No.49 懐かしい事は懐かしいけれど、向井潤吉風景画選集発刊に寄せて(前編)

今朝、向井潤吉風景画選集、『懐かしき日本の風景・叙情篇、郷愁篇 (日本美術教育センター刊)』販売案内の折り込広告が入っておりました。その広告で紹介されているのは、今ではほとんど見られなくなってしまっている、古い日本の風景を描いている絵画で、昔を知っている世代の人達にとっては、その懐かしい景色の数々は、目頭がジンとなるような郷愁を呼び覚ましてくれるに違いないと思われるものでした。

ところが父親の感想を聞いていてみましたところ、違っていました。
父の言うには、それらの風景は、まだそれほど遠い昔の話ではなく、ついこの間迄、田舎へ行けばどこにでも見られた、ごく普通の風景だったとのことで、「確かに懐かしい感じはするが、それからまだ時間があまり経っていないだけに、ただ美しいとか、懐かしいとかといった感情だけではない、実際にその中での生活を経験してきた者にしかわからない、生活していた時の実感が篭っていて、複雑なものがある」といいます。そういわれてみれば、視覚芸術によって表現されている古い時代の風景は、絵画だけでなく、映画であれ、写真であれ、夢の中にいるような感じで、生活臭を伴っていません。従ってその描写された景色は美しく、懐かしい感傷の世界へと誘い込んでくれます。

しかし実際のその時代の生活、中でも農村の生活はとても厳しいものだったそうですから、その時代の生活の辛苦にまで感情を移入させて見る人の場合は、甘い感傷に浸っているばかりでない、もっと複雑な感情が湧き上がってくるというのも頷けるものがあります。
そう言われてみれば、思い出した事があります。私の幼かったころの話です。
小学校に上がる前だったと思うのですが、時々両親に連れられて、父の実家に帰っていた頃の話です。実家のお隣には、この画集に出てくるのと全く同じような藁葺屋根のお家が建っていました。その家は当時、もう既に軒がすこし傾きかげんで、建付けも悪くなっており、その為に戸のしまりがあまり良くなく、隙間風が遠慮なく入ってきておるような家でした。土間は広く、床ほんの一部の畳敷き以外は、ほとんどが板敷き、天井には申し訳程度の板が並べてあるだけで、家全体が一つの大きな空間となっているような感じのがらんとした家で、冬は寒さが厳しかろうと思わせる家でした。その家は南側に大きく開いており、そこに障子が入っている窓がありますが、それ以外には窓がほとんどありません。従って昼でも奥のほうは暗く、いつもじめじめしていました《皆さん方は、茅葺とか藁葺の家というと観光地にある、手入れのよく行き届いた、部屋数も多い、大きな家を頭に思い浮かべられこととおもいます。それらの家は、夏は風通しがよく、自然の冷房が効いて涼しく、冬は囲炉裏の火の暖かさが寝所を包むように上がってきて暖かいといった具合に、日本の風土に適した理想的な建築物として紹介されている事が多いように思います。しかしそれは金と手間を惜しまず、絶えず手を入れ、薪も惜しまず使える裕福な家庭の家だからこそ言える話です。一般の小さな農家の家ではそうはまいりません。夏はともかくとして、冬はとても住み難い家です。何らかの事情が出てまいりまして(この家の場合はご主人の死とか、当主の老齢化によるものだったのでしょうが)手を入れる余裕なくなってしまいますと、瞬く間に、その住環境は更に厳しい物と変わってしまいます。》

そこに住んでいらっしゃったのは、大変なお年寄りで、幼かった私にとっては、100歳にも200歳にも思えるような、昔語りに出てくる、おばばのような感じの老婆でした。小柄で、身だしなみにもまったく気にかけず、つぎはぎだらけの着物を粗末な紐で纏うだけ、真っ白なザンバラ髪を簡単に後ろに留めて、古い壊れそうな乳母車を引いて、背中を丸めながら歩いておられました。

誰も寄せ付けないような、きつい顔をして歩いておられるそのお姿は、夢か、物語の中に出てくる妖怪ばばのような感じで、一寸見にはとても不気味な感じがして、近寄りがたいものがありました。とても働き者で、畑に出て働いていたり薪木になるような小流木を川へ拾いにいったり、芋切干とか切干大根を作ったり、繕い物をしたり、糸を紡いだり、機を織っていたりとかしていて、ともかく一日中身体を動かしておられたように思います。小さな顔は日に焼け、そこにでている無数の染みと皺は、彼女のこれまでの人生の苦労を物語っているようでした。

祖父母の話では、農地解放によって、ただ同然で手に入れた田が、その頃の土地ブームに乗って次々と高く売れ、そのころは、とても大金持ちになっていらっしゃったとのことでした。しかし生活は質素で、いつもつぎはぎをした、洗い晒したような粗末な着物を着ておられ、食べ物も自家製の野菜や、放し飼いの鶏の産む卵ですましておられ、お金を使うというような事はあまりされない様子でした。子供さんは持っておられず、ご主人も少し前に亡くなられて、彼女は一人で暮らしておられました。お年に見える割には、お元気で、怖い顔をしてコチョコチョ動き回っておられる姿には、人を簡単には寄せ付けない厳しさが漂っておりました。この家は終戦前、父の実家の小作だったという関係で、父の実家の裏木戸を開けるとすぐそこが、お隣の家の庭になっているという風な、二軒の家の間には境界があってないような造りになっていました。

父の実家に遊びに行った時、私が裏木戸を開けますと、そのおばあさんは、待ちかねていたよう「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、こっち、こっち」と手招きします。こんなときの彼女は、顔中を皺だらけにして笑いかけてこられ、とても人懐こく、優しそうで、道を歩いていらっしゃる時のあのおばあさんと同じ人とは思えないほどです。私が傍によって行きますと、半紙にくるんだ飴玉だとか駄菓子、半乾きの芋切干、などを振る舞ってくれるのが常でした。しかし私が行ったからといって、仕事の手を緩めるような事はされません。手はいつものように動かしながら、いろいろな話をしてくれたものです。話題は、近所の人の噂話や悪口から、その地方の民話、そして自分の身の上話、そして格言めいたものまで、いろいろでした。彼女はそれを普通の大人の人を相手にして話すように、話してくれたものです。今思いますと彼女がその時思っていらっしゃった事を、思いつくままに話されていたようなきがします。多分、当時、彼女の愚痴の相手をしてくれたのは、幼い私くらいしか、いなかったのではないでしょうか。祖父母などは隣へ行くのを、余り良い顔をしなかったのですが、そのおばあさんとはなんとなく馬が合ったようで、また「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」と、とても大切にしてくれることや、一人前の大人に対するように相手になって話してくれるのも嬉しくて、父の実家に行ったときは、ついそちらに足が向いてしまったものです。何しろ父の実家は大人ばかりで,幼かった私などは誰もまともに相手にしてもらえません。大人たちだけで談笑していて子供の私などは、どちらかというと放りっぱなしにされていました。その為余計にそちらのほうに足が向いたのだと思います。

その時聞いた彼女の話によりますと、彼女お隣の村の、貧しい小作の家の生れで、七人兄弟の四番目でしたが、彼女と長男との間の二人の姉は小さい頃に病死しており、彼女の下の二人の弟もやはり赤ちゃんのときに死んでしまい、実際に残って成長できたのは、一番上の兄、彼女、そして一番下の妹の三人だけだったとのことでした。戦前の小作の生活はとにかく厳しかったようで、地主に年貢を納めると、暮れのお餅どころか、その年食べていくだけのお米が残らないような年も少なくなかったといいます。その頃の農村では、栄養不足のところに肺炎などの感染症を起こす事が多く、この為、乳児死亡率が非常に高かったときいたことがあります。彼女の兄弟も、多分そのような環境の犠牲になっただと思います。

人が生活していくにはお米だけでなく、調味料や、光熱費、副食費も必要ですし、衣装代も農具代もいります。それらを手に入れるためにはお金がいります。そのため、何処の家でも、一家総出、朝から晩まで、寝る暇もなく働くのが普通でした。内職をしたり、荒地を耕したり、手間仕事に出たりと、子守をしたり,家事を手伝ったりと、子供までもが一日中働くのが普通でした。しかし僅かしかない土地では、それでも食べていく事が難しかったといいます。実際、彼女の同級生の中には、高等科を卒業するのをまっていたように、お女郎さんに売られていった娘もいたという話です。そんな生活ですから、家の修繕にまでお金を回せるような余裕はなかなかでてきません。したがって家はかろうじて屋根と囲いがある程度の破れ屋で、隙間風は絶え間なく、冬になると、夜寝ていた部屋の水が凍っているのも珍しくなかったとも語っていました。当時の乳児死亡第一原因は肺炎だったそうですが、こんな環境であったのですから、当然だと頷けます。

そんな環境だったせいもあってか、彼女は幼いときから体が弱く、年頃になっても身の丈伸びませんでした。周りの人からは、やせて小柄な彼女では、農家の嫁としてはとってもやっていけないだろうと思われたようです。その為、年頃になっても、誰も縁談をもってきてくれませんでした。今の娘さんなら、外に出て自立する事を考えるのでしょうが、当時としては、女一人で食べていくのは難しい時代でした。従って嫁の貰い手がない娘は、生家の居候として厄介者となるより仕方がありませんでした。無論貧しい小作の家でしたから、無駄食いを許してくれるような余裕はありません。

従って、彼女は自分の食い扶持を稼ぎ出す為に、一日中一生懸命に働きました。家の一番北側、約50センチ四方の小さな明り取りの窓が一つあるだけといった暗い場所に閉じこもって、朝から晩まで、賃織りの機を織りつづけていたといいます。しかし当時は行かず後家に対する世間の風当たりは、今の想像以上に強かったようで、世間体を気にする家人からの風当たりも強く、身を縮めるようにして暮らしていかざるをえなかったと言っていました。

彼女、両親とは、17歳のとき死に別れてしまいましたから、その後ずっと兄夫婦の所のお世話になっていました。しかし、兄夫婦の所だって生活は楽ではありません。従ってそこにいても、肩身が狭く、息をするのにも気兼ねしてするような毎日だったといいます。こんなに身を縮めるようにした生活していても、世間の口に戸は立てられません。ある事ないこと、いろいろと彼女の噂をします。それが聞こえてきますと、それだけでも悲しくて悔しいのに、それを伝える兄嫁の言葉には、世間体をきにしての、とげをふくんでおり、それでちくちく嫌味を言われる生活は、針の筵に座っているような日々だったといいます。居候三杯目はそっと出しという諺がありますが,彼女の場合は、それどころの話ではありませんでした。食事の時になっても、声を掛けてもらえない時もしばしばありました。そんな時、織機の前でぐずぐずしている彼女に向って、「たかよ、飯だぞ。おいで」と呼んでくれるのは、兄だけだったそうです。その時の兄の声は、仏様の声のようにありがたかったといいます。心の中で伏し拝んだものだったといっていました。こんな彼女にも、終戦とともに運がめぐってまいりました。ちょうどその頃、奥さんをなくし、困っておられたお隣の家に、後妻として入ることになったのです。

それは彼女が40も半ばすぎての事でした。ご主人になられた人は働き者で、働く以外にはなんの道楽も持たない人でした。正直者でお人よし、細かい事を全く言わない人でしたから、彼女の思い通りに家事の切り盛りをすることができました。その上、その頃の農家は、どこの家もそうでしたが、彼女の嫁いで来た所も、農地解放のおかげで、夢にまで見た自分の土地を手に入れるという幸運に恵まれました。さらに、終戦後の食糧不足は、農家に大変な闇景気をもたらしました。何処のお百姓さんの所にも、町から食べ物を買いに来る人の訪れが絶えない時代でした。毎日毎日いろいろな人が訪ねてきました。「何でも良いから、食べ物を売ってください、着物や宝石と交換してください」と、頼みに来る人が後を絶ちませんでした。

誰もが食べ物を売って欲しさに、地べたに頭をこすり付けるように頼みます。今まで頭を下げるばかりで、下げてもらった事などなかった彼女にとって、それはなんとも嬉しく、楽しい経験でした。断るときも、売ってやるときも、相手に頭を下げさせるたびに、優越感がこみ上げ、なんだか今までの境遇に復讐しているような快感に浸れたといいます。それは幸せが束になって突然に押し寄せてきてくれたような毎日だったそうです。しかし自由になるお金を急に持たされても、今まで自由に使った事のない彼女には、どう使ったらいいのか解りませんでした。又恐ろしくて、そして勿体無くて、とても使う気になれませんでした。

そのため物々交換で手に入れたいろいろな品物も、農作物を売って手に入れたお金も、ただ貯めておくだけ、ほとんど使うことはありませんでした。生活は以前と変わらず倹しく(つましく)、真っ黒になって働くだけの日々にも変わりはなかったといいます。その当時唯一お金を使ったのは家の手入れでした。屋根を吹き替え、寝所には、新しい畳を敷き、建具を入れ替え調整しました。こうして隙間風の入らなくなった部屋に座れたときは、まるで極楽浄土にいるような気がしたといいます。毎日お隣まで貰いにいっていた水も、その水は井戸からくみ上げて手桶に入れて運んでいたわけですが、自分の庭に井戸を掘り、電気ポンプを据付け、風呂場や台所に、配管しました。

これによって、彼女は水汲みと水運びという重労働から開放され、蛇口を捻れば黙っていても好きなだけ水が出るという、夢にも見なかったような幸せがやってきました。小柄で非力な彼女にとっては、釣瓶で水をくみ上げるだけでも大変なのに、それを手桶に入れて何杯も何杯も運ばねばならないというのは、大変辛い仕事だったのです。それから開放されたという事は、本当にありがたい事だったのです。しかしながら後で父に聞いた話によりますと、このような水汲みの労働は、ここの家だけの話ではなく、農村では、ごく普通に日常行われていた話だそうです。そして水汲みとか、お風呂焚きといったお風呂当番は、どこでも子供の役割だったそうです。考えて見ますと、バケツで水を運んで入れるのだって、風呂桶一杯にするには大変な労働なのに、それを木の桶で、それも釣瓶でくみ上げては運んで入れていたというのですから、昔はお風呂を立てるのも一仕事だったのですね。聞いていますと、戦前の農山村での生活は、一事が万事こんな風だったといいますから、本当にその頃の生活の苦労が偲ばれます。確かにその頃の日本は、水は美しく、空気は澄みわたり、四季折々に変わる風景は、梅、桃、桜、蛍、紅葉、雪などなどといろいろな色や顔を見せ、とても美しかっただろうと思います。

そこに流れる小川のせせらぎ、水車の音、小鳥のさえずり、かわずの鳴き声、虫の声などといった自然の奏でる音楽も、人の心を長閑やか(のどやか)にしてくれるものでした。しかしそれはお客様として他所から眺めている人が言えることでして、その中で生活していた農民達にとっては、自然も恵みを与えてくれるだけの存在ではありませんでした。日照りに泣き、台風に苦しめられ、雨が降れば洪水の心配をしといったぐあいに、自然の猛威の前に絶えず慄いて(おののく)いなければならないような生活だったのです。耕すのも、草取りも、刈り入れも脱穀も全て人力であったこの時代、それ自身もまた、今では考えられないような重労働でした。こうした時代を生きてきた人々にとっては、向井潤吉の描く軒の傾いたような家、水辺に立つ家、雪に埋まりそうな家、などなどの風景は、美しさ、懐かしさといっしょに、辛く苦しかった時代の思い出を蘇らせるものであり、複雑なものがあるという人がいらっしゃるのも頷けます。

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