この話はフィクションです。たまたま類似した部分がありましても、それは偶然の一致で、実在の人物、事物とは全く関係ありません。
子孫に美田を残さずという諺はよく聞きますが、美術品の場合は、はたしてどうでしょう?
その1
先日、以前、私のうちにお勤めしていらっしゃった小母さんのところを訪ねた時の事です。小母さんの家のお隣にあった、磯川内科の三階建が無くなって、がらんとした空き地に変わってしまっていました。「あそこの家、無くなってしまったけど、どうされたのかしら。」と小母さんに尋ねますと、「それがねー、先生が亡くなられたのは知っているでしょ。最近奥さんも亡くなられてしまってねー。跡は息子さん達が継がれたのだけど、こちらには住まないからというので、結局売ってしまわれたのよ。」「でもあの建物って、建ててからまだ15年くらいしか経ってなかったんじゃないの。それにあれって鉄筋だったでしょ。壊すにも、大変なお金が掛かったでしょうに、どうして、医院としてそのまま売られなかったのかしらねー。とても流行っていた先生だったから、そうされれば、それなりの値段で売れたでしょうに。」「私ら近所の者も、前に、あそこに勤めていた者も、皆そういって惜しがっていたけどねー。何しろ子供さんたちがされる事だから・・・。世間知らずの坊ちゃん、嬢ちゃんだから、いいようにされてしまったんじゃないの。」「それであの土地は誰が買われたの。」「近くの産婦人科の先生が買われて、なんでも妊婦さん専用のスポーツジムを造られるそうよ。」「へー。ずいぶんやり手だねー。でもあの先生、磯川先生の所の息子さんと同級生だったんじゃない。それなら高く買ってあげたのかしら。」「そうでもないらしいのよ。噂だけど、あの先生、結構やり手で,そんなこと考慮してくれる人じゃないみたい。あの土地、結局、建物の壊し賃にもお金が掛かったもんだから、売られても、どれだけのお金にもならなかったという話よ。」「フーン。そういえば磯川先生、斉藤真一の絵をたくさん集めていらっしゃったと聞いていたけど、それどうされたのかしら。」「さあー、斉藤真一という人の絵かどうか、私らには分からんけど、ダンボールの箱に入った絵なら、沢山あったけどねー。だけど、建物を壊す前の日、箱に入れたまま、解体屋が他のガラクタや、いろいろな家具なんかと一緒に、トラックに積みこんで、全部持っていってしまわれたがね。あの先生、陶器なんかも随分良い物買い集めていらっしゃったから、いい花瓶も沢山在ったんだけど、それも皆、解体屋に持って行かれてしまったがね。壊す前日の朝だったかなー。他のガラクタと一緒に花瓶なんか沢山、野積みしてあったから、塵として棄てられるのかなと思ったものだから、それなら一つくらい貰っておこうと思って、良さそうなのを一つ選んで、横の方に除けておいたんだけど、それもちゃんと見つけて持って行ってまったところを見ると、やっぱ、価値を知っていたんだろうね。」「小母チャンがお勤めしていた時、先生が買われていた絵、どんな絵だったか、見たことない。」「よう覚えとらんなー。確か、買われる度に、その買った絵、掛けて、しばらく楽しんでおられたような気がするけど、どんな絵だったかなー。書斎の壁に掛けては、しばらく楽しんおられたけどなー。」「そう、で、どんなような絵だったか、全く覚えていない。」「さあー。なにしろ小母ちゃん、あんまり絵には興味がなかったからねー。どうだったかなー。」「うーん、ぞっとするような暗い顔した女の絵が多かった様な気がする。そうそう、なんだか暗く寂しい感じの背景の中に、白い顔、細長い頚(くび)、まるで冥府から迷い出てきたような哀しそうな表情をした女が、浮かんでいるような絵が多かったような気がする。気味が悪くて、1回見たら、もう充分といった感じの絵だったなー。先生、なんでこんな絵、好きなのかしらと思ったのを、思い出したわ。」「そう、多分それが斉藤真一の絵だったのよ。で、それらの絵どうなったか知らないわねー。」「有名な人の絵だなんて、誰も知らなかったから。あの日、山ほど積まれていた段ボール箱、多分あれがそうだったんじゃないかなー。」「勿体無い事されたわねー。奥さんも知らなかったのかしら。子供たちにもちゃんと教えておかれればよかったのに。」「それがねー、あそこ、大分前から、家の中がぐちゃぐちゃで、家族間のコミュニケーションなども殆どなかったからねー。先生が入院しておられた時だって、誰も見舞いにもこなかったもの。一人ぼっちの寂しい死に方だったそうだよ。」「どうして。奥さんだって、ついていらっしゃったんじゃないの。」「夫婦仲があまり好くなかったからね。その上、奥さん、何時も体の不調を訴えておられたから、先生の入院先の病院にも、あまり顔をだされなかったみたい。」「へー。気の毒に。でも子供さんだって、二人もいらっしゃるでしょ。」「それが子供さんたちともいろいろあったみたいで、子供さん達も、先生が亡くなられる数年前から、殆ど家に寄りつかれなかったみたい。」「どうなってしまったのかしらねー。先生、私達の小学校の校医さんだったけど、その当時は、とても仲良さそうにお見受けしていたけど。気さくな、良い先生だったじゃないの。子供さん達だって、当時は随分可愛がっておられた気がするけど。」「お金が出来たからかしらねー。医院を新築されたころから、いろいろあったみたい。お金もあんまり入ってくるようになると、却って不幸を呼ぶのかもしれんねー。うちらくらいの、貧乏人が、一番幸せなのかもしれん」「そういえば小母ちゃん、あそこに長い事勤めていらっしゃったから、ある程度事情知っていらっしゃるんじゃない?先生の亡くなられた後も、ずっと奥さんとは親しかったんでしょ。」「特に親しかったというわけじゃないけど、他の人よりはね。でも他所の家のことは、あんまり人様に話す事じゃないから」「少しぐらいなら良いでしょ。ねー。教えて、教えて。もう奥さんも亡くなってしまっておられる事だし。子供さんたちだって、もうこちらに住んでいらっしゃらないのだから、いいでしょ。」
その2(以下小母ちゃんの話)
あそこ、ご夫婦は恋愛結婚で、奥さんは、先生がたまたま当直のアルバイトに行っていた先の看護婦さんだったそうです。その時、良い仲になってしまって、結婚されたのですが、先生のほうの実家はかなりの旧家でしたから、中学校を卒業しただけ、準看の資格しかもってない奥さんとの結婚は、随分反対だったようです。先生の方も、子供が出来てしまったから、やむを得ず結婚されたみたいなところもあったようで、「そこからもうボタンの掛け違いが始まっていた」と何かの拍子に先生がぽつんと言われたのを聞いたことがあります。
ファニーフェイスで、少し舌足らず、間の伸びた、甘ったるい話し方をされる奥さんは、小柄なだけに、若い時は、さぞかし可愛かったろうなと思わせる方でした。幼い子供のように甘えん坊で、人に頼り、なんでも人にやってもらおうとされるその性格も、若い時は頼りなげで、可愛らしくみえて、男心をそそったであろうと思われます。若いときは、何をしても何を言っても、その可愛さゆえに許されました。しかしそういった性格も、年を取り、董(とう)が経ってまいりますと、通用しなくなってまいります。一緒に生活し、事業をし、子育てもしていかねばならないようになってまいりますと、その裏返しで、そのとき良いと思ったことが、全て鼻についてまいります。間の伸びた話し方は、忙しくて気が立っている時など、いらいらさせられます。語調の甘ったるさも耳障りです。無邪気に思ったことをそのまま口に出されるその性格は、デリカシーのなさに映ります。まして、何事にも人頼り、人にしてもらうのが当たり前で、人の為、何かをしようとする気持ちや、返す気のない人との生活は、吸い込むだけの、ブラックホールと向き合っているようで、エネルギーばかり消耗し、草臥れてしまいます。内気で大人しそうに見えたその人柄も、愚図で頭の回転が鈍く、直ぐに反論できなかっただけで、反論しなかった分、内に篭らせていて、いつまでも執念深く、ネチネチといい続けるから、もっと厄介でした。
その3
一方、先生のほうはと申しますと、社交的で世話好き、一見した所、豪放で快活、仕事熱心なとてもいい先生のように見えます。所が、中に入ってみますと、実は我侭で、短気、頑固で、思うように出来ないと、直ぐいらいらし、一旦言い出したら聞かないという所がありました。女性に対しても、とても優しいのですが、それは他所ゆきの顔で、他人の女性に対しては誰にでもそうだというだけでした。寂しがりやで、気が多く、母親の温もりを求めて彷徨う、掴まえ所のない愛の旅人のような所もありました。したがって奥さんは奥さんで、掴まえ所のない主人の愛を求めての格闘の日々や、彼女の能力を超えた、家事や子育てに対する過剰な期待や要求、怒りっぽさ、頑固さ、そして何時も上から押さえつけるような話し方、言い出したら聞かない性格などに、次第に草臥れてしまいました。そもそも彼女は、幼児みたいな性格の人でしたから、子どもを産んだ事自体が、ミスマッチだったのです。奥さんは男性から愛され、王女様のように傅かれる(かしずかれる)生活を夢見て結婚してきたのです。ところが彼女が直面した実生活は、そんな甘いものではありませんでした。家事、子育て、主人の手伝いと、毎日、毎日が格闘であり、戦争のような日々です。段取りも、整理もあまり得意でない彼女は、何をするにも鈍く(のろく)、間違えたり、もたもたしたりしがちです。家の中も乱雑にし放題になっていて、全く片付いていません。そんな彼女に対して先生は、いらいらしどおしで、途中で取り上げ、自分でやってしまったり、口を出したりします。何事も先生の思い通りに、てきぱきとできない彼女に、いらいらして、腹をたて、人前も構わず怒鳴ったり、罵倒したりもされました。もともと日常の雑用処理が苦手な彼女が、がみがみ責められる物ですからたまりません。怒られているうちにだんだん萎縮してしまい、自信を失い、ますます間違えるようになったばかりか、しまいには一人では何も出来なくなってしまったのです。
又一言ごとにいろいろ言われているうちに、思っていることを、口にする事もできなくなってしまいました。楽しくて、親切、頼りがいがあると思って嫁いで来た先が、頑固で横暴、口うるさい専制君主の所だったのですから、奥さんはたまりません。しかし彼女は離婚しても帰る先もありませんでした。耐えるしかありません。その為、そうしたストレスもただただ我慢しておりました。しかしそうした我慢をしているうちに、自信をなくし、心まで病んでしまいました。
医院を新しく建て替えた頃には、閉じこもりのような状態になっていました。夫婦の間の会話も、途切れがちになりました。対人恐怖症のようになり、知らない人と話す事を極端に怖がり、外にもあまり出られなくなり、家に引篭もりがちで、人とのお付き合いも、ごく親しくしている人以外とは、ほとんどなくなってしまいました。開業した当初は、夫婦ともに、まだ若く、互いに愛情も残っており、仕事に対する情熱もありましたから、脇見をしたり、余分の事を考えたりすることもなく協力して、何とかやっていたのですが、仕事の方が軌道にのり、子供たちの手も離れ、医院も新しく立て替える事が出来るまでになってまいりますと、お互いの欠点ばかりが目に付き、我侭が出てまいるようになりました。それでも、それまでの愛情の余熱と、二人で始めた家業への情熱、子供への愛着による妥協と我慢の産物として、しばらくは外見的にはとり繕える程度に、なんとか成り立っていましたが、それも時間の問題で、時と共に亀裂が広がっていったのでした。それぞれが自分の生活を追い求め、相手の非を責めました。奥さんの方は無意識のうちに、ご主人の横暴と、頑固さに対する抗議だったのでしょうか、内に篭もってしまい、心を病んでしまいました。絶えず不定愁訴(註:不定愁訴とは頭が重いとか、頭が痛い、腹が痛い、胸が苦しい動悸がする、心臓が苦しいなどなどの、いろいろな症状を訴えるのに、その割に、それに相当するきちんとした身体の異常が見つからない訴えを言います)を訴え、何もかも主人とお手伝いさん任せにして、自分は何もしなくなってしまったのです。一方先生の方は、家庭内で癒されない心を癒そうとするかのように、時間があると出歩き、週末になると、毎週のように海外に出かけるようになりました。そちらで、女漁りに精をだしておられるという、もっぱらの噂でした。こうして夫婦の間はまったく冷え切り、下のお子さんが高校に行かれるようになった頃には、二人の間の会話もなくなり、生活の便宜と世間体のためにだけ、一緒に住んでいるといった感じのご夫婦になってしまっていました。
その4
こうした家庭環境で一番被害を受けるのは、いつの世でも子供です。子供達は、物心つくようになってから、家庭内で父や母が笑って会話をしている姿をみたことがありませんでした。一家団欒とか楽しい家庭という物を、知らずに育ってきました。母親は家の事、自分の事で精一杯、子供たちにまで手が回りません。従って優しくて家庭的な母親像は、あこがれても持つことはできませんでした。子供たちの身の回りに気を配ったのは、お手伝いをしていた私(小母さん)と先生でした。先生は短気でとてもうるさい人ですが、細かい気配りのできる人でした。子供たちが幼かった頃はとても可愛がり、気の付かない母親に代わって一生懸命、子供たちに気を配っていました。しかしなんといっても、仕事をもった男親の事、どうしても細かい所まで行き届かず、子供達は寂しい思いをしたことも再々でした。又短気で頑固ですから、子供たちの言い分なんか何も聞いてくれません。一方的に自分の意見を押し付け、それが聞き入れられないと、怒り、怒鳴りつけて言い分を通そうとされました。こんなとき、普通の家庭なら母親が緩衝役となって間を取り持って、うまく収めてくれるのでしょうが、彼女たちの家ではそれがありません。直接ぶつかることになります。子供が成長し、自我が発達してくるにつれ、当然のようにぶつかり合う機会はますます増えます。しかし一方的で、反論、反駁を許さない父親の横暴は、反論が許されなかっただけに、子供たちは一方的に傷つきました。そしてこうしたことが度重なっているうちに、親子の間には、修復不可能なほどの溝が生じてしまいました。長女は家庭での満たされない愛の寂しさを紛らせかのように。(親の愛情の)代償を外に求め、放課後自宅に帰らず、巷を遊んで歩くようになっていきました。最初のうちは同じように、家庭に不満を持つ女友達と遊び歩いていただけでしたが、高校3年生になったころからは、男友達ができ、その子達と遊び歩くようになりました。そしてそうこうしているうちに、飲みに行った先のバーテンと懇ろ(ねんごろ)になり、同棲するようになってしまったのです。彼女は高校3年も終わりごろになると、殆ど家に寄り付かなくなり、卒業式への出席も妊娠5ヶ月の子供を腹に抱えて男の家からといった状態でした。
長くなりますから、二回に分けさせてさせていただきました。次回は2週間後 位に掲載させていただくつもりです。
なお、次章に、こういったコレクションに対する私の思いが綴られておりますから、できましたらそこまでお読みいただきたいと思っております。