一丁あがり、モダンタイムス時代の結婚式

 先日友人の娘さんの結婚式に招待され、参列してきました。
このお二人そもそもはお見合いでお付き合いが始まった話なのですが、お付き合いをするようになりましたら、どういうわけか相手の男性のことを新婦側の母親すなわち私の友人が気嫌いしまして大反対、今日のよき日を迎えるにいたるまでには、あくまで反対する母親とこの男性と結婚したいという娘との間で泣くわ、喚くわの大喧嘩、一大騒動があったかに聞いております。
その余韻が残っているためか結婚式に出席している新婦の母親(私の友人)の表情は尚硬く、新婦と新婦の両親の間は、なんとなく他人行儀で、まして相手の新郎側との間には、冷たい空気の壁が立ちはだかっているように感じられました。
何しろ友人は今なお「私は許していないのだから」と息巻いておられるのですから。 
                                
当日はお日柄もよかったせいか、ホテルは結婚式やその披露宴に参列する着飾った人々の群れで華やかさにあふれていました。友人の話によりますと、何でも結婚式場には寸刻みの予約が入っているので、そのつもりでお願いしますといわれているそうでした。
宴会場の並ぶ階の廊下にはあちらこちらに、受付の机が並んでおり、その周辺と会場入り口あたりのベンチにはそれぞれの披露宴への参加者とおもわれる人々が立ったり座ったりして屯(たむろ)しており、時々あがる歓声は結婚式を終えて披露宴会場の前に姿を現した式を終えたばかりの花嫁、花婿を迎える声です。

 友人の娘さんの結婚式はそのホテルの中のチャペルで行われました。こんな波乱の道をのりこえて、やっと結婚にこぎつけた結婚式にもかかわらず、結婚式の式そのものは、なんの変哲もない、ありふれたキリスト教的式次第(しきしだい:式の順序)で、新郎新婦入場から始まり、賛美歌、聖書朗読、祈祷、式辞、誓約、接吻、指輪交換、署名、祈祷、宣言、音楽、退場と続き、ベルトコンベアーに乗った工業製品のように、型どおりにのっとって、一組の夫婦誕生ということになり終わりました。その間約40分、賛美歌斉唱だって、牧師さんの式辞だって全く型どおりでした。
 チャップリンが主演したモダンタイムスは、機械文明と資本主義社会を痛烈に風刺した名作喜劇で、大きな工場で働くチャーリーは、毎日同じ機械を使って単調な仕事を続け大量生産するわけですが、パターン化されたその結婚式は、まさしく大量生産時代の申し子みたいなものでした。
 参列者の誰もがキリストの教えを信じていないにもかかわらず、真面目な顔をして賛美歌を歌い、牧師のお祈りに合わせて祈る姿は、ちょっとした喜劇です。宗教を信じていない今日の若い二人は、いったいどなたに変わらぬ愛を誓ったのでしょうね。今日だけでもこのホテルで十何組かのそして日本中合わせたら何千組何万組かの新夫婦がこうした形で誕生させられていったわけです。

 旧約聖書では、神様が人間に、「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」と命ずる訳ですが、神様のタクトにあわせて、オートメーションのように、ベルトコンベアにのって、次々に新しい夫婦がつくりだされていく神様の国の様子を想像していましたら、不謹慎な話ですが、厳粛であるべき結婚式の最中であったにもかかわらず、笑いをこらえるのに苦労しました。
しかしいつから結婚式がこのように型どおり、形式ばったものに変形していってしまったのでしょうね。
本来厳粛であるべき神前での夫婦の契りの誓いが、心を失い、型に従って量産されていく、新夫婦生産の一工程に過ぎなくなってしまったのは、本当にいつの時代からでしょう。
 それにしてもこのような旧態依然とし、パターン化している、しかも日本の風習、宗教とは全く無関係な結婚式で満足している、若い人々というのはどういうつもりなのでしょうか(本当のキリスト教徒は別としまして)。親と同じように保守的なのでしょうか。創造力とか、個性というものがなく、夢もないのでしょうか。はたまた何も考えていないのでしょうか。それとも結婚式は、家と家との結びつきだからと、「無難」しか選択できない親たち、そういった親達の意見に逆らえないであきらめているからなのでしょうか。

 若い二人にとっては人生最大のイベントともいうべき結婚式を、人の意見に流され、周囲の思惑に左右され、結局は「無難」を選択してしまう人たちの気持ちがどうも理解できません。今日結婚した娘さんにしましても、私の見るところ平凡な考えの女性ですからこういった結婚式でも不思議ではないのですが、ご主人になられた男性は、この人、以前、少しお話したことがあるのですが、とても独創的な考えの人で、結婚式についても、夢ときちんとしたビジョンをもっていらっしゃいました。それにもかかわらず、結局は旧態依然とした形式的結婚式と披露宴を行うことで妥協されてしまったのにはチョットがっかりです。

 確かに彼のうちは由緒ある旧家で、彼は4代目かを継ぐことになっていますから、披露宴はそれなりの形式が必要であったであろう事は理解できないでもありません。しかし結婚式くらいは、もっと個性的なもの、より心のこもった物をされるのではないかと、期待していただけにがっかりしました。何しろ新婦の母親の猛烈な反対を押し切り、揺れ動く新婦の心を引っ張り、新婦側の無礼を憤る(いきどおる)自分の親たちを宥め(なだめ)、説得し、普通ならとっくに破談になっていてもおかしくなかったような、この出会いを結婚にまでこぎつけたような強い意志の持ち主の人でしたから。もしかしたら、平凡で常識的な新婦の意見に引っ張られ、平凡を選択されたのかも知れませんが。
それにしても披露宴もひどいものでした。何しろ新郎側の来賓は新郎の家の商売に関係する企業のお偉方ばかりですから、出てくる人でて来る人、皆その祝辞は、自分の企業の宣伝半分、新郎の企業との結びつきや新郎の企業の将来性や賞賛ばかり、聞いているほうはたまりません。従って参列している人たちは話している本人以外はもううんざり、誰も聞いていないようなありさまでした。

 そうでなくてもこの結婚に不満な思いのある新婦側の身内の人々は、しらけきってしまい、宴の最中にもかかわらず、披露宴のあり方から始まって、最後は新郎のことまでも散々こき下ろしだす始末です。特にひどかったのは、新婦側の身内の誰かがいった、
「なによ、これ、美女と野獣の組み合わせよね」
という新郎に対する酷評です。
 でも「野獣」の正体は、素敵な王子様のはずですよねえ。

 ちょっとがっかりするような披露宴でした。どうせ最初から心より祝ってもらえないことは解っていたはずですから、披露宴はまあ旧家の対面のためと、商売上のお付き合いのために、このような形式でも仕方がなかったかもしれませんが、結婚式くらいは、自分たちの意思を通し、「新しい門出は、少人数の人でいいのだから、心から喜んでもらえる人たちだけに祝ってもらいたい。二人の心に永久に残るような結婚式にしたい」とどうして強く主張されなかったのでしょうね。
ここでふっと思ったのですが、伝統と創造の「相克」(そうこく)ということです。
相克とは、対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うことなのですが、伝統と創造が、争っています。結婚式といった、個人的な、そしてこの程度のイベントですら、それもそれほど長い歴史をもっていない伝習であるにもかかわらず、それが普遍化しているとき、それを破壊し、新しいものを創りだしてくることはこんなにも難しいものなのです。
 これが日本の伝統芸能とかいろいろな日本画等のように、長い歴史の経過の中で培われ、伝えられ、一定の様式の中に、がちがちに固まってしまっているものである場合、それを時代にあった新しい芸術に変えていくということ、そこから離れて全く新しい芸術を産み出してくると言うことが、いかに困難であるかということを、身体で感じさせていただいたような気がしました。
もっともそうは申しましても、世の中長い歴史の経過の中では、変わらないものはありません。中村正義、村上隆を始めとする会田誠、天明屋尚、山口晃、鴻池朋子などの絵画は、欧米絵画の物真似から脱し、日本画風の様式をふまえながら、伝統的な日本画とは全く異質な、汎地球人化した現代の感覚にあった、日本発の新しい現代絵画を生み出してきているように思われるのです。