第二次大戦の大空襲によって殆どが焼失し、僅かに徳川美術館に付随する庭の一部に、昔の尾張徳川屋敷の庭園の面影を残しているに過ぎなかった徳川園が、最近(平成16年)再建されました。
規模はやや小さく、かっての尾張徳川邸の庭をそのまま再現したものではなく、(当時の敷地は13万坪もあり、その泉水には16艘もの船を浮かべたといわれています)日本三大庭園といわれる、金沢の兼六園、水戸の偕楽園、岡山の後楽園の規模には及ぶべくもありませんが、こじんまりしているだけに、よくまとまっており、気楽に楽しめます。尾張二代藩主光友が、最初に作ったものをそのまま再現したものではないにしても、随所にその作られたときの心は生かされており、大名屋敷の庭を造るときの理念を、垣間見れたような気がして興味深いものがあります。見所として以下のものが作られております。
入り口は二つあり、一方の入り口は尾張徳川邸の(明治33年完成)遺構であった黒門で出来ております。それをくぐると左手に、尾張徳川下屋敷の遺構の石を使って再現された龍門の瀧があります。この滝は1669年第二代藩主光友によって造営が始まった尾張江戸下屋敷の庭園に作られていたもので、その滝に盛り込まれた趣向は来客を大いに驚かせ、且つ楽しませたといわれております。その流れの先に龍仙湖があります。この池は池泉回遊式庭園の中心的存在をなしております。その岸辺に立ちますと、本当はそんなに大きくない池に過ぎないにもかかわらず、海の広さとさわやかさを感じさせてくれるから不思議です。さらにその池の端には池を直線的に仕切った西湖堤、この堤は中国にある西湖の堤防を縮景したものですが、その堤が作られています。
ついでこの池に沿って歩んでいきますと、湖岸の小高いところに織田有楽斎好みの茶室、瑞龍亭があります。この茶室から龍仙湖、西湖堤が眺望出来ます。そこからボタン園を眺めながら(この牡丹園の牡丹は冬にもかかわらず開花の真最中でした)、大曽根口(園への二つ目の入り口)の脇を通って更に歩を進めていきますと、小高い岡の上のお休み所、四睡庵に行き着きます。これは梅や桃の木に囲まれた静かな隠れ里の中の一軒家といった趣向となっています。この岡を下り、道に沿って山道を登っていきますと、深山幽谷の雰囲気に包まれた森の中に、忽然と姿を現すのが大曽根の瀧です。この滝は落差6メートルもある三段の滝で、岩組みの妙により、いろいろな水しぶきの変化を楽しむことが出来ます。この滝の流れの先に、渓流美を形成しているのが虎の尾です。この渓谷は、私が行ったときは冬でしたから、寒々としておりましたが、初夏には椎の木の新緑が、秋には紅葉が楽しめるようになっています。
最後にその渓谷美を見下ろしながら、虎の尾に架かる木橋、虎仙橋を渡りきりますと、園内を一周してきたことになるように、この園は作られております。園内には山あり谷あり、滝あり、茶室ありで、作ったお殿様の、自分の領地の中に持ちたいと願っている土地や名所が、縮景として取り入れられているようにおもわれます。この園をみていますと、庭を作ったお殿様のお気持ちがなんとなく感じられ、とても興味深いものがあります。庭園についての知識はほとんどありませんから、独断による偏見かもしれませんが、大名の庭園には、神仙思想に基づく中国式の庭園とか浄土思想や禅の思想に基づく寺院式の庭園とは少し違った理念があるような気がいたします。それは子供が箱庭を作るときに似ているように思います。子供達は箱庭の中で自分が頭のなかで描いている地形や建造物を作ってまいります。それと同じようにお殿様もまた、自分が所有したい、支配したいと願っている、彼の理想の土地や名所を、お庭の中に縮景として、再現してこられているではないでしょうか。言葉を変えて簡潔に言えば、庭園という限られた空間の中に、殿様の夢の領地を、表現したものそれが大名の庭園だと言えると思います。