No.38 老いたピカソ(老いてもピカソは駿馬でありえたか)
昔、祖母とピカソ展を見に行った時のことです。
「すごいね。見に来たかいがあったでしょ」と私が言いますと。
「そうかね。でもおばあちゃんにはあまり素晴らしさが良く解からない。なんだかじっと見ていると、青の時代とかという時代の絵には行き所を失ったギラギラした野心、現状への絶望、虚無といった心に潜む暗い深淵を覗き見させているような気がして、なんだか恐ろしい気がする。」
「キュビズムの時代の絵、今度は理屈っぽい絵。対象を冷たく分解している、理化学実験の結果をみているみたいな絵という気がする。こういう頭で描いてあるような絵って面白いなとは思うけれどそれだけ。感動はないわ。無論、今まで見たことがない描き方だからインパクトはあるわよ。そして晩年、特に年老いてからの絵、これなんかは子供の絵みたい。ほれ幼稚園の頃、子供が独り言をいいながら絵を描き、その中で遊んでいるように感じることがあるでしょう。あんな感じの絵みたいに見えるわ」と大胆にも言ったのです。
「おばあちゃんはピカソの偉大さがわからないからそんな事言えるのよ。20世紀最大の画家といわれるピカソにちょっと失礼じゃない。ピカソは死ぬまで創作意欲が衰えず傑作を描き続けたということで有名な人よ」と私。
「そうかね。でもおばあちゃんにはそういう風にしか見えないけれどね。特に年取ってからの絵はそれほど感心しないけれどね。これらの絵を見ていると、どんな偉い人でも年にはかなわないものなのだなと思えて仕方がないよ。」と祖母は譲りません。
この時はこれで終わったのですが、それから約20年ピカソについて多少勉強してくるうちにそのとき否定した祖母の言葉もまんざら見当違いではなかったのではないかなと、思えるようになってきました。
冷静な目で眺めてみると晩年に描かれたピカソの作品は確かに幼児画のような雰囲気を 持っているとは思いませんか。無論ピカソは天才的な絵の職人ですから、その手馴れた描き方、技法においては幼児画が比するものではありません。
しかし彼の画集を紐解いてみるに1967年の「男と女」、1968年の「横たわる裸婦と鳥」1969年の「カップルと子供」1970年の「帽子の男」、「画家とモデル」、同じく70年の「編み物をする女とそれを見ている男」、1971年の「筆を休めて物思いにふける男」等など80歳代後半以降に描かれた彼の絵には明らかに幼児画の雰囲気を漂わせているものが多いように思います。
確かに彼の手馴れた技巧から生み出されたそれらの絵は色の取り合わせといい、形の配列といい、筆遣いといい、幼児のそれと比べ物にならない完成度を持っているでしょう。しかしその絵から受ける印象は、子供がその時々に心の中に持っている物を、そのまま表現してくる幼児の落書きのように感じられます。
こう申しますとピカソの信奉者たちは「いやいや彼は究極の境地として子供のような素直な目で対象や自分の心を見つめ、それを表現しようとしてたどり着いたのがこの画風なのだ」とおっしゃるかもしれません。
確かに彼はルソーのような素朴な絵画にも引かれていたといいますから、それも一理あるかもしれません。しかし彼の晩年の実生活(ピカソの名声や彼自身が世間に見せた顔によって作られている虚像としての彼への評価を差し引いての実生活)の様子や、実際に巷にあふれている老人たちの姿から考えてみますに、そのような見方は当たっていないのではないかと思えます。
比類ないほどの絵画技術を持った天才が、外界から受ける刺激も少なくなり、考える力を失い、中に持っているものも空となっていった時、彼の生きていく上での最後の証は、頼みとする絵の世界に閉じこもり、その世界に浸りきる事だけだったのではなかったでしょうか。
無論絵画技術という点では幼児の絵など比較にはなりませんが、その描く姿勢はぶつぶつ独り言を言いながら描き、その絵の中で遊んでいる幼児のそれそのものであり、最晩年の脅威の多作も老いゆえに起こってきた退行性の幼児回帰による、お絵かきのようなものだったと思えば説明できます。
この考えは私だけの独断でありません。長年ピカソの絵を見続けてきたダグラス・クーパー等も(1970年に)彼の晩年の絵を見て、「そこにあるのは死と隣り合わせに暮らす、狂った老人の殴り書きでしかない」などと言っています。(「ピカソ偽りの伝説」A・Sハフィントン著、高橋早苗訳による)
元々ピカソという画家は抽象画家とは言われていますが、実際には彼の目を通して感ずる外の世界を自分が感じるままに素直にリアルに描いている具象画家に属する人だと思います。したがって彼が芸術としての絵画を描き続ける為には外からの色々な刺激が必要なのです。
ところがその彼がシャクリーヌと結婚した頃からは人嫌いになり、自分の殻に閉じこもってしまい(ジャクリーヌ婦人もまたとても嫉妬深く猜疑心の強い人でピカソを周りの人から遠ざけようとしたようですが)、外世界からは限られた刺激しか受けなくなったのですから、そこに残されたものは衰えを知らない職人的絵画技法と思い出、そして彼が持っていたセックスへの飽くなき興味、猜疑心と憤怒、老化による衰えへの焦燥、そして死への恐怖等などだけだったのではないでしょうか。
15歳の時から娼婦の部屋に出入りし、その後はっきりと名前が挙げられている愛人と妻だけでもフェルナンド・オリヴッィエ、エヴァ・グェル、オルガ・コクローヴァ(妻)、マリー・テレーズ、ドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、ジュヌヴィエーヴ・ラポルト。
そして最後の妻となったジャクリーヌ・ユタンと8人、その他浮気でお相手をした女性は数知れずといわれているほどのドンファンであり、性豪でもあったピカソの事です。
セックスに対する興味は非常に大きなものがあります。生涯を通じて作品の主題の大きな部分を占めているのはセックスであり、その相手である女性といっていいほどです。
それが70歳代後半くらいから(フランソワーズ・ジローとの別離の頃以降)老齢化による己の性の衰えを自覚してきます。
彼にとっては性の衰えは近づいて来る死への予告を意味するわけですから、それを自覚した時の彼の焦燥と自己憐憫は想像を絶するものがあったでしょう。
その恐怖を振り払うようにフランソワーズに去られた後、しばらくの間は狂った様に確かめるように情事に励むのですが、やはり歳月という残酷さには勝てるべくもありません。
男性としての魅力の衰え、性欲の減退、そして情熱の薄れを自覚せざるを得なくなってきます。
こうなりました時、彼は自分の生きる意義、描く意義の大半を失ったような気分となり、人生に対する虚しさだけが心を占めるようになっていったように思われます。
そしてそうなった彼が逃げ場として選んだのが母親のように包んでくれ、守ってくれるジャクリーヌだったのです。ピカソは性の衰えの自覚とともに自分にも自分の絵に対しても自信も失い(26歳でアヴィニオンの娘たちを発表し、世間と世論に敢然と立ち向かった彼が76歳の時、スペインの巨匠ベラスケスからモチーフを取って描いた作品について、うまく描けているかどうか自分の取り巻き達に同意を求めたと言われています。「同上 ピカソ偽りの伝説より」)世間に背を向け自分をやさしく包んでくれる母親の腕の中に安らぎを求めます。すなわち幼児回帰をしていったのです。
この母親の役をしたのがジャクリーヌで、彼女はピカソを独占する事と引き換えに常に彼の傍らに侍り、彼の現実を整理しどんな無理をも聞き、願望をかなえようと努めてくれます(ピカソは彼女のことをママンと呼んだと言われています)
しかし彼女がどんなに努めてくれても、忘却と退行、そして死への恐怖と嫌悪からは逃れることが出来ません。じりじりと拡がって行くその暗黒の闇から目をそらす為にはひたすら描き続けるしかありませんでした。
この闇からこぼれ落ちた後の僅かに残っている古い記憶や、周辺の人への関心、憎悪、そして死への恐怖や嫌悪と言ったものを題材に描き殴っていったもの、それが晩年の絵の大半だと思われます。
それは幼児が母親の腕の中でぶつぶつ独り言を言いながら自分の心にもっている物を、絵として表現していくのと同じです。
セックスの能力を失った老人のセックスに対する異常な関心を描いたのが347シリーズなどを代表とする晩年の「画家ともモデル」シリーズではないでしょうか。
従ってそれらの画面のなかには醜い覗きの人や小人、皺くちゃで哀れな老人が登場してきていますが、それは老いさらばえセックスの能力を失い、覗き見に異常な興味を示すようになったピカソその人の姿を現していると思われます。
また古い記憶が死への恐怖や嫌悪と結びついた時、牛の頭蓋骨や近衛兵、竜騎兵メソポタミア人として画面に顔を出してきているのではないでしょうか。
そこにはもうあの「探したりはしない、発見するのだ」と豪語した、若き日の颯爽たるピカソの姿はなく、実生活の中でも絵画上でも探索することを放棄し、入り込んでしまった空漠たる漆黒の闇の中、古い縄張りにしがみつきながら死への恐怖に震えている、老いさらばえた一匹の獅子の姿しか見られません。
歳月とはなんと残酷なものでしょう。