隣に誰かがいてくれても、しょせん人間ってひとりぼっちかも

以前、ニューヨークで米国の友人達と会ったときのことです。

友人の一人が恋人と連れ立ってこられました。彼と彼女は一見するととても親密そうです。二人は、私たちの話の輪に加わることも無く、二人だけでいつまでも、ぼそぼそと話し合っておられます。
しかし時々小耳に入ってくる話の内容は、それほどロマンチックなものでなく、それぞれの考え方について真剣に議論しあっていらっしゃるようでした。
しばらくして彼女のほうは御用がおありとかで、先に帰っていかれました。
「お仲がよろしいようでいいですわね。うらやましいわ」
と冷やかす私に対して、
「いやー。どれだけ話し合っても、肌を合わせても、お互い本当に解りあうということは無いものですね」
とぽつんと寂しげに言われたのがとても印象的でした。

その当時、私はまだ若かったものですから、人間同士のつながりについてあまり考えたことがありませんでした。
したがって、
「信じあっているどうしなら、話なんかしなくたって、黙ってみつめあっているだけでわかりあえるのに」
などと思っていたものでした。(小室さんと眞子さまのように)

しかしこうして歳をとってきてまいりまして、いろいろな人たちを観てまいりますと、恋人同士でも、結婚していても、親子でも、友人同士でも、お互いを解りあっているという組み合わせは意外に少ないということが解ってきました。
自分たちだけは解り合っていると思っているのは、それは一時の錯覚にしか過ぎないこともままあるようです。
本当のところは、相手のことは全く知っていないということもあるようです。40年も50年も連れ添ったご夫婦が、定年間際に奥様から離婚を言い出されたとか、この人と一緒にお墓に入りたくないなどと、言い出されて戸惑っているご主人のお話を、最近時々聞きますが、これなど言い出されたご主人のほうは、自分の奥様からそんなことを言い出されるとは露ほども思っていらっしゃらなかったのがほとんどだといいます。
そういう人達の場合、ご主人たちは、自分と女房とはお互い解り合っている、少なくとも女房は自分のことをわかっていてくれる、自分のほうだけを向いていてくれると、何の根拠もないのに信じきっていらっしゃいます。
ところが奥さんの方は「飯、風呂、寝る」といった以外は、二人の間にほとんど会話がないご亭主に愛想を尽かし、離婚のチャンスを窺っていらっしゃったとか、他に好きな人が出来悩んでいらっしゃたといった話を時々耳にします。
こういった会話が無いご夫婦の場合などはご主人の思い込みだけの幻想ですから無論問題外です。なにしろ二人の間には、お互いを理解をし合おうとする努力のかけらも存在しない関係だったのですから。

ところが世の中、とても仲がよいご夫婦でも、お互いに理解しあっておられるかというとこれがまた残念ながらそうとばかりいえないのです。

私が子供時代から親しくしていただいていた父の友人のところなど、ご夫婦とても睦まじく、どこに行くのもお二人一緒、いつもお二人べったりで、はたから見ていると羨ましいような間柄でした。
この奥様、不幸なことに50歳くらいのとき、乳がん罹られました。初期というのですぐに手術をされたのですが、残念なことに、その4年後くらいに脊椎への転移が見つかり、その後病院と自宅の間を行ったりきたりしながら、抗がん剤の治療を受けておられました。
しかし結局は肺に転移をおこし、その2年後くらいでなくなられました。この間、ご主人は会社での地位もあきらめ、奥様の治療にいつも付き添っておられ、本当に良く看病されました。お勤めをしていらっしゃった以上、ご主人にもいろいろなことが会社内であったでしょうに、愚痴ひとついわれるわけでなく、毎日毎日お勤めの帰りに病院によって、奥様の愚痴や泣き言に付き合い、痛がるところをなでさすってあげていらっしゃいました。
奥様もご主人のお勤めが終わって帰ってこられる頃になると、
「もう今頃は、そこの角のところを曲がっているころよ」
などといって待ち焦がれておられたといいます。

これほど仲のよいお二人でしたが、奥様の病気が悪化する一ヶ月くらい前のことでした。その日は奥様、気分がよかったと見えて、しばらくの間、話しておられたのですが、そのとき、
「長い間、本当にありがとう。わたし幸せだったわ。でも人間って所詮、生まれるのも死ぬのも一人ぼっちだものね。」
と、すこしさびしそうに漏らされたそうです。
ご主人としては精一杯やってきたつもりでした。彼女は自分のことを全面的に信頼し、愛し、感謝していてくれているものと信じていました。奥さんがそんな風に思っているなんて思っても見なかったことだったのです。
しかし、そういって指摘されてみると、自分のしていること、それが愛情だけからだったのか、わからなくなってしまい考えさせられてしまったといいます。
彼自身、彼女が元気だった頃などは、いろいろと脇見もしましたし、100パーセント奥様だけの方を向いていたとは言い切れない弱みがありました。人間的にも隠している自分の欠点弱みを知っていました。
それだけに、その言葉は胸に痛く響いたそうです。奥様の亡くなられた後の今日でも、時々その言葉が耳に聞こえてきて、奥様がどのような気持ちでそう言われたのかと考えると、
「女房は私のことをどう思っていたのだろう」
「自分は女房の何を知っていたのだろう」と自問自答してしまうそうです。
ご主人の方は奥様の死後までも、奥様の本当の気持ちを測りかねて、苦しんでいらっしゃるのです。

話は変わりますが、先日テレビを見ていましたら、「あかね空」をかかれた小説家井上一力、英利子ご夫妻が出ていらっしゃいました。
ご夫妻はとても仲がよく、一力先生の今日あるのはひとえに恵利子夫人の内助の功が大きかったといわれています。
一方、先生のほうもまた奥様のことを心より愛していらっしゃることが、言葉の端々から窺うことができました。
二人は、傍から見ればお互いを愛し合い、いたわりあっておられる、とてもいい関係のご夫婦のように見えました。
ところが恵利子奥様は
「私この人に片思いなの」
とおっしゃっているのです。
「結局、人は、他の人の考えていることは、例え愛している人の事でも解らない。愛していると思ったものは、相手の中に作った一方的な思い込みによる自分を投影した影でしかない。従って相手が自分の方へ、愛を返してくれているかどうかは、本当のところはわからない。確実なのは相手の中に作り出した自分の影を愛しているということだけだ」
ということなのでしょうか。

人間は進化につれて脳が発達し、言語を発明し発展させました。これによって、日常生活における相手とのコミュニケーションは一段と進歩しました。しかし脳の発達に伴う知能の発達は、より複雑な、言葉では充分に表現しきれない無意識だとか、潜在意識の世界を作り上げてきました(意識の世界でもあまりにも複雑に絡み合い過ぎて、十分に表現できない場合がしばしば生じていますが)。

また、複雑化した思考体系は、観念の世界を作り上げ、嘘、露悪、偽善、隠蔽などといった、真実とは反対の表現をする術を獲得させました。
従って、私達は発せられてくる言葉が、必ずしも相手の真実の姿を伝えるものでないことを知っています。確かに言語は、通常の日常生活のための必要な意思の伝達の手段としては有効ですが、複雑な観念の世界を正確に表現し伝達するには力不足というわけです。
そして、それを自覚したとき、より深い人間の孤独が始まります。
どんなに愛していても、話し合っても、肌を接しても人は他人の心を100パーセント知ることは不可能だからです。
隣に恋人がいても、親子でも、友人に取り囲まれていても、所詮人は孤独なさびしい存在なのです。

しかしそういった孤独の寂しさがエネルギーとなり幾多の芸術作品、たとえば絵画、小説、音楽といったものが生み出し、同じような悩みを持った人々を慰める働きをしているわけですから、人間ってつくづく不可思議な動物だと思います。