NO.70 コレクトマニア達による虚々実々の戦い
コレクションをする人の中には、其れに熱中すると周りの事が見えなくなり、つい常軌を逸する行動をとってしまう人が、しばしばいらっしゃいます。例えば人の物でも黙って失敬してきてしまうとか、盗品と解っていて其れを買求めるなどといったような話も時々聞きます。そういった場合のコレクター心理はかねて欲しいと思っていた物を目にした時、理性も体面も吹っ飛ばして、ついつい反社会的な行動をとってしまうというわけです。従って名品といわれる美術品をめぐっての、コレクター間の争いも又激しく、その戦いは虚々実々、想像を絶する場合もあります。
以下は骨董価値考(光芸出版編集部編:光芸出版刊)から引用のお話ですが、美術品をめぐっての暗闘や駆け引きが仄見え、とても面白いので抜粋させていただいたものです。(一部原文のままでなく、表現が替えてある部分があります)
大正12年に若州酒井家の蔵品の売り立て(一般の人も参加できる競売のようなもの)がありました。この出品された蔵品の殆どは、安政年間に京都所司代になった酒井忠義(小浜藩主)が集めた物でした。そしてそれらの品々の中には、酒井忠義がその職権を利用して、 策略や謀略を巡らし、かなり強引に集めた物も少なからず入っていたと言われております。
中でも有名なのが、当時徳川家の所蔵品であった、吉野山と言う銘を持つ青磁の花入れを手に入れたときの話です。
何処で見られたのかは記録がありませんから分かりませんが、ともかく、どこかでそれを見た忠義は、それが欲しくてたまらなくなりました。しかし何しろ幕府の所蔵品です。いくら京都所司代といっても、幕府とでは格が違います。到底、忠義の手の出せる品ではありません。しかしどうしても諦めきれない忠義は、何とか手に入れるチャンスがないかと、何時も考えておりました。
そんな時ことです。たまたま、仁孝天皇第八皇女、和宮様の徳川将軍家茂のところへの御降嫁話しがもち上がってきました。これを聞いた忠義は、あの花入れを手に入れるチャンス到来と考え、いろいろ策を巡らせました。
先ず和宮様の御降嫁を成功させるために、懸命に奔走しました。当時は既に幕末で、宮廷内では尊皇派と佐幕派に分かれての、かなり激しい争いがあった時期でもあり、落ち目の幕府への和宮様御降嫁に、かなりの反対があったものと推定されます。従ってそれを成功させるまでの苦労は、一方ならぬものがあったはずです。それらの反対を押し切ってご降嫁にまで持っていったわけですから、(ご降嫁のため努力したのは)それだけではなかったにしても、忠義の「吉野山」に対する執念は、一方ならぬものであったと思われます。
こうして御婚儀が調い、和宮様は無事江戸にお降りになったわけですが、そうしましたら次、忠義は、幕府に対し和宮御降嫁のお礼としてその花入れを朝廷に奉貢させるように画策します。尊皇派に対して手を焼いていた幕府としては、公武合体の象徴としての和宮様のお輿入れをお許しいただけたわけですから、朝廷からの申し出でに否応のあるはずもありません。こうして吉野山は(花入れが)は朝廷にやってきました。
そうしましたら忠義は、朝廷に対し、和宮御降嫁に際し、尽力した事への功労品として 「その花入れをご下賜いただきたい」と願い出たのです。こうして長年望んでいた花入れを、彼はまんまと手に入れてしまったと言うわけです。
此れなど、その策謀の遠大さと鮮やかさに感心させられます。しかし彼にとっては、それだけその品が欲しかったと言うわけで、そこには、コレクターの、名品にたいする執念のようなものを感じさせられます。
又同じく売り立てに出た、酒井家の所蔵品、北野肩衝茶碗の場合は(利休由来の品で足利義政、三好宗三、津田宗達、烏丸大納言光宣、などなどそうそうたる人が所蔵してきた歴史ある大名物:松平不味などは一万両以上の高値をつけて懇望したが、三井は手放さなかったといわれる) 時の値段の半値以下4850両余で 他の名物2点他と一緒に 三井家から譲渡を受けたものだそうですが、それを手に入れるまでには、所司代の権力を傘に着ての、嫌がらせや、圧力とか、利権を餌にしての懐柔などといった、数多くの術策を使ったようです(あくまで推定ですが)。
尚、その時それを、泣く泣く手放した三井家では、それらの品によほど未練があったようで、 大正12年に酒井家が売り立てを行った際は、他の2点の品と一緒に真っ先に買い戻しております。
延亨二年老中になった堀田相模守正亮も又このような古美術品の収集家としては名高い人です。ある時阿部対馬守という大名が、その堀田老中の所へいって幕府の要職に就けるよう運動した時の話です。
堀田老中は大の古美術品のコレクターですから、何処の家にどのような名品があるか、常日頃から調べていて、安倍家が頼みに来たとき、要職への推薦と引き替えに安部家父祖伝来の家宝である、“八重かがり”という茶入れを欲しいと言ってきたのです。さあ阿部家では困り果てました。しかし、もしも此れを断れば、堀田の性格から、昇進どころか睨まれてしまい、後々、故なく難癖をつけられ、お家断絶とか改易と言った憂き目に遭う可能性があります。そこでやむなく貢ずる事にしました。
これが決まった時、家臣のうちには「いまはやむなく堀田の家に持っていかれる事になったが、此れによって出世コースに乗り、筆頭老中になったあかつきには、こんどはこちらが職権を利用して、堀田の集めていた他のものもひっくるめて取り上げればいい」と息巻いていたものもいたと言われています。こういった事例は 当時の威力者間での、古美術品を巡ってのやり取りや怨念が、美女を巡っての鞘当て以上に激しいものであった事を窺がわせ、興味深いものがあります。
明治の元勲井上馨(日本財界の育成に尽力した人ですが、その際その地位を利用して蓄財に励み、日本の財権の三分の二を手に入れたと言われたほどの人です)も美術品には目が無かったようですが、この人の収集のしかたも大変強引だったといわれております。
賄賂としてもらうのは当たり前、権力を傘に着て、半ば強引に取り上げてしまったり、金に糸目をつけずに買い漁ったりといったぐあいに集めたと言われています。例えば、これは失敗して、結局、手に入れることが出来なかったお話ですが、それでも、この逸話から、彼の蒐集の仕方の一旦が窺え、興味深いものがあります。
井上が、馬越恭平の茶会に招かれて行った時のことです。その茶会に使われていた、遠州(小堀遠州:江戸時代の造園家で、茶人。遠州流茶道の創立者、茶道具の選択と鑑定に秀でた)所持であった色絵交趾、桃の香合に興味を持ちました。
そこで馬越に入手経緯を聞きました所、何かのお礼にと、益田孝(鈍翁)から貰ったとの返事です。それを聞いて井上は、「益田はたいした奴だ。よくもこんな名品をくれたものだ。」と感心した所、馬越は名品を値打ちに手に入れたことで有頂天になっていたものですから、つい調子に乗って、あの人は見る目がないからと、言ってしまったのです。
それを聞いた井上は、早速益田の所へ行って、「馬越は貴方のことを、これ、これ、こうといってい馬鹿にしていた。あいつは、けしからん奴だ。」と告げ口をして、益田に嗾けて、二人の仲を裂いてしまいました。井上の腹積もりでは、こうして二人を喧嘩させておいて、頃合を見て仲介に入り、その際、「喧嘩の原因になったのだから、その桃の香合は自分が預かっておこう。」という形にして、取り上げてしまう心算だったのです。
事実、最初はうまくいって、益田は馬越と絶交してしまいます。これであの香合は自分のものになった。後は頃合を見て仲介に入って、取り上げるだけだと、ほくそ笑んで井上は、九州に出かけて行きました.
所が益田も百戦錬磨の商人です。一筋縄ではいきません。井上の魂胆なんか直ぐに見抜いて、井上の留守中、馬越からの侘びを受け入れ、すんなり和解してしまったのです。「このまま喧嘩していては、あの香合は、みすみす井上に取り上げられてしまう。」「それでは、あまりに馬越がかわいそうだ。というので、和解を受け入れてやったのだ。」と益田は後で、言っていたそうです。
結果において、井上の策謀はうまくいきませんでしたが、美術品のこととなると、それを手に入れるためなら、井上のような地位も名誉も財力も、全て持っている、大物でさえも、対面を考える事もなく、なんでもするのだということが窺えて、面白いと思いませんか。
なお、この和解、益田も商人です。転んでも只ではおきませんでした。和解と引き替えに、嘗て馬越と入札で争って破れた事のある、欲しかった粉引徳利を、2500円で馬越から譲り受け、自分のコレクションに加えております。
こんな井上もさすがに明治天皇にはかないませんでした。それは“牧谿(南宋末の画僧、日本では、宗元画中最高の評価を与えられ、日本の水墨画に大きな影響を与えた)”の軸を巡ってのお話です。最初は川崎が買う事になっていたのですが、それが売りに出されていることを後から知った井上は、例の調子で、途中から割り込んで、強引に横取りしてしまったのです。
一般にコレクターとしては、難儀して手に入れたものほど思い入れがありますから嬉しいものです。この場合の井上もそうだったようで、これを色々な人に見せては自慢していました。そして 明治天皇御臨幸の折にも お見せしたのです。そうしましたら明治天皇は帰り際に、それを黙って持って帰ってしまわれました。
その軸を諦め切れなかった井上は、再三返して欲しいと願いでたそうです。(当時、恐れ多いお方であらせられた天皇に対してまで、返して欲しいと願い出たということは、よほど未練があったのでしょうね。)なおこのお話、蛇足ながら付け加えますと、天皇もその絵がよほど気に召されたようで、結局返していただけず、泣き寝入るより仕方がなかったという事です。
これは別の本で読んだ話ですが(出典は、忘れましたので未記載)五島美術館に集めてある、数々の美術品なども、あれだけの物が集まるまでには、五島慶太(東急社長)の、ずいぶん強引な集め方が在ったといわれております。
例えば、源氏物語絵巻など、時の所有者、高梨三郎が絶対手放したくないというものですから、ちょっと借りていくといって借りてきたまま、なんといってきても返さず、いろいろ術策を使って、結局高梨に手放さざるを得なくさせてしまったといわれています。
国宝喜左衛門井戸茶碗(現在、大徳寺所有)なども、好き者にとっては、一国一城に替えても欲しいと言われたほどの大名物で、これを手に入れた豪商竹田喜左佐衛門などは、後に落ちぶれ、その日の生活に困ったほどであったにもかかわらず、絶対に手放さず、最後、この茶碗を首に掛けて死んでいったのだそうです。
その呪いか、これを手に入れた人間は必ずというほど、不幸に見舞われます。そのため所有者は転々としますが、それでも、それを求める人は後を絶たなかったといわれています。
こういった歴史ある美術名品の価値には、その物の美に対する価値の他に、その物の引きずってきた、歴史的な価値も含んでいます。従ってその鑑賞にあたっては、其の物の美を鑑賞してくる以外に、その美術品の所有者の変遷だとか、その美術品にまつわる人間模様の悲喜交々(こもごも)などといった、その美術品が辿って来た歴史についても思いを巡らせながら(想像も交えながら)観てこられると 、より一層興味深く観られるようになるのではないかと思います。