このお話はフィクションです似たような事件、地名、人物が出てきたとしても、偶然の一致で、実際の事件人物とは全く関係ありません。
その21
「それで、あの坂本繁二郎の贋物どうなりましたか。挿し絵美術館から、無事、お金取り返す事が出来ました?」
久しぶりに画廊に顔をだされた浅茅さんに、私は、興味津々で訊ねて(たずねて)みました。
「それがねー。まあお金は返してもらうにはもらったのですが、なんだか良かったのか、悪かったのか、気分的にすっきりしないのです。
お金、返るには返ってきたのですが、なんだか後味が悪くて」
「エーッ、どういうこと?無事にお金を返してもらいさえすれば、それで万事OK、良かったんじゃないの」
「そうなんですけどねー」とどうもはっきりしません。
「一体、何があったの」と私。
「それがねー、聞くも涙、話すも涙の物語になってしまったんですよ。
そして結果において、その中で私は、文化財保護のために尽してこられた善人を、病気で死にそうになるまで追い込んだあげく、その人の家族から、情け容赦なく債務を取り立ててきた、血も涙もない、大悪役を演じた形になってしまっているのです」
「へー、面白そう。もうすこし詳しく話してよ」
その22(浅茅氏の口から語られた事)
先ほども言いましたように、あの時、私は井田氏から、中津川市の催しからの収入で、出来る限り支払ってもらい、残りは、隔月に、10万ずつ、井田氏の年金から支払ってもらう、という約束の借用書を作って帰ってきました。
所が、私の予想通り、中津川市での花咲先生の油彩画の売り上げから支払ってくれたのは、結局30万円ほどしかなく、贋作絵画代金の殆どを、井田氏の年金から支払ってもらわねばならないと言う事になってしまいました。
私は、借用書はもらってきたものの、あのような美術館と井田氏の経済状態で、隔月10万円ものお金を支払う約束をさせて、本当によかったのだろうかと内心、心が、チクチク痛んでいました。
結果は、案じていたとおりでした。2回ほど、支払いがあっただけで、それっきり支払いが滞ってしまいました。
もしかしたら、「あんな美術館の状況だから、一時的に遅れているだけではないか」とか、「あまり急がせて無理をさせては」と思い、1カ月ほどそのまま待ちました。
しかし、お金は言うまでもなく、支払いが遅れる訳を知らせる通知すら来ませんでした。
私は、無理をさせた為に、「あの人の身に何か起こったのではないか」という心配と、「もしかしたら、あの人、最初から約束なんか守るつもりがなかったのではないか」という憤りとが入り混じった複雑な心境を抱えて、再度、花咲かおる美術館へと足を運びました。
その23
訪ねていった花咲かおる美術館は、既に閉館していて、扉は固く閉ざされておりました。
中にはもう、誰もいないらしく、いくら呼んでも、ドアを叩いても、何の返答もありません。
途方に暮れた私は、館長であった井田氏や、ボランティアで来ていた受付男性の消息を尋ねる為に、テーマパーク“まほろば”の事務局を訪ねました。
“まほろば”の事務局は、美術館の隣、お土産物売り場兼物産館の一角にあります。
所が、その物産館の方も、既に閉鎖されているようで、電灯は入り口近くに数個点いて(ついて)いるだけでした。
お酒だとか、陶磁器、みそ、醤油、そして地元の銘菓などが賑やかに並べられていた、ショウケースだとか、売り場台の上には、青いシートがかけられ、何も品物は置かれていませんでした。
訪ねて行った“まほろば”事務局には、60歳を過ぎていると思われる白髪の男性が、一人いただけで、他に人影はありません。
その人は、何も置かれてない部屋の中、窓際に残されているたった一つの椅子に腰かけて、手持無沙汰そうに、スポーツ紙をみていらっしゃいました。
彼から聞いたお話によりますと、このテーマパークそのものも、今月一杯で閉鎖される予定で、自分は、残務整理と、訪ねてくる人への応対のため、一人だけ残って、それに当たっているとの事でした。
その24
美術館について尋ねますと
「私たちは部外者ですから、美術館については、詳しくは知りません。
噂によりますと、館長さんが、急な病で倒れられて、入院されたとかで、既に2カ月ぐらい前から閉館しています」
「鍵も返し、荷物も整理されて出て行かれましたから、もうお止めになったのと違いますか」
「それでは、契約を解除していかれたという事なんでしょうか」
「さあ、あそこ、最初から、経営が大変だったみたいで、開館されて一年くらい経った頃から、既に『聞いていたのと話が違う』とか言ってこられ、家賃を巡ってのトラブルが絶えなかった所です。
だから、どうなっているのか私らには分かりません。
家賃は、途中随分減額しましたが、それでも大変だったようで、今年に入ってから、家賃は全く入っていません。
上の方で、どんな話し合いになっているか聞いておりませんから、分かりませんが、家賃の請求をしろとは聞いていませんから、賃貸契約は、解除されていると思います。
館長さんがそんな状態ですし、私どもも、こんな状態で、あそこには並々ならぬご迷惑をおかけしたことになっておりますから、多分、話し合いはついて、円満に契約解除されていかれたのと違いますか」
「他に、美術館への請求書が、此方(こなた=こちら)へ回ってくるような事もありませんでした?」
「それがあの人達って、大変きちんとしている人達だったようで、そういった不義理で、私どもに迷惑をおかけになるような事は、全くありませんでした。
お宅さんは、何かおありになって訪ねてみえたのですか」
「いや、別に大した用事ではありません。ただ最近便りがなかったものですから、どうしていらっしゃるかなーと思って、立ち寄っただけです。
いろいろありがとうございました。
所で、つかぬ事をお聞きしますが、あの受付のお人や、館長さんの連絡先は、御存じでしょうか」
「さあ、館長さんは急に入院されてしまいましたから、どこに入院されているか、聞いておりませんが、あの受付のお方の住所と、電話番号は聞いております。
もし館長さんの事をお知りになりたいのでしたら、あの受付のお方にお聞きになったらいかがでしょう」と言われると、あの受付の男性の住所と電話番号を記したメモを、渡してくれました。
その25
(その晩、電話した、美術館の受付をしていた男性の話)
「浅茅さんには、連絡しなければ、とは思っていたのですが、何しろ館長が入院してしまいまして、いろいろと大変だったものですから、それにまぎれて、連絡もとらず、失礼しました。
実は館長、前々から血圧が高くて、仕事を休んで、休養を取るよう、医師から厳命を受けていたのですが、何しろ美術館の状態が、浅茅さんもご存じのように、あんな状態で、いろいろあったでしょ。だから館長も、休んでいるどころではなく、あの後も、毎日毎日、無理をして、出てきて仕事をされていました。
しかし、その無理とトラブルによるストレスとが重なったからでしょうか、とうとう脳卒中を起こし、入院されてしまいました。
それは、今から約3カ月くらい前の事でしたでしょうか。朝出勤されてきて間もなく、『気分が悪い』と言われて座り込まれたと思ったら、そのまま意識を失い、救急車で入院ということになってしまったのです。
幸い、病状は命に係わるほどではなく、入院して間もなく意識も回復しました。
しかし、軽い言語障害と,右の手足の軽い麻痺があり、当分入院が必要で、退院後も、もとの仕事に復帰するのは無理だろうと医師にいわれてしまいました。
そうなりますと、私一人の力で、美術館をやっていく事なんか、出来っこありません。
ですから、急遽閉館させていただきました。
館長が、前に浅茅さんにお話しされていましたように、館長、この美術館をやるにあたって、奥さんと意見が合わず、奥さんやお子さんと別居されてしまっていたでしょ。
だから、入院された時は最初、奥様に、連絡したものかどうか随分迷いました。
しかし、他の連絡先について、全く分かりませんでしたから、やむを得ず、恐る恐る、奥様にお電話して、館長が、脳卒中で、入院された事をお知らせしました。
所が奥様それを聞かれるとびっくりなさって、直ぐに飛んでこられ、館長の看病にあたられると共に、美術館については、直ちに、閉館を決定されました。
そして、他の人に迷惑がかからないようにと、お金の方は無論のこと、他の残務処理についても、全て、きちんと整理されて行かれました。
だから、てっきり、浅茅さんの所も、きちんとされているものとばかり思っておりましたが、浅茅さんとの事は館長、奥さんには、お話にならなかったのですね。
いまだに連絡されていない所を見ますと。
さすが、贋物を売ってしまった処理までは、奥さんに頼み難かったのでしょうかねー。
或いはまだ記憶がきちんとされていないからでしょうかねー。
いずれにしましても、何時までも放っておくわけにはまいりませんから、その件につきましては、一応、私から、奥様にもお知らせしておきます。」
その26 エピローグ
その後、半年くらい待ちましたが、館長をしていた井田氏の所からは、何の連絡もなく、無論お金を送ってくる事もありませんでした。
脳卒中で、右半身の麻痺と、言語障害を残し、別居していた奥さんのお世話になっているという井田氏が、気の毒で、なかなか、お金の請求をする事が出来ませんでした。
いろいろ交錯する、複雑な思いはありましたが、半分はもう(お金を返してもらう事を)諦めてはおりました。
しかし、あんな迷惑をかけておいて、何の挨拶もないというのはどうにも気が収まりません。
直接、病気療養中の井田氏に言うのも、なんとなく憚られ(はばかられ)ましたから、あの受付の男性の所へまず電話して、私どもへの借金が残っている事を、井田氏に伝えて下さったかどうか、確かめてみることにしました。
彼は「あの後、確かにお伝えしておきましたよ。エーッ、まだ何も言ってこられてないのですか。おかしいですねー。
あの方たち、そんな方じゃないはずですがね。
どうされたんでしょうね。
念のため、もう一度いっておきますわ」と言ってくれました。
それから数日後の事です。
井田氏の奥様と教師をしておられるというご長男の方とが、連れだって、訪ねて見えました。
「いろいろご迷惑をおかけしましたようで、すみませんでした。
お宅からお金を借りています件につきましては、大谷さん(受付の男性の名前)から承って(うけたまわって)おり、すぐにお返ししなくてはと、ずっと気にかけておりました。
しかし、何しろ、主人もまだ病気療養中の身で、目が離せるような状態ではありませんでしたし、美術館の後始末の方も、いろいろありましたから、こんなに遅くなってしまって本当に申し訳ありませんでした。
大谷さんから電話があったのは、やっと主人も快方に向かい、美術館の方の、後始末の方も、終わりましたから、浅茅さんの方へ、ご挨拶に伺わなければと、ちょうど思っていた所でした」
「これで主人がお借りしているお金のすべてだと思いますが、どうかご査収ください。長い間、本当にありがとうございました」と言って、お貸ししていたお金の残額を、一括してお返し下さいました。
これには驚きましたねー。
しかし、それにもまして、あんな状態だったのに、お返し下さった事自体が、とても嬉しかったですねー。
オーバーな言い方かもしれませんけど、なんだか人間というものへの信頼が、再び戻ってきたような気がしました。
でも、きっと無理をなさったんだろうな、と思うと、なんだか悪いような気もして、中から20万円を抜き出し、お見舞い金としてお渡ししました。
その時の、奥様のお話では、
「主人は退院してきた時に比べれば、大分良くなって来ては居ますが、未だ右半身の麻痺と、言語障害はかなり残っております。
今は、リハビリに通っていますが、国語の教師とか、狂俳の宗匠のような、言葉を操る事を生業(なりわい)としていた人間が、言葉を失うという事は、命を失うより辛いことだったようで、気分的な落ち込みが酷く、退院後しばらくの間は、『死・・たい』『死・・い』と片言で漏らすものですから、目が離せるような状態ではありませんでした。
でも最近では、花咲かおる画伯の業績を人に知ってもらい、そしてその画業の集大成ともいうべき、挿絵原画を保存するという生きがいを、再び、見つけだしましたから、せっせと、リハビリに励んでくれるようになりました」
「どうしてそのようになったかって、お思いになりますでしょ。
その理由はひょんなことから、花咲先生の挿絵原画を、手に入れることができたからです」
「美術館を閉館した時には、花咲画伯画業の資料は、挿絵原画を始め、デッサン、油彩などなど全部まとめて、お兄さんの所に、一旦はお返ししました。
所が、ご縁があったのでしょうか。驚いた事に、それがまた主人の所に戻ってきましたの。
お金が欲しかった花咲画伯のお兄さんは、私どもが画伯の絵をお戻しするとすぐ、それらをまとめて、業者に、売りに出されたのだそうです。
所が業者から、『こんな紙屑みたいなもの、全部まとめても、100万円出せるか出せないかぐらいです』と言われてしまいました。
がっかりした花咲先生のお兄さんは、
『そんな値段でしか買ってもらえないのなら、兄の絵の価値を分かってくれていて、大切にしてくれそうな、宅の主人に、持ってもらった方がまだましだ』と思われたのだそうでございます。
こういった経緯で、業者の提示した価格に、少し色を付けた程度で、それらの絵の版権も含めて、全資料が、私どもの下にくることになりましたの」
「最初、私どもとしましては、あまり買いたくありませんでした。なにしろ今住んでいる家は狭くて。そんな物、引取っても、保存場所に困ります。
それに、主人が言っているほど、そんな貴重な資料でしたら、今の私どもの環境では、とてもお預かりできるような状態ではないと思いましてね。
だから最初は、断るつもりでいましたの。
ところが、その話を聞きつけた主人が(主人は、言葉を忘れ、字を画く事が出来なくなっていましたが、人の言う事はあらかた理解できるようでした)不自由な言葉を操り(あやつる)ながら『ホシイ、ソ、ソレカッテ、カッテ』と言って聞きませんでした。
子供達にも相談した所、『お父さんがそれほど拘る(こだわる)のなら、どんなに無理をしてでも、買ってあげようよ』と言います。それで、それらの作品の版権も含めて、合わせて150万円で引き取ることにしましたの」
「主人はそれを買ってからは、生きがいが出来たと見え、とても熱心に、リハビリに励んでくれますの。」
「言葉がきちんと話せないので、断定はできませんが、夫は、『チャンスがあれば、何処かでもう一度公開したい』と思っているのが窺え(うかがえ)ます。
でも、私も、子供も、もうそんなのこりごり。絶対そんなことさせる気はありませんけどね」
「私はね、主人が先に亡くなったら、その後は、高山市の図書館にでも寄贈して保存してもらおうと思ってます」
「それじゃー、奥さんはまだご主人の事、赦していらっしゃらないのですか?」と私が聞きますと奥様は
「許すも、許さないも、この人の、ああいう青年のような情熱と、一本気の所、私、もともと、嫌いじゃーありませんのよ。まして飛騨地方の文化財の保存と文化の振興のために,私欲を捨て、あれだけ、まっしぐらに突き進んでいける姿勢は、羨ましいくらいです。その姿には、私、むしろ尊敬していますの。
ただ今回の場合は、あまりにも度が過ぎ、このままいったら、とんでもない事になるのではと、恐ろしくなりましたので、その前に、ちょっとお灸を、と思って、一時的に、家を出ただけの話です。
それがこんな事になってしまって、私も少し後悔しています。
だから、主人には、できるだけの事をしてあげようと思い、花咲先生の全資料も、買う事にしましたのよ」とおっしゃいます
「でも失礼ですが、私の所へお金を返されるだけでも大変でしたでしょうに、その上のもの要り(ものいり=出費)、随分ご無理をされたと違います?」と聞きましたら、奥様は
「無論、私どもが建てた家も、義父様から相続した土地も、長年にわたって貯めてきた貯金も皆無くなってしまって、二人とも今では、スッカラカンの素寒貧(素寒貧:すかんぴん:極めて貧乏な事)ですわ。
でも、財産なんかどうせ、持って死ねるわけでもありませんし、子供達が一人前になった今では、子供たちにも、残す必要もありません。
ですから、財産なんて、もともとなかったと思えばそれだけの話です。
いまさら無くなったからと言って、何て事もありませんわ。
生活の事は、幸い私達夫婦は、二人とも、長い間お勤めしていたでしょ。
だから二人の年金を合わせれば、美術館の運営というような、無謀な事に手をだしてくれさえしなければ、なんとかやっていけると思っております。
万一、あたしたちの身になんか起こった時は、この子たちも、協力して、面倒をみるといってくれていますしね」とおっしゃる顔は、サバサバしていて、とても爽やかでした。
終わり