No.85 マラソン仙人〈あるコレクターの話〉

この話はフィクションで、実存の人物、実際の事件とは関係ありません
お正月特別読み物として、ほのぼのとなる、浮世離れしたお話を載せさせていただきます。

 

先日朝早く公園を通りましたら、噴水の前で 半裸になって 身体を拭いていらっしゃる男性がいます。顔も身体も日焼けして真っ黒、やせた下半身を汚れたジーパンで包んでちょっと古びた帽子をかぶっていらっしゃる姿は 何処から見ても浮浪者です。あれ 何処かで聞いたような事を していらっしゃる人がいるなと思いましたが、まさか知り合いとは 思いませんし、男の人の裸を じろじろ見ていて いちゃもんでもつけられても困ると思いましたから、目を伏せて そそくさと通り過ぎようとしました。
すると後ろから「種田さん」と呼ぶ声。振り向くとHさんの屈託の無い笑顔がそこにあります。「どうしたんですか」と聞きますと、「家からジョギングしてきたのですが、そのまま会社に行ったのでは 汗臭いといけないものですから、ここで身体を拭いて、服も着替えて出勤するのですよ」との事。「へー。又ルンペンかと思いましたよ」「それにしても何処かで聞いたような事をしている人がいるなとは思いましたが」と私。「でもまさかズボンまでここで替えるというのではないでしょうね」「無論ですよ。レディの前でそんな失礼な事はしませんよ。ズボンは会社へ行ってから替えます」「またうちのが来たときおいで。またまたものすごいのを手に入れたからね」「ありがとう。またその節はお願いします」で別れました。
私がこの飄々として どこか浮世離れをしている Hさんと 始めて知り合ったのは,安土桃山時代の画の展覧会に行った時の事です。私が見ているそばによって来て、大きな声で話しかけてこられたのですが、変なことに 批評されるのは絵のことではなく 表装に使ってある布のことばかりです。「この布は古い時代の物で おそらくは絵が書かれた時代とほぼ同じ時代のもので すばらしい物だとか、これはこの絵と時代が違って 後で表具したものだとか」と。何しろ少し擦り切れたジーパンとしわしわのワイシャツ姿の50歳近い中年のおじさんが しかも訳のわからないことを話しかけてこられたものですから、こちらは困惑してしまいます。しかしどことなく人のよさそうな顔で 人懐っこいところもあり、振り切れないのですよね。しかも話の内容がなんとなく専門的で、よく聴いていると面白いのです。
「おたくって ひょっとしたら どこかの博物館の学芸員か何かを してらっしゃる人ですか」とききますと「いや,違います。私〇〇会社に勤めているものです」とのことです。「それにしては布のこと詳しいですね」「私、その会社の技術部にいますから、趣味と実益を兼ねていろいろな裂〈端切れ〉を集めているのです」との事です。
話しているうちにユニークなところはあるものの 何となく安心できそうな人柄が解かってきました。そこで一緒にお茶を飲みながら いろいろなお話をしました。彼はその会社で 染色のほうの研究をしていらっしゃるそうで、その研究も兼ねて いろいろな裂〈端切れ〉を集めているということでした。趣味はジョギングと裂〈端切れ〉のコレクションでその収集のために月給の大部分を 使ってしまっているとの話でした。話しをしている内に「額縁のマットに貼る布や、軸物の表装の勉強にもなりますから,私のコレクションも見にきたらどうですか」といわれます。裂〈端切れ〉についての知識は全くありませんが、何だか面白そうなので「それでは又いつかお願いします」という事でお別れしました。
さてそれから暫く後の事です。彼から「今度の日曜日に 妻もちょうど やってきますから例のコレクション観にいらっしゃいませんか」との電話。その日は私も予定がありませんでしたので「それでは10時頃にお伺いしますからお願いします」という事でお約束しました。
訪ねていったHさんの家は社宅で 5階建てのマンションの3階、広さは2LDKの住まいです。玄関を入った時 驚いた事に、そこから見渡せる部屋の中に何も置いてないのです。冷暖房の設備も無ければテレビもなし。居間にあるのは 机とその上の電話、本箱代わりに使われている 積み上げられたダンボール箱だけです。ダイニングキッチンにもやかんが一つ ガス台に乗っている以外何もおいてありません。テーブルも無ければ、椅子もなしです。冷蔵庫や食器棚など無論ありません。まるで駆け落ちしてきたばかりの夫婦の部屋みたいです。本当にスウスウ見渡せる、ガランとした部屋が続いているのです。
奥さんも玄関まで出ていらっしゃって「何も無いのに驚かれたでしょう。この人 生活用品は何も買わない何物も置かないという主義だものですから」といわれます。聞いていると、夫婦は最新の夫婦形態 別居結婚だとかで 奥さんは関東の方で美容院を経営していて、月に一度くらい こちらに様子見に 通って来ておられるらしいのです。しかし子供のいない事も有ってか、夫婦といっても 各々が束縛しあう事も無く 経済的にも独立しており、全く自由な関係みたいです。それでご主人は 収入の全てを趣味に使ってしまい 何時もピーピーしていらっしゃるとの事なのです。
「しかし冬などは寒いでしょうに」といいますと「大丈夫、大丈夫。冬は早く寝てしまいますから。そして朝は起きるとすぐに ジョギングに出掛けますから、暖房器具などはいらないのですよ」「失礼ですが お食事などどうして いらっしゃるのですか」「朝はジョギングの途中で コンビニ寄って パンと牛乳と野菜ジュースを買ってすまし、夜は近所の食堂で済ますか、終業間際のスーパーに行って、半額になっている おにぎりやお惣菜を買ってきてすましています」「だから家で料理する事もありません。調理道具などが置いてないのもそのせいですよ」というのがHさんの弁です。「でもね、たまにしか来ませんが、私が来た時位 せめて何か作って差し上げようと思っても、何も道具が無いものですから困まってしまいますの。それで「せめて調理の道具くらいは一式揃えましょうよ」と言うのですが、「物は有ると邪魔だから 買うな」といって怒って、買わせないのですよ」と奥さん。「お風呂だって、ジョギングの途中 公園の水道で身体を拭いてすましてしまう事が多いらしいのですが、もう本当にお恥ずかしい」といわれるのです。しかしその口振りは わんぱく息子の話しをしておられるようで 結構楽しそうなのです。「そうそう、そう言えばこの間なんか、ジョギングの途中 いつもの噴水で行水をしていたら、ルンペン達が たき火にあたっていけと さかんに勧めたらしいのよ。その上 その人達に牛乳とか、お握りとかを(多分どこかのコンビニの期限切れの物なのでしょうが)ご馳走になってきたのよ。もう、完全にルンペンさん達に、お仲間と思われているのね」と言われます。「しかしユニークな所は有りますが 親切で 思いやりが有り それに話していると 結構面白い人ですし、魅力的な所をもっていらっしゃる人ですが 一人でほっておかれて 心配ではありません?」と聞きますと「大丈夫よ。こんな変わり者、私でなければ誰も相手にしないわよ」と奥さん「そうでもないよ。結構もてるんだから。この間なんか 、女のルンペンに招待されて、そこの天幕を訪問してきたよ。ルンペン小屋の中は思ったより広くて整頓されており、それにうちよりいっぱい物があったので ビックリしましたけれどね」「ほれご覧なさい。どうせ貴方に声を掛けてくるのはそれくらいの人よ。まあせいぜい頑張って」と奥様は大笑いです。
ひとしきり話しが弾んだところで Hさんは自分のコレクションを出してこられました。私にはその価値のほどは さっぱり解かりませんが、色々な布の切れ端が、半紙大の和紙の綴じ冊子のなかに年代順に挟んであります。その量はとても多く プラスチックの整理箱一杯あります。Hさんは自慢げにいろいろ説明して下さるのですが、なんにしても予備知識の無い私の事、それらにどんな価値が有るか 本当に古い物なのか、時代が下がったものなのか さっぱり解りません。 「法隆寺の御物を包んでいた布と同じ年代のものだとか 此れは安土桃山時代の絵の表装に使ってあった布で、傷んだ表装を修理した時 出てきたものだ」などと言われても解らない訳ですから ただただ 肯くだけです。「本当に変わっているでしょうこの人。こんな布切れ一切れで 自分のお洋服が何着でも出来るのに、スーツはといったら ご存知のように正装用と普段会社に来ていく用との2着だけ 後はあの汚いジョギング用の衣類が少し有るだけなの」「こんな汚い布切れ本当にどんな価値が有るのかしらね」「まあそういいなさんな。此れは私の分身みたいなものですから。私が死んだら貴女、きっと此れを抱いて泣きながら寝るようになりますよ」「誰がこんな汚らしいものを。さっさと縁切りして、何処かへ納めさせてもらいますわ」と奥さん。二人の会話はきわどい言葉をやり取りしているのですがとても軽妙で、まるで漫才を聴いているみたいです。そしてその中に二人の人柄みたいなものが滲み出ていて とても安らぎます。何かを収集している人と言うのは 結構癖のある人が多いようで 付き合うのに気を遣わせる人が多いのですが、Hさんの場合は 確かに彼も すこし変わったところを持ってはいますが違うのです。毎月の収入のほとんどを趣味に使ってしまっておられるものですから 毎日の生活は、とても質素な倹約家です。何しろ冷房は無論の事 暖房器具ひとつない生活、テレビもなければ、冷蔵庫もなし。家の中には家具といえば 机だけといった生活なのですから、まさしく都会の中の ロビンソンクルーソーです。しかし 惨めたらしい様子は少しもなく いつも 飄々としていて 春風のようにのどかです。コレクションへのこだわりも 全く欲を離れたところにあるご様子です。話しをする時も 気を遣う必要が無く 、思ったことを そのまま 話せる人です。まさしく 世俗を離れた所に超然と住んでいらっしゃる仙人です。そう言えば彼は100キロマラソンをやるそうですが、そのマラソンの最後の方は 宇宙の時の流れと同化し 無我の境地におちいることがあるそうです。コレクターにもこういった人もいるのですね。これはコレクターの素質なのでしょうか。それともコレクションが浮世離れしているせいなのでしょうかね。