No.62 片岡球子の絵画について

1.片岡珠子先生の略歴

この先生について知っていただくには、まずこの先生の画壇における足跡を知っていただくのが一番かと思いますので、その略歴からご紹介させていただきます。

この先生は非常に遅咲きでして、若いうちは院展に落選を繰り返し、落選の神様などと陰口を叩かれていたほどでございました。しかし33歳(1938年)のときに院展絵画部会研究会、課題発表会で「新緑」が……これは絵の題ですが、これが第2席、大観賞を受賞しました。以降、次第にその力量が認められるようになるのです。

1939年34歳 「緑陰」が入賞して以降は毎回院展に入選するようになります。
1943年38歳 無鑑査。その後、出品作は院展の美術院賞、奨励賞、白寿賞、大観賞などをたびたび受賞。
1952年47歳 院展同人に。
1955年50歳 出身校日本女子美術大学の専任講師、助教授を経て、教授に就任。
1961年56歳 院展評議員に、また同年「渇仰」が文部省買い上げ作品となると同時に第11回芸術選奨・文部大臣賞を受賞。
1964年59歳 この年より版画制作を始める。
1966年61歳 愛知県立芸術大学日本画科主任教授就任、生涯のテーマとしての面構えシリーズが始まる。
1973年68歳 同上定年退職、その後、同上大学の客員教授に。この間、学生達の指導に当たられると同時に、地元の芸術振興に努められた。そのため地元とのつながりは非常に強く、この地方では、先生の作品の人気は高く、コレクターの数も多いといわれております。
1975年70歳 面構「鳥文斎栄之」で日本芸術院・恩賜賞を受賞。
1976年71歳 勲三等瑞宝章を受章。
1982年77歳 日本芸術界の最高峰に位置する、日本芸術院の会員に選ばれる。
1986年81歳 文化功労者に叙せられる。
1989年84歳 文化勲章を受章。

 

2.芸術的に優れた作品とは

片岡先生の絵画は、先生の画集をご覧いただいてもお解かりいただけるように、日ごろ皆さんが目にしていらっしゃる、印象派風な、写実的絵画とか、皆さんがイメージしていらっしゃる、いわゆる日本画的な絵画とは、ずいぶん違っております。したがいまして、初めてこの絵を目にした人にとっては、この絵の芸術的価値について、なかなか理解し難いところがあるのではないかと思います。
そこで片岡珠子芸術のすばらしさについて説明する前に、非常に初歩的なお話で、失礼だとは思いますが、絵を鑑賞するに当たっての基礎知識として、絵画における芸術性とはどんなものか、芸術性の高い作品とはどんな作品をさすかということについて、ざっとおさらいさせていただきます。

1)オリジナリティがあること。
即ちその作家の作品であることが一目でわかるような独創性が認められることです。
2)創造性が認められる作品であること。

多くの人は、学校での図工教育の影響もあってか、対象物をそっくりそのままに真似して描いてある写真のような絵を、上手とか、素晴らしいといって感心される傾向があります。しかし景色であれ、人物であれ、対象をそのまま真似し、写真のようにそっくりそのままに描かれたものが、必ずしも芸術的に優れているとは言えないのでございます。描く対象が発してくる、いろいろな情報、例えば色だとか形、それから受ける印象、などといったものを、一旦作者の頭の中に取り入れ、それを咀嚼し、もう一度画面という二次元の世界に、その作家の世界として再構築されてきているものが、良い作品、芸術性の高い作品といえるわけです。常に新しい観点から描く対象を捉えなおして、画面上に作家の捉えた世界を創り出そうとする試みがなされていないような作品、例えば、一般に売り絵と称されるような、作家がお金のために惰性で描いているような、類型的な作品などというものは、どんな大家の作品であっても、真の芸術性という意味では、疑問符が付くのでございます。また伝統にあぐらをかいて、古い形式を踏襲するだけの作品とか、まして他人の描き方を踏襲し、そのまま模倣するだけで、その作者自身の創作意欲が伝わってこない作品などというのは芸術作品とは言い難いと言えます。

 

3)見る人の感情を強く刺激し共感させる作品であること。

多くは感動、喜び、懐かしさ、希望、気が休まる(安寧)などといった、プラスの感情を呼び起す作品をいっていますが、近代の絵画論では、このような感情を揺さぶる動機としては、先に述べましたプラスの感情だけではなく、怒り、悲しみ、苦悩、絶望、嫌悪、反発などといった、マイナスのイメージを引き起こしてくる物の場合でも芸術作品として良いといわれております。

 

4)技術的にある程度完成されてきている作品であること。

画家の表現しようとしている意図(作者の対象から受けた心情とか、作品の造形美など)を的確に伝えることができる技術力を持って描かれていることが必要です。いかに素晴らしい構想や意図を持っていらっしゃっても、それを的確に表現する技術が伴わない作品では、見る人の感情を刺激することはできないからでございます。
5)時代性がある作品であること。
その時代を感じさせる作品、あるいはその時代にマッチした作品であることが、その次代に生きる人々の共感を得るためには必要ともいわれております。

 

3.片岡珠子芸術の真髄

それでは、珠子先生の作品について考えてみましょう。珠子先生は若い時代は、ゲテモノとか、落選の神様といわれていたものでした。その当時彼女の描いていたものは、身近な人々をモチーフにした風俗画で、その人達との交流を通して、その人々の内面までもふくめた全てを絵画の中に投影しようという姿勢で描いておられたのですが、彼女が追及しようとしていたその主題や、表現様式は、地域に根ざした土着性が強く(例えば北海道の生まれだった彼女は、光線の乱反射を受けいろいろな色合いを見せる雪を思い浮かべてか、赤い雪を描いて、大観に「赤い雪か」と苦笑されたことがあったそうですが……その後も富士山などで赤い雪が使ってあることがありますが、先生は単に対象をそのまま写しとるのでなく、その対象から受ける自分の気持ちをあらわそう、色と形によって物の本質に迫ろうとされていましたから,その時の雪を表すに当たっては、赤い雪の表現が必然だったのだろうと思います「現代の日本画:片岡珠子」株式会社学習研究社刊参照)その色使いは、力強く鮮烈ではあっても、当時としては異端で、当時の院展で主流だった日本画らしい日本画の主題や、表現様式とはちがったものでございました。
昭和10年台の院展は横山大寒、前田青邨、小林古径などが指導的立場にいらっしゃいました時代で、したがって彼らの絵画を思い浮かべていただければ、当時の院展日本画の主流となっていた絵画様式が想像していただけると思います。当時の院展の主流を占めた日本画は、どちらかとい言うと、静謐で、こぎれいな、技術優先の日本画でした。したがって彼女は、自分の進むべき路として、その院展様式に合わせるように描いていく道をとるべきか、あるいはあくまで自己を貫いて、独自の道を歩んでいく方がいいのかと、長い間、思い悩んでいたようでございます。これを打破するために、研究会にはいったり、いろいろな人との交流を通して、戦後の新たな日本画の動きにふれてみたり、又彫刻家山本豊市についてデッサンの勉強をしたりしました。
この時代の作品には、マチス、ゴーギャン、その他の洋画の影響も色濃く反映しております。1952年の「美術部にて」は一見マチスを思わせる絵です。1953年「カンナ」はゴーギャンの背景に使われた表現に色使いが似ているように思います。しかしこの思い悩んでいた時、くじけそうになる珠子先生を支えてくれたのは、中島清之、小林古径などの励ましの言葉でした。先生は、こうした人々の励ましの言葉に支えられ、たとえ異端といわれようとも、自分流を貫いていこう、自分らしい描き方を貫いていくより他に道はないという覚悟を、次第に固めていかれたように思われます。
こうした先生の覚悟が、作品の形として、はっきり表れ始めたのは、1954年49歳のときの作品「歌舞伎南蛮寺門前所見」以後ではないかと思います。
このような絵画様式が開花するまでには、安田靭彦先生のお力添えが大きかったといわれております。1954年「歌舞伎座南蛮寺門前所見」という絵には、すでに鮮烈な色使いと、力強い線による単純明快なフォルムの把握によって、単なる人物の写実ではなく、対象を内面まで掘り下げて、写し取ろうとする珠子先生独特の表現様式が見られるようになってきております。この絵を見ていますと、歌舞伎座の雰囲気が臨場感を持って迫ってくるだけでなく、役者さんたちの舞台に臨んでの緊張感、心意気まで伝わってくるような気がいたします。
ところで、これを描く8年位前にあたる1946年(41歳)のとき、珠子先生は安田靭彦の門下に入っております。先生の指導は、単なる絵画の指導ではありませんでした。日常生活の指導から始められ、先生の言われるには「美しいものを生み出すためには、その生活も優雅で、いつも優れた者、美しいものに接していなければならない」というものでした。
珠子先生は、安田靭彦の指導に従って、一流料亭での食事を経験されたり、裕福な家庭を訪れて、茶道具、古画などの日本古美術に接する機会を得られたりして、日本の伝統美の美しさを身体で吸収していかれました。また一方、前田青邨やその夫人の紹介で歌舞伎、能、舞楽といった日本の伝統芸能を鑑賞され、それを担う人々と交流する機会を得られます。珠子先生は、こうした歌舞伎役者などとの交流を通して「伝統芸能を守り、その心を現代に持ち込み、後の世界に伝えていこうとする」役者達の心意気に触れることもできたのでございます。
こうした日本の伝統的な美の真髄に日常的に触れることにより、珠子先生の絵画芸術は、長い土の中での幼虫生活を経て成虫に脱皮していった蝉のように、混迷のときを脱し、ここに華やかに開花したのでございます。そしてこれが完成の域に達してきたのが、1960年(56歳)のときの能を題材にした「渇仰」でした。これで第11回芸術選奨文部大臣賞をとり、文部省買い上げ作品にもなっております。
これを見ておりますと、針の音さえも聞こえてきそうな能舞台の静謐さや、ピーンと張り詰めた緊張感が伝わってくるように思います。と同時に、その演じられている内容「誰かを祈るように仰ぎ慕っている」そんな雰囲気までが臨場感を持って伝わってきます。
そして1961年の「幻想」も文部大臣賞を受賞。こうして、先生が目指していた彼女特有の絵画様式は(それは力強い筆のタッチと鮮やかにして強烈な色使い、そして厳しいフォルムの把握、対象の色分割と画面上でのその再構築によって構成されております)伝統的に日本画が伝えてきた、装飾性とここに融合し、それまで彼女の絵画について回っていた土俗的な泥臭さや野暮ったさを昇華させ、写実を通してその対象の内面、即ち物の本質にまで迫ろうとする、片岡珠子独自の華麗にしてインパクトのある絵画の世界へと結晶していったのでございます。
これが更に発展していったものが、その後に続く面構え(つらがまえ)シリーズです。1966年(61歳)の足利尊氏から始まったそのシリーズは、彼女の関心を引いた歴史上の偉人、名僧を経て、浮世絵師達の人物像にいたりますが、そこに描き出されている人物は、珠子先生の想像力によって現代に蘇らされた人間にすぎません。しかしその人物像には、その人が、生きた時代の背景や、歴史的資料に基づいての、人間的考証が充分に行われておりますから、面構えを見ておりますと、現在に甦った偉人と直接対峙しているような、そんなリアリティを持って私どもに迫ってまいるのでございます。
1968年「日蓮」、1970年「豊臣秀吉と黒田如水」、1971年「葛飾北斎」、1974年「鳥文斎栄之」(これは日本芸術院恩賜賞受賞作品です)など、この面構えシリーズは多くの人々の共感と感動を呼び起こしました。この面構えシリーズによって、先生の作品は多くの人に知られるようになりまして、ちまたでの不動の名声を獲得されました。鮮烈な色使いと強烈にして堅固なフォルム、そしてそれがかもし出している臨場感、この面構えシリーズを見ていいますと、なんだかその人物が、画面からぬけだして、今にも語りかけてくるような、あるいは話し合っているのに立ち会っているような感じがしてなりません。
これらの作品では、もはや珠子先生の絵画にみられた泥臭さや、野暮ったさは影を潜め、受ける印象は、表現様式のプリミティブさゆえに強さへと変わり、その鮮烈な色使いと、強烈な線で形成されるフォルムの明確さと堅固さは、華麗なる雅へと変遷したのでございます。それは正しく小林古径先生が言っていた、ゲテモノから本物への羽化だったと思います。これらの絵を見ていますと、小林先生の言葉どおり、雅(みやび)と泥臭さとは本当に紙一重だということがよく理解できると思います。

無論そうは申しましても絵画において、野暮とか泥臭さが必ずしも排斥されるべきものだとは思いません。それに徹しきった作品はその力強さゆえにまた、人の心を強く打つものがあると思います。片岡先生のお力とその執念とも思えるような努力から考えれば、その道をおとりになればなったで、その道での新しい絵画を生み出されたであろうことは容易に想像できます。しかしこの開花によって、日本画の雅さを失うことなく、そこに強烈な現代風の自己主張を持ち込まれた現在の作風は、大いなる先生の功績であり、日本画の歴史に新たな一頁を刻まれた方である事は間違いないと思います。

一方、このように人物像が開花し始めるより少し前の、1959年(54歳)の頃から、それまでは人物画の背景として描いていたに過ぎなかった風景描写が、独立した先生の関心事となります。そして絵画のテーマとして取り上げるようになってまいりました。
その関心は、最初は海に向っておりましたが、次第に山、さらに火山へと移っていき(1962年「桜島の昼」や1986年「羊蹄山の秋色」など)最後は富士山にたどり着かれます(1967年「山 富士山」)。そして1967年以降はその魅力の虜になったかのように、四季折々、その時々、又見つめる角度によっても表情を変える富士の像を、人間に語りかけるように富士と会話をしながら、その像を描き続けられるようになったのでございます(1988年「春の富士(梅)」。
奔放にして力強い線描と、単純明快なモザイク状の色面分割によって構成され、そこに鮮烈な色彩を配して描かれているその山々、特に富士山は、ほとばしるようなエネルギーを画面から放出しながら、雄大にして華麗な富士の魅力を余すところなく伝えていると思います。これは珠子先生が、富士と会話を交わしながら創り出してきた先生の世界です。しかしそれは同時に、溢れるようなエネルギーをみなぎらせ、日々新しい日本画の魅力をつくりだそうとされている、珠子先生自身の姿であるような気がいたします。

 

4.片岡珠子先生の版画について

版画は1964年から作り始められていましたが、この富士の姿を表現するのに最も適したメディアとして版画を用い、珠子先生は富士を描くようになってまいりました。富士山はその制作年代から考えて、珠子先生の絵画が最も円熟に達した時代の作品でございますから、芸術的価値が非常に高い作品ということが言えるように思います。片岡先生の版画につきましてはまたの機会に述べさせていただくつもりです。

 

参考文献:
現代の日本画:片岡珠子(学習研究社刊)
白寿記念:片岡珠子展-極める人間と山(朝日新聞社刊)
版画芸術115.2002(片岡珠子全版画)(阿部出版株式会社刊)