私の子供時代からとても仲が良く、父親が、他の女性に目を移す事があるなどとい言う事は考えたこともありませんでした。そして子供たちは、夫婦仲が良いのは、一重にお父さんの人柄のせいだとばかり、思っていました。しかしこの年になってあの頃の両親のやり取りを思い出してみますと、どうもそればかりではなかったような気がいたします。母親の手綱のとり方が上手かったせいではないかと思える節が多々思い出されるからです。
私が大学に入ったばかりの頃の事でした。たまたま上京してきていた両親から、「買い物をしてから、一緒に食事でもしようかと思うけれど、学校が終わったら、出てこない。」といってきました。父親はとても気前が良い人で、洋服などを買ってくれるときは、気に入ったかどうかだけを問題にし、値段の事など気にせず買ってくれていたものでした。従って、父親との買い物というと、これは断るわけにはまいりません。「無論、喜んでいく。」と直ぐに返事をし、授業が終わるやいなや、両親との待ち合わせ場所、青山駅へと急ぎました。
駅を出たところで、両親は待っていました。交差点のほうを眺めながら、何か話している両親を、驚かせてやろうとそっと後ろから近づいてみますと、母が父に向って話している言葉が、耳に入ってきました。どうもきれいな女の人が通る度に、そちらのほうにちらちら視線を走らせる父親の態度が気に入らなかったようです。「お父さん、いくらきれいな女の人が通るからといって、きょろきょろ余所見したらあかんよ。結婚するということは、この人だけを生涯みつめていますという、契約を結ぶ事なんだからね。そういう風に、目移りしたい人は、そもそも結婚なんか、したらいけないのよ。」と言っているのが聞こえてきました。そのときは何気なく聞き流した言葉でしたが、今から思えば、母親が、ギュッと手綱を引き締めた瞬間の言葉だったのですね。感の鋭い母から、早め、早めに手綱を引き締められて、それによって、生涯、真面目で誠実な夫であり、父親であり続けえたというのが、父の品行方正の真相だったような気がしています。