No.93 お婆さんの昔話 弘法さまの話 「幸せの泉、悲しみの泡(あぶく)」  

註:①この話はお話を聞いてから、日が経っておりますので、うろ覚えの所も多く、全てが伝承に基づくものではありません。
②今回は夏休み、お盆、特別読み物として、仏様にちなんだ私の故郷の昔話を掲載させていただきます。

 

はじめに

先日お手伝いのおばさんが、「お嬢さん、今日は弘法講の日だから、お昼少し前で失礼させてもらいます。」と言われました。
もうとっくに忘れてしまっていた懐かしい言葉に、「エッ、今でも弘法講なんてやっている所あるの。」と聞きますと、「何を言っているのですか、お嬢さん。この辺は今でも弘法様を信じている人が結構いらっしゃって、毎月21日には、あちらこちらの家で、弘法講をしておりますのに。」という返事です。
「フーン。で、お参りすると,何か良いことあるの。」と聞きますと、「その家にもよりますが、今日お参りする所は大変なご馳走が出て、いろいろなものが貰えるという話ですよ。」と言われます。
「それで、お賽銭はどれくらい上げるの。」「それがねー、お嬢さん。皆いろいろな事を言うので困っているのです。『今日、行く所は、大変なご馳走が出るそうだから、5千円くらいは持って行かねば。』などという人もいましてねー。いくら持って言ったら良いでしょうねー。」とおばさんは考え込んでいます。
「そんな物、気は心だから、いくらだっていいんじゃない。」と言ってから、ふと、私がまだ小学校に上がったばかりの頃の事を、思いだしました。
それは父の実家である祖父の家に行った時の話です。祖父の家より4,5軒上手にあった家の軒先に、弘法様の幟旗(のぼりはた)が立ち並んでいて、子供や、大人たちが時々入って行くのをみつけました。
何をしているのかなと思って、覗いて見ますと、それに気付いた、こじんまりしたおばあさんが、中から、手招きして呼びます。仏壇の前に座って、お袈裟(おけさ)のようなものを身に着けていた、その老女は、頭は真っ白、顔は皺だらけ、少し腰が曲がっていて、子供の私には、もう百歳近くにもなるような大婆さんのようにみえました。
しかし今から思いますと、失礼な話で、本当はまだ50歳くらいの若さだったかもしれませんが。そのお婆さんが、「おじょうちゃん、こちら、こちら。よくお参りしてくださいましたねー。まず弘法様にお参りしてください。」と言われます。
見ていますと、私より先に来ていた人達が、順に、仏壇の前に座ってお参りしては、お座敷の方へと入っていかれます。そして、お参りするときには、皆さん、幾ばくかのお金をお供えしてから、お参りされておりました。
そんな気がなく、準備もしてこなかった私が、困って、もじもじしていますと、「お嬢ちゃん、気にしなくてもいいのよ。こう言う事は、気は心だから。持っていなかったら、ただお参りしてくださるだけで良いの。」「良かったら、後、ありがたい弘法様のお話をするから、聞いていってくださいね。」と言って、お菓子袋を渡してくれました。
なんだか、ただで貰っておいて、そのまま帰ってしまうのも、悪いと思った私は、その後、他の人達に混じって、そのお婆さんから、弘法様のお話を聞かせてもらうことにしました。

 

その1(おばあさんの話)

昔々、大昔、このあたり一帯見渡す限り、まだ沼や葦(あし)や潅木(かんぼく)の茂る湿地や荒地ばかりが広がっていて、この地の主なる住人は、狐、狸、鹿、川獺(かわうそ)、野兎といった獣達が主だった頃のお話です。長良川川沿いにあるこのあたり一帯は、その頃は、少し、大雨が降り続くと、あふれ出る川の水によって、直ぐに水浸しになり、土地の大半は水の中に沈んでしまっていました。
しかし、そんな土地にも、いつしか人が住むようになりました。地頭同士の争に巻き込まれたり、地頭の取立ての厳しさに、住んでいた村を棄てたり、なんらかの部落内のトラブルに巻き込まれて、それまで住んでいた村を抜けでてきたりした彼らは、その湿地帯の中、所々に見られる、広葉樹の茂る、少し小高い岡を選んで、そこに住みつくようになりました。彼らは、やがて協力して、その岡に、更に土を盛り上げ、より高くより安全な所に家を建てるようになっていくと同時に、周りの荒地を耕したり、湿地を埋め立てたりして、耕作地を作り、用水路を整備し、それら全体を取り囲むようにして、土手を築き、土手に囲まれた中で生活しておりました。
しかしその当時の土手は、まだ低く、弱く、このため、少し雨が降り続いて、川の水嵩(みずかさ)が増してくれば、簡単に切れてしまったり、土手を越して輪中のなかに水が流れ込んできたりして、直ぐに水に浸ってしまっておりました。従って、大水や台風によって、折角育てた作物の収穫が、殆どなくなってしまうような年も少なくなく、その生活はその部落の長(おさ)と言っても、決して楽ではありませんでした。
そんな土地でしたから、そこで一人だけで生きていくのはとても難しく、人々は肩を寄せ合い、もたれあうようにして生きていました。そのため、部落の人間同士の結びつきは非常に強く、喜びも悲しみも分かち合い、苦楽を共にしているようなところがありました。部落内の協力を乱すような事件が起こった場合だとか、災害、部落の外から攻撃のような、部落の存亡にかかわる様な事件が起こった場合などは、長(おさ)を中心として、皆で一致協力して、事に当たっておりました。土堤の補修、補強、延長だとか、中州の中に張り巡らされた用水路の整備だとかの工事も、神事、仏事、冠婚葬祭などの行事も、部落全員が参加する決まりになっており、それを抜けたり、参加しなかったりするというような事は、よほどの事情がない限り、許されないことでした。それがそのような環境の中で、人々が生き抜いてくることが出来た理由でしたが、反面、その事の為に、時に大きな悲劇を生むこともありました。
部落民総出での工事だとか、大切な行事への不参加などといった、部落の人々が団結して生きていく上での、絶対的に必要な行事への不参加に対する、咎めだては仕方がないとしても、それ以外にも、隣近所への挨拶の仕方だとか、お隣との付き合い、近所とのトラブル、恋愛とか、結婚などといった個人的な問題にまで、長を始めとする部落の有力者達の目が光り、彼らの恣意的な意見や、有力者たちの力関係とか、部落の慣習に従って、決められていき、結果として不条理な干渉を受けたり、故のない咎めを受けたりする場合が少なからずあったからです。
共同井戸の使用禁止だとか、用水の利用制限、耕作地の取り上げ、或いはその一部削減、村八分(こうなりますと部落内の全ての行事から締め出され、何をするにも誰も手伝ってくれませんし、近所の人から挨拶もしてもらえません。)、更に厳しい場合は村からの追放などといった咎めがまっているわけですが、このような咎めは、この土地で生きていく者にとっては、とても厳しいものでした。
しかしながら人間の社会、必ずしも理非曲直(りひきょくちょく)の理に従って動いているものではないというのは、今も昔も同じことです。部落内での序列や、力関係に引き摺られて、事が決まっていってしまうことも少なくありません。そのため、弱い立場や、力のない人間が理不尽な目にあわされ、泣かされる場合も少なからず出てまいります。そしてそこに、いろいろな悲劇が生まれてくる素地がありました。

 

その2

川の浮き州のようなこの土地は、家の周りには、長良川の支流から引き込んだ用水が流れ、少し掘り下げるだけで、どこでも、そこには綺麗な水が湧いてまいりますから、よほどのことがない限り、水に困るような事はありませんでした。
所がその年の夏は違っておりました。既におかしなことは、3年程前から起こり始めておりました。いつもは必ずといっていいほど年に、3、4回はやってくる台風が、この3年間は全く姿をみせませんでした。毎年、春先になるとやってくる、雪解け水による、川の増水も、此処2年ほどの間は、さほどでもなく、この年に至っては、頼みの梅雨さえも、殆ど空梅雨で終ってしまいました。
この為、長良川では、本流そのものの水量さえもが、めっきり減ってしまいました。あんなにも満々と水を湛えていた長良川が、今では川床を、えぐるように流れていく、小さな川幅の流れに変わってしまっていました。この為、川の水位が下がり、支流に水が流れ込まなくなってしまいました。
用水路への水の供給を絶たれた部落では、田畑は干上がり、湿地もすっかり乾いてしまって、ひび割れ、稲も、葦も、雑草までもが枯れ果ててしまいました。僅かに涸れ残った沼も、どんどん水が少なくなっていき、今では泥水の溜り場程度となり、魚たちも、僅かに残っている水の中で、苦しそうにぷかぷかと表面に浮いてくるようになってしまいました。井戸も、すっかり涸れ果て、井戸底に敷き詰められた砂利が、白い石肌を曝しているだけでした。
住人達は、日々の生活用水だけでなく、その日の飲み水にさえも事欠くようになってしまっていました。

 

その3

その年の、夏の盛り、ある昼下がりの事でした。
一人の旅僧がその部落に立ち寄りました。破れ編み傘を被り、ボロボロで土埃にまみれた法衣を纏った(まとった)その僧侶は、よほど遠い所から歩いてきたと見え、足を引き摺り、引き摺り、杖にすがりつくようにして歩いてやってきました。
よく見ると彼の足につけている草鞋(わらじ)は長い道程の使用に、半分ほどに擦り減り、足からは赤い血が滲み出ております。顔は日焼けして斑(まだら)に赤黒く、長く伸びた無精髭に覆われております。人相は定かでありませんでしたが、編み笠の下から覗いている瞳は、なんともいえない優しい光が宿っていました。
僧侶は、よほど喉が渇いていたと見えて、部落に辿り着くと直ぐ、部落の取っ付きにある一軒の農家を訪ねました。一番低い場所に建てられていたその農家は、一間(ひとま)あるかないかの小さな小屋で、もう長い間、葺き替えてないと思われる萱葺き屋根には、草や苔が茂り、軒は傾き、壁はところどころに小さな穴が開いております。戸板のなくなった入り口には、その代わりとして、葦(あし)の束が立て掛けてあるだけでした。
「御免ください。」と声を掛けましたが、家の中からは、なんの返事もありませんでした。「御免ください。お邪魔させてもらいますよ。」ともう一度、声を掛けながら、入り口を潜った、その家の中は、薄暗く、あちらこちらに開いた壁の小穴から洩れ入ってくる光が、物の影を仄かに浮き上がらせておりました。
僧侶の挨拶の声に応じて、部屋の片隅に敷かれた、藁の上が微かに動き、しわがれた弱々しい声が返ってきました。しかしその声は不明瞭で、何を言っているか最初は聞き取れませんでした。そこで僧侶はもう一度案内を請いました。すると、「どなた様ですか」という力ないしゃがれ声が戻ってまいりました。
「私、今まで、仏様とのご縁が薄かった地方の方々にも、仏様とのご縁を結ばせて頂くことを発願して、全国を行脚している、空海と申す、旅僧でございます。ここまでまいりました所、喉が乾いて、どうにも、足が進まなくなくなってしまいました。仏様のお慈悲に免じて、一杯の水をお恵みくださいませんでしょうか。」と僧侶が申しました。
すると大儀そうに藁床の上から立ち上がった女が、「それはお気の毒な事でございます。しかしお恥ずかしいことに、こんな有様でございますから、私どもでは、今のところ、あなた様に差し上げられるようなお水は、切らしております。ほんとうにごめんなさい。」と申します。
「そうですか。それは残念です。ほんの一口だけでもよかったのですが。」とチラッと水がめの方に目を走らせながら、僧侶は、いかにも辛そうに、足を引き摺りながら、出て行こうとされました。
すると女は、「さぞやお疲れでございましょうに、ほんとに申し訳ありません。お見掛けのこの甕は、下の沼から汲んできたばかりの水でございますから、まだ泥も塵も浮いていて、とても飲み物として、お坊様に差し上げられるような代物ではございません。しかし折角、お暑い中を、お立ち寄りいただいたのでございますから、こんな汚い所でございますが、此処で、しばらく、お待ち願えますか。お隣へ行って、飲み水になるお水を貰ってまいりますから。」「なお、その間、せめて、おみ足など、お浸しになって、旅のお疲れを、お休めになっていて下さい。」と言いながら、甕の水、それは濁った泥水でしたが、それを木桶に移して、僧侶に差し出しました。
それから女は、覚束ない足取りで、表へと出ていきました。女の髪は白く、ザンバラで、頬はコケ、顔は皺だらけ、手足は木の枝のように細く、腰もずいぶん曲がっております。目は両眼ともに、目脂で殆ど塞がっており、いかにも不自由そうです。彼女は瓶を抱えながら、よろめくような足取りで歩いていました。

 

その4

しばらく待っておりますと、老婆が、戻ってまいりました。部落の長(おさ)も一緒でした。
片手に水瓶、もう一方の手で老婆の手を引きながらやってきた村長(むらおさ)は、「これは、これは、お坊様、こんな辺鄙な所にまで、お立ち寄り下さいまして、まことに有難い事でございます。又先ほどは、ちょうどこの婆の所が、水を切らしておりましたようで、失礼しました。ただこんな状態でございますから、私どもでも、以前のような美味しい水はきらしております。すこし水苔の臭いが混じっているかもしれませんが、これでお許し下さい。これでも、今朝、若い衆が、長良川の真ん中まで行って、汲んできたばかりの水でございますから。」と言いながら、お水を差し出しました。
「ありがとうございます。いえいえ、本当に美味しいお水でございます。お陰で生き返ることが出来ました。あなた方に仏様のご加護がございますように。」と押し頂きながらその水を飲んでいる僧侶に向って、「それで、ついでといっては、なんですが、折角お立ち寄りいただいたのでございますから、此処3年ほど前からこの地方を襲っておりますこの大旱魃(だいかんばつ)を払う、ご祈祷をお願いしたいのでございますが、いかがでしょうか。」と村長は続けます。
それを聞いた僧侶は「お安い御用でございます。今宵の間に準備を整えまして、明朝、早速お祈りをはじめさせていただく事にしましょう。」「所で、この大旱魃を引き起こすような原因に、何か心当たりになるようなことはありませんでしたでしょうか。この大災害が来る前に、この部落で何か不吉な事が、あったのではないかと思われるのでございますが。」「実は、拙僧が此処に立ち寄りましたのは、この近くを通りました際、未だ、浮かばれない魂が二つほど、拙僧を呼び止めるように感じられたからでございます。」
「もしありましたら、包み隠さず、全てを、お話くださいませんか。その魂を成仏させてやらない事には、この部落が、この災厄から逃れる事は、難しいように思われますから。」と申されます。
それを聞いて驚いた長は、「やはりさようでございますか。確かにこの大旱魃が始まる前の年、可哀想な事件があり、若い男女が死んでおります。この件は、とても込み入っておりまして、一言では、お話できません。私方でゆっくりお話させていただきたいと思いますから、ここは、一先ず、私どもの家にお出で下さいませんか。なおこのお話、私どもの部落だけではなく、お隣の部落も関係しておる話でございますから、お隣の部落にも、明日のご祈祷には、お参りしていただかねばと思っております。
不幸な事に、隣の部落とは、長年不仲でございますから、私どもの招待だけで、はたして来てくれるかどうかわかりません。しかしともかく案内だけは出してみるつもりでございます。出来ましたら、お坊様の、添え状もいただきたいと思うのでございますが。」と申します。

 

その5

その夜、村長(むらおさ)は、自分の家に泊まってくれた、僧侶に、その部落と隣部落の間に起こった長年の諍い(いさかい)と、それに巻き込まれて死んでしまった若い二人の、悲しい恋のお話を聞かせました。
今から4年ほど前のことでございます。先程のよし婆さんの所に、おみよと言う、とても器量良しの、娘がおりました。
彼女の両親は、彼女が幼い頃、流行り病で亡くなってしまい、残った彼女は、祖母のよし婆さんに育てられました。
よし婆さんのところ、元は、この部落で、まあまあの家柄でしたが、流行り病のとき、ご亭主も、息子夫婦も、一緒に亡くしてしまって、残されたのは、当時40才そこそこだった、あのおよしさんと、乳飲み子だった、孫娘のおみよだけでした。
こんな土地です。乳飲み子を、女手一つで育てていくのは、並大抵の苦労ではなかったと思います。それこそ身を粉にして、朝から、晩まで働き続けていました。しかし、いくらおよしさんが頑張っても、乳飲み子を抱えた女です。力仕事では男にかないません。このため、村の工事に参加しても、一人前には出来ません。またご主人のいた頃ほどの田畑からの実入りもありませんから、祭りなどの行事への寄付金や、お上への年貢米なども、割り当てどおりにすることが困難でした。
こうした不義理が重なっていった結果、最初は同情し、いろいろ助けてくれていた部落の連中も、次第に足手纏いに思うようになりました。
何しろ、皆、自分の所が食べていくのが精一杯の土地でございます。およし婆さんの所が、支払うべき負担を、他の皆で背負わねばならないという事になりますと、しかもそれが重なってまいりますと、不満を言う輩も増えてまいりました。
先に言いましたような事情で、それも止むを得ないことではありましたが。しかしあの家族には本当に可哀想な事をしました。
私たちのような(農耕)部落では、多くの事柄が、どちらかというと、寄り合いでの、話し合いで決まっていきます。
従って、声の大きい人間、どちらかというといつも意見をリードしているような人達が徒党を組んで、強く言い出しますと、他の者は、後々のことを考え、どうしても黙ってしまいがちです。そのためどうしても、声の大きい人間の意見が、部落の総意として決まってしまいます。
長といいましても、こうなりますと、どうしてやりようもございません。せいぜい個人的に多少支えてやったくらいでございます。それも、こんな土地でございますから、お恥ずかしい程、不十分にしか、できてはいません。
その後も彼らは、何かと難癖をつけては、彼女たちの田畑を耕す権利を削っていき、住む所も、彼女たちの貧しさに付け込んで取り上げ、結局、今見られますような、掘っ立て小屋での、食うや食わずの貧しい生活へと陥れてしまったのでございます
孫娘、おみよは、幼い時から、とても利発で、感心な娘でした。およしを助け、幼い頃から、荒地を耕すのを手伝ったり、私の家の家事を手伝いにきたりしていました。
しかしそれだけでは、二人が生活するにはとても足りません。そのため、少し大きくなった頃から、遠い湿地の方まで出かけて、木の実や、草の実を集めてきたり、茸を採ってきたり、川や沼地から、蜆や、からす貝、鯉やフナ、ハヤ、鰌、鰻などを獲ってきたりして生活の足しにしていました。

以下次号に続く