孔雀だとか、鶏、オウム等といった鳥たちの雄鳥はとてもきらびやかな羽飾りをもっております。しかしそれらの鳥も種としての発生の最初からその様な羽をもっていたわけではありません。少しでも強いもの、環境に適応していくものが生き残っていくという進化の法則に従って、その様な形が生み出されてきたといわれています。即ち、より強そうに、より立派に見える、そんな雄がより生殖の機会に恵まれた結果、今のような羽飾りが完成してきたものだと思われます。あの羽飾りは、雄鳥たちにとってはそのような自己装飾の結果なのです。
ところで最近の風潮として気になることは「どうせ自分はこの程度の能力しかないのだから」とか「これが私の地なの」とかいった風に、比較的本音をさらけ出し、それを武器に居直っているかのような人が多くなってきていることです。特にテレビなどでのトークを聞いていますと、その様な感を強くします。このようなトークは確かに聞いていて歯切れが良いし、その人だけの生き方としてなら、とても楽な生き方です。でも本当に皆が本音でのみ生きるような社会となったら、それはいったいどんな社会となっていくことでしょう。エゴとエゴがぶつかり合う 本性むき出し、弱肉強食の、とっても嫌な社会となっているのではないでしょうか。
人間は長い時の経過の中で、集団生活に適応できるよう、色々な智恵を身につけてきました。自我や欲望をある程度コントロールし、協調、我慢、諦めといったものを身につけることを学んできたのです。それと同時に人間は、社会の中で他者と係わり合う方法の一つとして、相手に好印象を与える、良く思ってもらう、敵意がないことを知ってもらう術も身につけてきました。恋する相手には雄の鳥が羽を見せびらかすように、より強そうに、あるいはより賢そうに、あるいはやさしそうに見えるよう自分を飾ってみせようとします。もしも貴方がこういったもののすべてを虚飾として、捨て去ってしまい、ありのままの自分、理性の抑圧を捨て、本性むき出しの自分をさらけ出した時、そんな自分に自信がもてますか。また、そんな人間に進歩があると思いますか。
確かに過度の虚飾、内実を伴わない自己の装飾は見栄っ張りとか、嘘つきと言われるように、見苦しいものでしょう。しかしその様な、人に良く思われたいといった願望に基づく人間の行動が、社会の規範を守り、人間の行動に進歩を与えてきたということも否定できないと思うのですがいかがでしょう。最初は内実が多少伴っていなくても(うわべを繕うだけでいつまでも内実が伴わないのは別として)後から努力によってそれが伴ってくるということもあります。いや、世の中むしろその方が多いように思います。
理想を追い求め、好くなろうと思う思いと行動が、進歩を生んでくるのではないでしょうか。好くなろうと思わない人、なにかを目指して努力しようとしない人には、進歩はありません。
さて話しは飛びますが、画廊の経営にも似たようなところがあります。多少経営は苦しくとも理想を掲げ、見栄を張って、良い画廊になろうとしなければ、恐らくパン絵の画商で終ってしまうだろうと思います。確かにお金が儲かる絵、大衆が欲する絵だけを扱い、右から左に流しているだけなら、今のところ、何とかやっていけます。しかしそのように、現実の中に埋没してしまって、身過ぎ世過ぎのためにだけこの仕事をしていては、画商を志した以上あまりにも悲しいことだと思います。道は険しくても、自分が理想とする画商に向って歩もうとしなければ、この仕事に携わったかいがないような気がします。
くちばしも黄色いうちにと、先輩の画商さんたちに笑われてしまいそうですが、現実に飲み込まれて、安易に過ごさないように、心の中で、旗だけは立てておこうと思っています。うちの実力では売れそうもないような絵を扱ってみたり、企画展をしたり、まだそれほど売れていない作家の展覧会をしてみたりしているのもそのためです。
確かに現状では理想に徹しきれるほどの余裕はありませんが、いつの日にか、ゴッホを見出したり、ピカソを見出したりした画商のように、歴史の流れの中に記憶される、そんな作家を発掘し、そんな作品を取り扱っていけるようになりたいものだと念願しています。これが私の夢です。夢の中で虹を掴むような取り止めのない話でごめんなさい。