No.37 東山魁夷の世界 (後編) 

一方生い立ちに関する彼の記述によりますと、彼は横浜で生まれ、物心つくかつかないような3歳の時に、父の放蕩のせいで神戸に移住し、そこで少年時代を過ごす事になります。
この事は彼がしばしば旅情に誘われる旅に出かけるのと、大きく関係しているとおもわれます。

幼年期に転居した影響や、子供時代を横浜や神戸のように国際色豊かなところで過ごし、且つ都市化や洋風化といった変化の著しい土地で育ったことも影響して、東山は、日本人の持っている普遍的なイメージとしての故郷にあこがれ続けます。しかし日本人としての、より象徴的、根元的な意味での故郷というものを持っていません(・・・しかし私の心の回帰するところに、もっとも普遍的な故郷のイメージ、小学校で歌った「山は青きふるさと、水は清きふるさと」が浮かび上がってきたのはなぜだろうか。・・・水辺への誘い・東山魁夷著・日本経済社刊) それが彼をして、故郷を求め漂白をつづける誘因となっているとともに、日本人の故郷、どこか懐かしい元風景としての山や森、そして湖などの風景を表現し続ける、大きな要因になっているように思われます(東山絵画の古都シリーズにはこの想いが特に強くあらわれています)。
そしてこの理由によって、急速な経済成長や欧風化によって、故郷を失い、休まるところをなくし、不安と焦燥の中をさまよい続けざるをえない、現代日本人の心に不思議な懐かしさを呼び起こし、私たちの心を惹きつけて止まないのです。それは自然との、人間同士のバランスを崩し、エゴとの相克に苦しんでいる現代日本人のアンチテーゼとしての鏡です。更に幼少期に、両親の間に起こった愛憎を巡る葛藤は、少年時代の彼の心に深刻な陰を落とします。このことと後の家業の傾き、戦中戦後に起こった、相次ぐ肉親の死(兄は魁夷が美術学校4年生の時肺結核で死亡、父親は多大な借金を残して第二次世界大戦初期に死亡、終戦後まもなく母親死亡、そして残っていた唯一の肉親である弟も後を追うように死亡)、そして戦争中に体験した死への恐怖や戦争の悲惨さの体験、生死の谷間に見た阿蘇の山々を通して感じた自然の美しさの再発見、父の借財の整理や疎開先、母の死亡時などなどの時に見た過酷な運命の顔、困った時に受けた人の情、そして幾多の愛する者の死を見つめ生と死の間を通り過ぎてきた人間だからこそ抱くようになった無常観、終戦とその後の世相の混乱、芸術上の模索の苦しみなどなどは、彼の人生観と、その表現としての彼の芸術に非常に大きな影響を与えています。

彼の絵画に一貫して流れる、人生に対する宿命論的な諦観や生きる事に対する誠実さはこのような数々の体験によって形成されていったに違いありません。彼の芸術が方向付けられ、また出世作のひとつとも言われている「残照」などは、彼が戦争中、死線の谷間に見た 阿蘇野山々の美しさの再発見を下地に(この経験については次のように語っています。「ある日、熊本城に行軍した時、天守閣に立った。森の都と呼ばれる熊本市の彼方に肥後平野が青々と続き近くには妙正寺、遠くに阿蘇の裾野と、雄大な眺めであった。そのとき一種の衝撃を感じてこの風景に見入った私は・・・略・・・」「自然の中の喜び」(東山魁夷著、講談社刊)、今まで越してきた山々と、これから越えてゆかねばならぬこの世の山々と、その彼方への想いが、彼の人生観と一緒に塗りこめてあるからこそ、この絵が現代日本人の心を惹きつけて止まないと思われます(「足もとの冬の草、私の背後にある葉の落ちた樹木、私の前に広がる山と谷の重なり、孤独な悲哀を経た後に見出した心の安らぎであり、未来への希望でもあったか」日経ポケットギャラリー・「東山魁夷」・東山魁夷著・日本経済社刊)。同じく世間に認められるようになった出世作の一つ「道」にしても、鑑賞する人々は、歩んで来た一筋の道と、これから歩み行くその彼方に思いをはせる東山の心に自分の姿を、重ね合わせるからこそ、心惹かれるのではないでしょうか。それは、今まで歩んできた人生の道のりを振り返り、感慨にふけるとともに、これから進んでいかねばならない道の彼方に、思いを馳せながら佇む、鑑賞者たち自身の姿でもあるからです『休らいと救いを約束するがのような静かな空、谷間の夕影の中に一筋の道が見える。一人山路を登ってきて、次々に浮かんで消えていった想念の帰着点に私は立っている。しかし今、私の心はいくつもの欲を乗り越えて青霞む遠くの嶺へ、更にその向こうの果てしない空へと誘われていく。するとここはまた、新たな出発点でもあるというのか。「風景と対話」東山魁夷著)』

東山絵画の魅力のもう一つはその詩情の豊かさと音楽性にあります。彼の絵画には、5、7、5の12文字の中に、無限の詩的な空間の拡がりを凝縮させる、俳句の世界に共通するところがあるように思われます。「青響」「濤声」「山霊」「渓音」などなど、東山絵画のどの画面をとっても、それに耳を傾けたとき、時間を一瞬停止させたかのような、静寂と緊張にあふれたその画面の沈黙の中から、滝の落ちる音、木々のざわめき、こだま、小鳥の鳴き声、虫のこえ、水のせせらぎ、魚の跳ねる音、浪の呟きなどなど、さまざまな声が合唱し、シンフォニーをなして語りかけてくるのが聞こえてまいります。それはまさしく俳句の「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」の世界であり「静寂の中の饒舌」とでも表現するのがぴったりな、詩的な余韻溢れる音楽の世界です。
一部の評論家のなかには 彼の絵画に対して、その叙情性の強さゆえに批判的な人もいます。しかしそれゆえにこそ、多数の日本人の心を捉えて放さないという面があるのもまた一面の真実です。日本人の心の底に記憶されている自然に対する敬虔な想いが、叙情的に表現されているからこそ、私どもの心の琴線に共鳴してくるのです。

東山は自分の作品について述べている著書の中で、しばしばオーケストラを意識した発言をしていらっしゃいます。「沈潜した森の中には何か非現実的なものが宿っているようだ。時にモーツアルトのオペラの一幕が眼前に現出して私を驚かせる」(「森への誘い」東山魁夷著・日本経済社刊・「森の幻想」の説明文より)「穏やかで控えめな主題が、まずピアノ独奏で奏でられる。心の底にゆらぐ影を求め、訪ね行くような低いモノローグが伝わってくる。深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられる、オーケストラが、慰めるように応える。白い馬は、たとえば変奏曲ならば、独奏楽器による主題であり、その変奏である協奏する相手のオーケストラはここでは風景である」(「白馬幻想・心の風景より」東山魁夷著・ビジョン企画出版刊)「湿った落ち葉を踏みしめながら、水辺の道を歩いていると、ポプラの影がかすかに揺れている。それを眺めている私の心に敬虔な音楽が静かにひびいてくるように感じた」(「森への誘い」東山魁夷著・日本経済新聞社刊・「清唱」の説明文より)確かに彼の作品からはさまざまの音楽が聞こえてまいります。特に白馬のシリーズなどはシリーズとして眺めた時、純なる生き方、安らぎの世界を求め、自然と対話しながら、孤独に旅をする人生を歌った、一大シンフォニーといえましょう(シリーズ最後の白馬の形をした綿雲はやがて来るべき別の世界への旅立ちを暗示しているように思われます)。しかしながら、彼の作品を一点、一点として眺めた時、一瞬の時を凝縮したかのような、緊張と静寂に満ちたその画面から聞こえてくる、控えめで、ゆったりとした調べは、洋楽器によるオーケストラというよりは、むしろ笙や篳篥、鼓や笛、三味線といった日本的な楽器による、神楽、能、歌舞伎などの舞台の音曲に近いような感じもいたします。「歌舞伎はどんな悲しい場面を表現するにも大きな声を上げて泣き叫ぶというようなしぐさはしない。静かな悲しみを耐える所作の中に、一層観客は悲しい心を読み取る。日本の美の世界は・・・略・・・またその緩やかに描き出される空間をもたすものは、緊張した神経でなければならない。能の演技はこの緊張によって、殆ど静止しているかのようなゆるやかな動きののなかに、素晴らしい充実感をしめす」(「風景との対話」・東山魁夷著・新潮社刊)

第3番目はその造形の魅力にあります。どんな素晴らしい思想を有していても、どんなに美しい音楽を心の中にもっていたとしても、それを絵画として表現するための、技術を伴わなければ、それは宝の持ち腐れとなります。人の心に感動を呼び起こす絵画を描く事など出来ないでしょう。

東山の場合も、人々の感動を呼び、共感を得るようになるまでには長い道のりがありました。彼は自らを遅れてきた人と称しているように、美術学校を卒業後、世に認められ、画風を確立してくるまでには、16年余の年月が必要でした。その間の、第二次世界大戦と、それに引き続いての敗戦という大動乱は、日本人のそれまでの考え方を、根本から否定するもので、各分野に大きな変革をもたらしました。美術界もまたこの例外ではなく、従来の欧米から新しい絵画が次々紹介され、それを吸収して新しいものを生み出すために模索と苦悩が始まっていました。日本画の世界でも、高山辰男、杉山寧、山本丘人などを始め多くの画家たちが、その伝統を守りながらもなおかつ、洋風化の嵐の中、新しい日本画の方向性を見出すために模索をしていました。魁夷もまた、そのような流れの中、それほど先進的なものではありませんが、洋風化した、日本画を描くようになります。中でも、51年の「静物A」、52年の「谿」、53年の「たにま」さらには54年の「晩照」、61年の「青響」などは欧米現代美術の影響を色濃く受けた作品で、単純化された色面構成による、装飾性を備えた、二次元的表現といった、新しい造形的な試みをしております。しかしそのような傾向は、その後は次第に薄れ、現代的造型感覚によって構築され、写実と装飾性を融合させた、日本絵の具による、東山独自の心象的な写実風な風景画へと変わっていきます。

さかのぼれば、魁夷は35年にヨーロッパからの帰途、瀬戸内海を船で通る時既に、日本の空気にも風景にも日本の色があり、それを表現するに最も適した画材は日本画の画材だと感じ取ったのです。例えば瀬戸内海の青は油絵のウルトラマリンやコバルトブルーではなく群青と白群青の青であり、花崗岩の島をおおう松も、緑青を塗り重ねた色である事を。また空気はさわやかさの中に潤いのある甘さを持っていることを(「東山魁夷」田中穣著・芸術新聞刊)。そのときの感覚を土台に彼は、日本画の絵の具を使った、堅牢で今日的な造形力に裏打ちされたフォルムと、油絵に負けないマチエールを備えもった、日本人の感性に合う、季節感溢れる風景画を完成していったのです。そしてその画面の中に、彼自身の思いや感情、つまりは彼の言う祈りや音楽をぬり込めていったもの、それが東山芸術だと思います。そして又、このような造形性と思想性に裏打ちされた絵画だからこそ、東山の絵画には、説得力があり、今日の日本人の心をしっかり捉まえて、離さないのだとおもいます。

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